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3月の出来事・考え事 |
[2003-3-12(水)] 堀渡(国分寺市立図書館) |
一 公共図書館員の特殊性 私は東京近郊の小さな住宅都市の公共図書館員として勤め、二十五年を越すが、その前に約半年ほど大学(音楽学部のみの単科大学)図書館勤めをした事がある。折に触れて短かった前職の時を思い出す。同じように「司書」の資格でくくられ、「図書館員」と呼ばれるのだが、公共図書館員というのは図書館員としては特殊だ、(大江健三郎の初期短編をもじれば)「奇妙な仕事」だ、という気持ちが強い。 他の館種の経験といってもこの程度だし、今の仕事の中から職業的な自己発見を遂げてきたわけだから、ひとりよがりなだけかもしれない。しかし間違っているにせよひとつの職種を続けながらどういうふうに内省してきたのか、その一端を書いていきたい。 私の考えでは、大学図書館にしろ専門図書館にしろ、大雑把に言って、図書館が附属しているところの親機関があって成り立つ、その親機関の目的に添って設置され、構成員の調査研究・学習などのための図書館である。大学図書館や学校図書館は教員が選書をし、これを発注してください、とリストを回してくる。専門図書館なら親機関の研究員などが指示してくるのだろう。あるいは日常は図書館現場が采配しているかもしれないが、あくまでも親機関の趣旨に沿った運営や収書の方向性がある。公共図書館は老若男女の地域住民という、広漠とした対象の利便と楽しみのために開かれている。そして日常的・基礎的な業務として図書館員自身が選書をする、そこのところが変わっている。 私は予断と偏見に満ちて思っているのだが、さまざまな図書館的な施設の中で、公共図書館というのは極めて特殊ではないだろうか。公共図書館員というのは、特殊な図書館員ではないだろうか。多くの職業が経験と学習を通してその道のスペシャリストになるし、その事が求められる。しかし公共図書館員というのは、私の考えでは、ある部分ではいかにスペシャルにならないかに、プロらしさが発揮される。その特殊性の核には、教員や研究職の存在なしに、図書館員が自立的に地域住民のための選書をしている、という部分があると思っている。 二 選書=奇妙な仕事 他人のお金(税金)で他人(住民)が読む本を選ぶ、良かれと思って0門から9門までの全分野の本を選ぶ。スイスイ無自覚に選べる時期はいい。自分の好みと自負で押し通せる時はいい。だが悩み出すと選書リストをチェックするボールペンが動かない。見計らいの現物を〈買う・買わない〉に分けられない。回覧しているとすれば、他人の判断に賛成も反対も(本当のところは自分では)つけられない。集団で選書していれば(実は)自信も根拠も持たずに毎週が過ぎて誰も問わないのかもしれない。 図書費が潤沢で、取次ぎの発行する週刊版などの新刊全点リストから「専門向き」対象をはずし、類書のある実用書シリーズのうちどれを採用し何年毎に揃えるかなどを管理すれば、単行本は基本的には全部買う、といううらやましい図書館の中にいれば考えもしないことかもしれない。また、○○出版社の出す本は全部買うなどという馬鹿な事を今どき(児童書でも大人の本でも)決めている、あるいは習慣的に○○出版社の本は皆が上げているなどという図書館の中にいても悩まないかもしれない。 しかし予算上、(どういう選び方であれ)いいものだけをピックアップして一定量しか買えない、というところが普通だろう。またその地点から言えなければ説得力などあるものではない。 図書費予算から蔵書の補強や取替えのために計画的に運用する分をあらかじめ差っ引き、一年間通して新刊を購入できるよう、だいたい十二等分する。選書手段は新刊見計らいや取次ぎ全点リストや利用者のリクエストなど。会議では(内容とは無関係に)声の大きい職員もいるし、無自覚なしったかぶりも飛び交う。閉じられた先輩後輩の関係もある。複数の職員でやって互いに踏み込んだ対話もしないと、何となく一定量は購入の方に回って、予算はどんどん減っていく。「選書基準」など成文化しても個々の本の判断材料に使えるわけではない。「シショ」がさぞかし根拠があって選んでくれているだろう、と遠巻きに無条件に敬意を払う時代ではないし、またそんなレベルでは後輩に教えられない。自らむなしいだろう。 何で本が選べるのだろう?あなたが今その本を上げその隣の本を下げた理由はなぜか。 三 公共図書館で「選書する」とは何か? どんな商売でもそれなりの商品知識がいる事は、店先に立つならば前提である。まして仕入れに従事する時には最新の充分な業界知識、商品知識が必要である。 最近どんな本が出版され動いているか。今、選ぼうとしている本の著者はこれまでどんな本を書き、それはどんな評価・話題を集めたか。選ぼうとする本には、過去にはどんな類書があったか、この図書館にはそのうちどれが入っていて、どんな動きをしているか。全般的にこの図書館はどんな本が揃っていて、それは出版された全分野からどんな本を切り取り、蓄積した棚といえるか。 毎年の新刊点数はこのところ増加し続け約7万点にも及ぶ。大変なようだが、逆にただ商品知識ならば蓄積していく事が出来る。図書館に勤務していれば蔵書の知識は利用の動きも含め、獲得していける。また新しい情報も学習していけばいい。(業務中に保証されないことも多いしこういうことは際限もないことだが、それは本質的には難しい事ではない。) しかし本についての知識があれば〈選べる〉わけではない。出版点数が多く選択肢があればあるほど、そのうちどれをなぜ、という自分の動機が必要になる。(少し議論をはしょるが)公共図書館員は、実は読者の代理人として、自分をモニターにしながら〈選んで〉いるのではないか。 もともと質のいいモニター者であるかどうか。短時間なりにセンサーの感度を一杯に上げて選ぼうとしているか。他の職員がマルをつけて(あるいはつけないで)回してきたリストを、それに寄りかからないで自分なりに精一杯敏感にチェックしているか。ここのところが公共図書館員の働きの独特のところだと思うのである。 あなたはセンサー感度を一杯に上げて、そしてそれを誠実に反映して手を動かしたか。集団作業としての相互チェックはうまく働いたか。予算管理の面と、既蔵書に追加されていく妥当性はどうだったか。自立した一個のモニターとして、その質を磨くようにどう努力しているか。(司書資格の問題では全然ないし、必ずしも商品知識の問題でもない。「今度、本庁から異動したあいつはセンスがあるなあ」「新採用の頃、面白かったけど、なんかその他大勢になっちゃったな、あなた期待の星なんだけどな。」周りにはいないだろうか?) 実は、この辺の議論が、公共図書館の選書論や職員資質論や人材育成論として、職業的自己を見つめリフレッシュしていくための議論として、欠けているのではないかと私は思うのである。 四 〈読者の代理人〉を自覚する 本という商品の知識を基本的に持っていて、背負うべき図書館の棚構成と予算状況を勘案しながら、〈読者でもある自分〉のセンサーを主観的に内省的に使う。それが私の考える公共図書館員の選書の場での振舞いである。 一人の読者として自然体で待ち構え、目の前のベルトコンベアを通過していく本の山から有用な面白い本をすばやく自分の籠に入れる。マンネリに陥らず新鮮な読者であり続ける、いつでも〈面白がれる自分〉を用意しておく。〈本が読める〉資質・体調の維持は(人間としての価値には何の関係もないが)図書館員としては最低の技術ではないか。 しかも幅広くいろいろな分野を硬軟取り混ぜて咀嚼し、選べる健啖家である事が求められる。どんな分野の初物の本でも短時間にそれなりに大意をつかみ、値踏みができる鑑定人のような瞬発力・応用力が必要だ。(というか、出来る出来ないにかかわりなく、すべての図書館の現場で事実上は毎週毎週、判断してしまっている。) さらに言えば、公共図書館員というのは、普通の生活感覚を持っている事が努力目標として必要だろうと思う。生活者として衣食住に普通に関心を持ち、家庭を営み子育てし、介護問題を抱え、社会の動向に一喜一憂し、まともに友達づき合いや地域の付き合いを行い、年を重ねていく。それら一つ一つを契機とし背負いながら自ら本を利用し、自分の(あるいは他人の行った)選書の有効性を確かめていく。それらの経験の中から、資料要求への共感と具体性を学ぶ。 私のつれあいは保育士であるが、子どもが出来た時、いつか自分の子を産んで育てる事が、オトコがいなくても職業を続けていくためには大事だと思ってきた、と告げた。私は私で、それからの生活過程で保育園に送り迎えをし交替で家族のメシと弁当を作り授業参観に行き、高校入試の説明会に行った。その時は(今も)きつくてしかたがないのだが、実は家庭内で要請される生活者としての役割を、こうした体験実習は選書のためにも有用だなと思ってひとつひとつこなしてきたところが私にはある。普通っぽくあるというのも、意識して努力するべき事柄だという気がする。 それは一方では(どんな中身でも)決してオタクにならない、ミーハーのまま飛ばない飛べないという事でもあるのだが。 五 選べる自分を維持し、つくる事 勤め続けるにしたがって職場での調整能力や利用者との対応能力は当然ながら高まってくる。〈選書能力〉自体を見れば実は勤務した最初の頃がピークだった、と言ったら悪い冗談だろうか。私自身、在職期間の長い職員の有用性を示したいから、在職しながら向上していける論理と実態がほしいと切望している。しかし何の工夫もなければ、右のように言われかねない恐れを感じる事がある。 一般的に言って、大学を卒業してまだ間もない若いうちは、最新の学問の切り口や知的流行を素のままで持っていると言えるだろう。また大学図書館や居住地などの公共図書館を〈利用者として〉知っていると思われる。つまりそういう新鮮な知識と外部の眼を背負って、選書の現場に参加してくるわけである。勤め続けるほど学生時代の知識からは遠くなり、図書館体験も、職場の比重が大きくなっていく。 硬軟織り交ぜて要求される本の多様性、子どもや年の違う生活者とのカウンター越しの出会いなど、職員にならなければ経験出来ない事は確かに多い。その図書館に既にある蔵書の知識も職員になって初めて繰り込んでいける。ただ、職場だけが背負う図書館になってしまって、本屋に行く自分の必然や新しい学問知識も獲得できないままでいると、冗談が冗談ですまなくなる。(何せ、コンビニ的実用には職場で足りる。) また一般に、新しい著者・新しいテーマ・新しい切り口の本(それはそれなりに状況的必然と出版社の企画選択をへて本になってくるわけだが)を入れようと提案するのは、集団の中で限られた職員が演じる役割になってしまいがちである。彼彼女がいないと、下手をすると利用者のリクエストだけが蔵書の内容的な刷新動機ということになりかねない。職員で行う選書からは新しい読者の要求が上がってこないことを恐れる。少なくとも〈私〉は潜在的な利用者の、有用なモニターたりえているか。選書の場に緊張と新しい提起をもたらす者であるか。 学生上りの頃は、一種の時代感覚と外部の眼を背負った存在として(本人のセンスのあるなしにかかわらず)自然の強みがあると思う。選書の場でもマレビトとして有用だ。しかし素のままでは続かない。誰でもそこから脱していかざるをえない時期に、〈選べる自分〉を維持・再生産していく方法をその人なりに身に付け、図書館員はプロになっていくのではないだろうか。 六 どうやって〈現役性〉を維持するか 四十代にさしかかった頃、「自分は本の読み手として現役なのだろうか?」と気になって仕方がなかった事がある。自分の時間一杯働いて稼いだ金で、拘束時間以外のありように何の制約があるだろうか? 冒頭に書いた公共図書館員の〈奇妙な仕事〉ゆえの両面感情なのである。私の考えでは、マーケットリサーチやコンビニのポスレジ的な〈調べて仕事をする〉発想からは、顧客・利用者に遅れずについていくのが精一杯のところ。それは不良在庫の摘発が出来ればいいというマイナス思考なのだから。来館者には町場の本屋に行くよりは、ここでは〈複本の平積みコーナー〉はないに決まっているが、書架をめぐっていれば啓発も刺激のひとつも与えられる図書館でありたい。少なくとも勤める自分が楽しめる図書館。そのためには棚にある商品の何割かが共感できるブツであり、何パーセントかは、自分を通過して選ばれた〈紙の束〉でなければ困るのである。 ともかく私の場合、どうする事で自分を納得させてきたのか、最後に少しばかりの経験知を書いておきたい。 幅広く手当たりしだい、気になる本を読む事を心がける。間口は広く、片手はいつも開けておく。(退役後に思う存分オタクになってこもっている、複数の?自分を想いなぐさめながら。) 新聞を第一面からテレビ欄まで毎日じっくり読み続ける。特に家庭欄や夕刊の文化欄は欠かさず全部読むこと。(休日の半分は一週間分の新聞を処理するのにつぶれてしまう悪いパターンがこのところ続いている。) 毎週の新聞書評を出来れば複数部(私の場合、今は「朝日」と「毎日」)タイトルチェックではなく、記事の全文を新しいうちに研修だと思って十年二十年読み続ける。学問や文化の新しい動向、それらの書き手の名前、そしてその評判、批評者の書きっぷりを読む。(日曜開館の早朝これをこなした上でカウンターに立てていれば、読んでやってくる週末利用者とは余裕の対応という事になるが、関心の半分は、常に知的流行のとば口に自分を置いておくことだ。学生の頃は既に遠い。しかし君らが教師に教えられる程度の話題は知っているぞ。)気になる書評を切り抜き、買った本にはさむ。 普通であれミーハーであれと書いたのとは矛盾するが、自分の専門を持とうとする事。レファレンスなどをやってみれば思う事だが、多少でも自分で何かを研究した経験が、調べものをする際のノウハウがわかったり、調べる利用者への共感を生む気がする。また結局、ホッとする世界を大切にしないとだめなんだと年をくって思う。 こういう分野ならこの水準で揃えてあるよ、全体としてどういう雰囲気作りをしているよ、という本屋のコンセプトを感じることがある。自覚的な仕入れ担当者ならどんな棚作りをしたいかという野望が当然あるだろう。これまで書いたようなノルマをこなしながら、判断しているお前の選書ポリシーは結局のところ何なんだ、という事になる。その議論は別の中身としてあるわけだが、次の機会にゆずろう。 これは、業界の言論としては行儀よく盛んに流通しているであろう、選書のシステム作りノウハウの情報交換やその評価という文脈をはずして書いてみた、〈選書する私〉復権のための試みである。 (二〇〇二・十一・三〇) 以上 |
[2003-3-4(火)] |
湯浅俊彦さんの『デジタル時代の出版メディア・考』を愛読させていただいております。 |
[2003-3-1(土)] 手嶋 孝典 |
2月12日、『創』の投稿記事の件で、NHKの担当部長とチーフプロデューサーが来館しました。館長と守谷副主幹と私の3人で対応したのですが、先ず、私の投稿が「町田市立図書館 手嶋孝典」となっていることから、町田市立図書館としての見解かどうか確認してきました。原稿には、「東京都 手嶋孝典 53歳」としたのですが、誌面ではそうなっていませんでした。NHKの二人には、肩書きを付けていない限り個人としての見解だと主張したのですが、認めてもらえませんでした。
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