スタジオ・ポット
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真実・篠田博之の部屋[番外25] [2001年8月17日]
真実・篠田博之の部屋
[番外25]
 編集部と書き手の関係を論じていくと、原稿の責任を誰が負うかの問題にもなっていきます。
 このことは、このコーナーで既に論じているような気もしますが(すまん、忘れてしまった。読み直すのも面倒)、改めてこの問題を考えてみましょう。
 責任の所在をわかりやすくするために、原稿の権利は誰にあるのかをまず考えてみましょう。今私が書いているこの文章の著作権は100パーセント私にあります。金銭の発生しないインターネットだとピンと来ない部分がありますので、本で考えますが、『亀吉が行く!』の著作権は長田要と私にあり、ポット出版は独占的に本にして販売する権利を長田さんや私から設定されています。これに対する著作権使用料が印税というものです。
 責任はこれに応じて生ずると考えていいでしょう。物としての本という商品に欠陥があったら、本を作ることができるポット出版の責任になるわけです。「クーポン券がついていると書いてあるのについてなかった」「落丁、乱丁があった」「カバーが破れていた」といったようなものです。
 これらは、印刷所、製本所に原因が求められることもあるわけですが、その場合は、ポットと印刷所なり製本所との間で解決することであって、読者に直接責任をとるのはポット出版です。つまり、印刷所、製本所の業務は、本を印刷してポット出版に納品することであり、消費者に販売するのは業務外のことだからです。欠陥車の責任を負うのは車のメーカーであり、部品の欠陥が原因だとしても、部品メーカーが消費者への責任を負うのでなく、車のメーカーへの責任を負うようにです。
 欠陥のある本を売った書店もまったく責任がないわけではなく、だから、買った人が書店に商品を返して交換するなり、カバーを取り寄せるなりの作業を書店はやってくれるわけで、「そんなん、知らねえよ、出版社に直接言ってくれよ」というわけにはいかない。直接出版社から購入した本はもちろん「知るか」でいいのです。
 では、本の内容はどうでしょう。例えば、「松沢が書いている風俗に対する考え方は間違っている」とクレームをつけた場合、主たる責任は著作権者にあるとすべきです。ここが車の部品とは違うところです。というのも、車の部品メーカーは金をもらって、車のメーカーに部品を引き渡した段階で所有権が移り、部品メーカーには通常権利が残らないのに対して、どこまでも本の内容の権利は著作権者がもつのであり、それに応じた責任ももつということになるからです。
 クレームの内容によってもいくぶん違ってくるところがあって、「書店で小学生の息子がこんなエロい本を立ち読みしていた。どうしてくれよう」というクレームの場合は、販売方法にも関わってくるので、書店や出版社にもかなりの責任が生じますけど、主義主張、思想信条つまりは著作権法により著作物として保護される部分に対する批判は、主として著作権者が受けるべきです。
 既に述べたように、境界線はケースバイケースで引かれていいのすが、原則として著作権の範囲に属する作業は著者の仕事で、それ以外は編集の仕事だと私は思っています。私の仕事は取材して原稿を書くこと。編集は本としての体裁を整えること、そして本を売ることです。
『亀吉が行く!』において、例えばお店に関するデータや割引クーポンなんてところは、本の体裁であり、読者へのサービスであり、本を売るための工夫です。ここは編集の領域ですから、「クーポンで3千円割引とあったのに、千円しか引いてくれなかった」といったクレームは、編集の責任になるでしょう。現実には、クーポンをつけようと言い出したのも、店と交渉したのも私ですけど、これは本来編集の分担部分を私が手伝っただけです。編集がやるべき範囲のことを著者がやり、その責任もとらなければならないのは理不尽です。
 取材して、資料を集めて、原稿を書くのは書き手の仕事です。資料集めを編集にやらせて、その資料に間違いがあったために原稿でも間違いを書いたとしても、これは著者の責任です。本来自分がやるべきことを他人にやらせたことが悪いのです。悪いというと語弊がありましょうが、責任は自分が負うことを覚悟して、編集部にやってもらっていると考えるべきです。
                 *
 これに素直に同意してくれる出版関係者は少ないだろうと想像できますけど、かなり近い考えをしている方もおられます。
[前述の小林健治は、マス・コミか差別表現を慎重に検討するのは、マス・コミの社会的責任であることを強調しています。私に言わせればこれは全くおかしな議論です。表現は基本的には著者や発言者の責任であって、メディアは単に発言の道具にすぎませんから、発表された表現に関し原則として何の責任もないのは言うまでもありません。むしろメディアの社会的責任は、様々な意見をもつ著者や発言者の表現をできるだけ正確に伝えることに尽きます。このことに関してはウォルフレンの言う通りです。従って部落解放同盟も表現に関して文句があるならば、直接著者とわたり合うべきです。出版社の社長が言った意見でもない事の責任を出版社に取れというのは完全な筋違いです。出版社に社会的責任をこのような形で取れと強要することは、出版社に著者の意向を無視して表現を曲げる口実を与えることになり、決して好ましいことではありません。実際に著者の表現を曲げることは日常的に行われているはずです。逆に言えば、出版社にこのような形の社会的責任があるぞと言えば、「否(ノン)、そんな責任はない」という出版社はごく稀だと思います]
 この文章は柴田篤弘・池田清彦編『差別ということば』(明石書店)に掲載されている池田清彦氏のものです。ウォルフレンというのは、『日本/権力構造の謎』(1990/早川書房)の著者であり、この本の記述が差別的だとして部落解放同盟が抗議、対して出版社が回収・破棄することを決定し、この処置にウォルフレンが激怒して、公開論争が行われたことが当時話題になりました。小林健治というのは解放出版の事務局長で、この前に引用文があります。
 この本は1992年に出たものですけど、つい数日前に読み始めましたところ、差別問題に限らない非常に刺激的な内容が含まれていました。引用した箇所は、本を読み始めてすぐに出てきたのですが、ここでは差別的な言葉をめぐる責任主体を論じていながら、これはすなわち表現そのものに関する責任の問題でもあります。
 私自身、自分であれやこれや考えていくうちに、今のような考えに至っただけなのですが、このような考えが欧米では一般的だということを、これを読むまで知りませんでした。論理的に考えていくとこうなると思いつつ、自分自身、受け入れられにくい少数意見だと思ってましたから。
 著者は、「基本的に」「原則としては」という条件を慎重につけていますので、例外があることをも認識しているのだろうと思いますが、私も条件付きで、この考えにかなりまで賛同できます。
 既に述べたように、物としての本という商品にまつわるもの、販売方法にまつわるものの責任についてまで、出版社が「そんな責任はない」と言うことはできませんけど、表現の内容に関しては、「責任はない、著者に言ってくれ」と突っぱねてよい。原則としては、です。
「著者であるA氏に文句を言ったところ、納得のゆく説明を受けたので解決した」となればそれまでのこと。「A氏に文句を言ったが、納得できる回答を得られなかった」となれば、今度はこのB氏が雑誌に対して反論権を行使すればよい。その雑誌は、B氏に対して、誌面を割くことで、メディアの責任は果たしており、メディアが謝罪する必要はない。ここで議論が起き、はっきりA氏の間違いが明らかになったら、A氏が謝罪する場をメディアは提供すればよく、メディア自身は謝罪する必要はない。
 メディアとしては、「あんな原稿を書いたA氏に今後は原稿を書かせるのはやめよう」と反省することはあっていいでしょうが、それだけのことです。また、そんな著者の原稿を掲載したということで、雑誌の信頼度は落ちるかもしれません。そういう意味での制裁を受けることはあるにしても、謝罪する必要はない。
 私がポットのサイトで篠田氏を批判したことにつき、篠田氏は私に反論すればよく、ポットには反論を掲載することを求めればよい。これでポットの責任はおしまい。
 仮にポットが責任を問われることがあるとすると、反論を掲載しないことにおいてです。反論権を認めないことのみを批判されるべきであり、表現の責任はあくまで著者にあり続けます。
 何故そう考えるのが合理的なのかというと、ポットのサイトは思想信条をすべて合致させた者にのみ提供されているのではないからです。私が書く事実ひとつひとつにつきポットが裏を取り、ひとつひとつの考えを寸分の違いなく統一した上でサイトに出しているわけではなく、そんなことをすることは不可能であり、すべきでもない。
 私が書いていることに対して、ポットのスタッフは「これは違うだろ」と思っていることもありましょうし、そもそも全員がすべての原稿を見ているわけでもありません。私自身が調べて、考えたことの責任を、同意しておらず、見てもいないポット出版のスタッフがとらなければならいとするのは、私自身、非常に不合理だと思います。従って、ポットのスタッフが、抗議してきた人に同意して、私を非難することもあっていいし、私の立場を弁護することもあっていいのですが、ポットのサイトにおいて公表されたことだから弁護するのでなく、個別に意見を表明していいというだけのことです。
 例えば、ポット出版が、私の書くことに対して、「ここを直して欲しい」と申し入れてきたとします。私も納得して、そこを直したとします。その結果、直したことに対してクレームがつくとします。それでも私が責任を負わなければならない。だからこそ、私は編集部からの申し入れに対し、安直な直しを受け入れるわけにはいかないのです。それを受け入れるのなら、私は私の署名で原稿を書くのでなく、編集部原稿にして欲しいと申し入れることもあるでしょう。事実、そうしたことがあります。私は責任をとれないので、編集部がとって欲しいということです。
 以上が原則です。
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