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真実・篠田博之の部屋[番外4] | [2001年1月09日] |
真実・篠田博之の部屋 [番外4] |
しばらく間があいてしまいましたが、今後は「番外」を次々UPしていきます。 * ある風俗店関係者から「唐沢俊一とはどうなっているんですか」と聞かれました。彼は私の原稿をよく読んでくれていて、「ショートカット」のHPも読んだそうです。 久々に聞いたな、その名前。その後別にどうともなっていませんけど、唐沢俊一とやり合っている時に、掲示板に私を批判する書き込みをしていた伊藤剛君が、その後唐沢俊一らを訴えたことは周知の通り。当時、そのような書き込みをした経緯は本人から聞いており、謝罪してもらってます。要するに、何ら彼は事情をわかっていなかったのです。なのに、何故私を批判したのかについては、皆さんのご想像にお任せしましょう。 3カ月ほど前に、渋谷の喫茶店でたまたま唐沢俊一を見かけました。互いに挨拶を交わすこともなく、すれ違いました。彼に対する蔑視はこの先も変わることはないでしょうね。 論争における唐沢氏と篠田氏のズルは非常に似通ったところがあると私は感じています。類似点は何カ所かに及びますけど、最もわかりやすいのは、第三者に、何が起きているのか把握させることを避ける点でしょう。私は唐沢氏や篠田氏がどこで言ったことなのかを明示し、かつ自分のフィルードでも、相手の発言を正確に引用しています。つまり相手の意見をも正確に紹介して、その上で読者の判断に委ねようとします。 篠田氏は徹底して、「黒子の部屋」の存在を「創」読者に知られないようにしていたとしか思えません。その上で、一方的に「創」誌面で「曲解」だと決めつける。このような篠田氏の態度は、読者を、自分と同じような判断を下せない人達と考えていることによるのではないかとも思われます(ということにここではしておきましょう)。「松沢の書くことは、自分には理解できるが、読者にはオヤジの居直りにしか見えない」といった態度がまさにそれです。 現実問題、こちらの書くことの意図を十分に理解できない読者は多数いますよ。書いていないことを書いていたと思っている人、書いたことを書いてないと思っている人は多数います。私にとっては篠田氏もその一人でしたし。 読解力が劣っている人がいるというだけでなく、5時間かけて書いたことを5分で読んで、そこに込められた意図を100パーセント読み込むことなどできるはずがなく、広く一般に、文章を書く行為は、常に誤解を生じさせます。私も他人の文章を読む際に、相当の誤解をしているはずです。 しかし、本当は自分が間違っていても正しいのだと読者に思わせたい人以外は、そういった誤解が生じようとも、極力情報を提供した上で、読者の判断に委ねればよく、それでもなおこちらの意見が理解できないというのであれば、こっちが反省するか、反省する点が見当たらなければその読者とはどこまでも意見が合わないと決裂すればよいだけです。世の中全部が自分の味方のはずがなく、世の中全部が同じ意見を共有すべきでもないんですから。 小林よしのりもまた批判対象が言っていることを正確に読者に知らしめようとはしない人の一人でした。なにしろ批判する本のタイトルさえ挙げなかったりするんですから、ワケわからんですよ。篠田氏も一緒です。 * 「ダークサイドJAPAN」の4号で、久田編集長が、反論についての考え方を1ページにわたって述べておりました。 なんでああいうものを掲載するに至ったかというと、2号に掲載された宅八郎の原稿に対し、その原稿で言及された金井覚が3号で「反論」を書いたところ、編集部に「なんで金井のあんなものを載せたのか」との意見が寄せられたためです。 私自身、「なんであんな個人的な弁明を掲載するのか」と言うライターの意見を聞いています。酒の席の話なんで、名前は出しませんけど、わかっちゃいないなあ、というのが正直な感想です。 久田君は「執筆者の皆さんからの感想は頭が痛い」とよく言っています。だいたい書き手は、同じ雑誌に書いている他の書き手の批判を編集者に積極的に語るものです。もちろん、同業者なりの正しい指摘も含まれていますが、しばしば「あんな原稿を載せるくらいなら、オレにもっと書かせろ」ということだったりします。そう語る人の原稿をまた別の執筆者が批判するんですから、それを聞かされる側はたまったもんじゃない。 聞くべき内容のある批判ならいいんですけど、ポスターでの自分の名前が位置が気に食わないと文句をつける映画俳優がいるのと同様、目次や表紙での名前の扱い、連載ページの掲載位置(「あいつより前のページにもっていけ」とか)について文句をつける書き手がいるとの話も編集者から聞きます。そのため、文句が出ないように、連載の掲載位置を毎号入れ替えて、すべて平等にする雑誌もあるそうです。大変ですよね、自分が世界一と思っている人が多いですから。さすがに私はこんなことで文句をつけたことはないし、気にしたこともない。ちゅうか、どんな風にマンガになっているか必ず確認する「アサ芸」以外、掲載誌が送られてきても、自分の原稿をあんましチェックしないです。 通常、担当編集者は、担当している書き手の肩をもちますから、そういう言葉に対して、「そうですよね、僕もそう思ってます。でも、編集長がわかってないんですよ」なんて相槌を打って、ご機嫌をとるわけです。要領のいい編集者は、「彼の連載はよくないね」なんて言葉を聞きながら、内心、「何言ってやがる。嫉妬しているだけのくせに」と思いつつ、「はいはい、先生のおっしゃる通りでございます」とお追従を言っておき、別の書き手の前では「もちろん、先生が一番です」と揉み手をし、一人になると、「あいつらってバカだぜ」とせせら笑っているというわけです。 ルール違反のような気もしますが、「Aさんが松沢さんの原稿をクソだって悪口言ってましたよ」と、同じく担当していながら、より信頼している書き手に情報を流し、「Aさんは嫉妬深いですからねえ」なんてことまでついでに言う編集者もいます。現にこういうことを教えてくれた編集者が過去に数人いますから、私のことも同様に、相手に教えているケースもあるでしょう。どんどん言っちゃってくださいな。言われてマズいことは言ってないつもりですから。 「DSJ」の場合、まだまだ下が育っておらず、多くの書き手は編集長とダイレクトの関係にあるため、そういった意見のほとんどを編集長が聞くことになります。あっちでこう言い、こっちでああ言い、という話ですから、頭が痛いのももっともです。全員の意見を取り入れると、すべての書き手は二度と使えなくなりましょう。雑誌への思い入れがあるからこそ、そういう意見が噴出するわけで、他人の原稿への批判が書き手から出ているうちが華ですので、久田君はヘラヘラ笑って聞いておけばいいんじゃないでしょうか。 そういう雑誌だからこそ、金井覚の「反論」についての批判も編集長に寄せられたようなのですが、そもそも「反論権とはなんぞや」ということが理解されていないがための批判が少なくないような印象を受けました。 私が聞いたライターの意見でも、「読者から金とっている出版物で、第三者にとってはどうでもいい個人的な話でページを使うな」というニュアンスがありましたが、個人的な話を書いてはいけないのなら、日常雑記を書いちゃいかんのか。「DSJ」の「子育て日記」はどうなるって話です。 「松沢は毎日風俗遊びをして、うちに帰ると女房に暴力ふるっている」と誰かが書いたら、第三者にはどうでもいい個人的な話でも、私は「女房いねえってば」と訂正を求めるでしょう。面白いので、そのまま放置することも十分ありそうですけど、「奥さんがいたのね、キーッ」って怒り出す女がいないとも限りません。そういう被害が生じないとしても、間違いを書かれたら訂正していい。 宅八郎が書いた金井覚に関する記述がすべてあの通りだとしたって、私自身、金井覚に対する態度を変えませんし、「締切を伸ばす代わりに、助けてくれ」などと宅八郎に泣きついたのだとしても、「まっ、そういうこともあろう」ということでしかなく、わざわざ訂正を入れるほどのもんではないと私自身、思ってました。私だって、そういうことをする局面があるかもしれませんし。 しかし、こう書いたことを許せるか否かは、書かれた金井覚本人が判断することです。私に妻がいるかいないか、読者のほとんどすべてにとってどうでもいいことであっても、その間違いを訂正する権利が私にはあるのと一緒です。 金井覚の「反論」が読者にとってはどうでもいい内容なのだとしたら、そもそも読者にとってどうでもいいことを先に書いたのは宅八郎であり、それを掲載したのは編集部です。金井覚の前に、この両者が批判されなければならないということになり、やっぱり編集部は反論を掲載するしかない。 金井覚の「反論」が娯楽になっていないのだとしても、そんなん当たり前であって、訂正を求める原稿に娯楽性を求められても困るって話です。娯楽性のある内容じゃなければ、反論を掲載してはいけないということになると、娯楽性のある文章を書けない人は、反論する権利がないという話になります。文章の巧拙によって、反論できたり、できなかったりするのはヘンですぜ。 久田君が書いていたように、どんなにつまらなくても、反論は掲載するしかない。それが金井覚という名前を出したことの責任でしょう。ここにおいて、反論が面白いか否かについての判断を編集部は放棄するしかないのです。 ちゅうような話をライターでさえよく理解していない人がいるので、私は久田君に「一度、反論についてどう考えているのか、編集部が説明した方がいいかもしれない」と意見しました。「その際に、“本誌は『創』と違って反論を掲載します”と書いてはどうか」とも進言しましたが、これは受け入れられませんでした。 反論権を認めない「創」のような雑誌があるため、反論をしても雑誌には掲載されないと判断している人がきっといるでしょう。「DSJ」が反論を受けつけることを明言すれば、反論をしてくる人も少しはいて、誌面が活性化するのではないかと思ったわけです。 相手の反論を掲載することの保証があるのとないのでは、書き手の姿勢も違ってきます。本人が訂正できる場であるなら、個人名を出しての批判が堂々できますが、そうじゃないと、ためらいます。100パーセント、こっちが正しいとの自信を私は持てないからです。どうやったって、間違いは生じることがある、ということについては100パーセントの自信があるんですね。間違いが生じた時には、いち早く指摘してもらい、いち早く訂正したいので、第三者が相手の意見も読んだ上で判断してくれた方がいい。であるが故に、反論権は認めてくれた方が私のような書き手にとっては都合がよい。相手の意見も検証できるように、自ら読者に相手の言っていることをわかるようにするというのも同じような意味です。 ズルい言い方に見えるかもしれませんが、反論が掲載される場では、断定をしたり、推測を語ってもいいんですよ。私の原稿を「曲解」と決めつけてもいいですよ。「どこが曲解か」と私が同じ場で反論できるのなら。それも許さずに決めつけをやることこそが非難に値する行為でしょう。 これを認められないのは、読者が相手の意見を読んだ途端に自分の間違いが気づかれてしまうことを恐れているためだとしか思えません。ホント小心なんだから。 |
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