2009-09-21

借金して吉祥寺に引っ越した [北尾トロ 第8回]

いたいだけいていいよと言ってくれたからといって、2カ月半は好意に甘え過ぎである。出て行ってくれとパインに言われるのも仕方なかった。新しい住処を見つけなければ。

さりとて引っ越し資金などあるはずもなく、借りるアテは親しかなかった。半端に借りたってすぐに困窮するのは目に見えているので、100万円の借金を申し込む。状況がわからない親は息子が居候生活していることを気に病んでいて、なんとかOKが出た。この借金には後々まで苦しめられることになるのだが……。

部屋を借りるにあたり、どうしても欲しかったのがシャワーとクーラーだ。独り暮らしを始めてから、風呂付の部屋に住んだことがなかったのである。クーラーも同じだ。 続きを読む…

2009-09-14

北尾トロ(伊藤秀樹)への原稿発注! [下関マグロ 第8回]

広告代理店ハリウッドにいた1984年の夏、僕はけっこう自由にあちらこちらに出歩いていた。

前にも書いたように仕事のひとつは、雑誌編集部を訪れて、オリーブオイルを読者プレゼントのコーナーで取り上げてもらうためだ。

当然ながら、僕が昔いたスワッピング雑誌『スウィンガー』にも足を運んだ。

『スウィンガー』を発行する出版社は乃木坂にあった。

この年の夏、まだ会社は平和だった。実は数年後にはいろいろなことが会社に起こるのだ。たとえば、会社をやめた社員のひとりが、投稿をしていた夫婦を恐喝し、逮捕されるという事件を起こした。読者や投稿者の情報をしっかり管理しなければならないこの手の出版社にとっては致命的な事件だったかもしれない。 続きを読む…

2009-09-07

フリーライター初仕事と居候生活 [北尾トロ 第7回]

名刺を作ったからといって、すぐに仕事があるわけでもない。編プロのバイトをやめるついでにライターを名乗ったようなもので、計画性もなければ具体的なアテもなかった。さらに金もない。手元にあるのはイシノマキから最後にもらった給料の残り8万円だけである。身の自由は手に入れたものの、当座はパインの仕事を手伝うことが主な仕事。これは家賃の代わりなので収入には結びつかない。

だが、これはまずい、ライターとして身を立てるべく動き出さねば……と思わないのがナマケモノのナマケモノたるところで、時間があるのをいいことに毎日ぶらぶらと街へ出て名画座で映画なんか観てしまう。食べ物はパインのところにあるし、8万円あれば2カ月は生きていけると消極的に計算してしまうのだ。面倒見のいいパインのことだから、それくらいだったら居候させてくれるのではないかという甘えもあった。
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2009-08-31

イシノマキで逢った人たち [下関マグロ 第7回]

僕の原稿が少し時間的に先に進みすぎてしまった。これでは、読者も少しわかりにくいかもしれないので、僕の原稿も少し時計の針を戻そうと思う。

イシノマキでは、本当に多くの人に出逢った。ただ、僕自身はイシノマキにおいて特異な存在であったため、どの人がどういうことで、ここにいるのかというのがよくわからなかったのだ。伊藤秀樹(北尾トロ)も同じことで、最初の頃はよく夕方になると会社にきていた男くらいの印象しかなかった。彼はいつもマイペースで、オフィスの片隅にいる僕に向かって「お前、いっつも暗いなぁ」などと声をかけてくれた。いったいどんな人なんだろうかと思っていたら、ある夜、会社に置いてあるエレキギターを取り出して、ステレオセットにつないで音を出していた。どうやら、この人の私物のようだ。会社にギターを置いている人だということがわかったが、どういう人かということはますますわからなくなった。というのも、そのギターの腕はお世辞にもうまいとは言えなかったからだ。

イシノマキは編集プロダクションといいながら、いろいろなことをしている会社で、岡林信康のコンサートなんかもプロデュースしていた。僕は部外者ということもあり、こういったことからはまったくの仲間はずれであったが、伊藤秀樹ほか、ほとんどの社員がこれに関わっていたと思う。北関東のどこの街かは忘れたが、伊藤秀樹もPAとして参加していたようだ。彼はPAもやるんだ。彼はきっと音楽畑の人なんだろうと思ったりもした。 続きを読む…

2009-08-24

フリーライターの名刺を作ってみた [北尾トロ 第6回]

3カ月働いたところで、やっとイシノマキを辞めることが了承されたものの、ふたつ条件があった。

ひとつ目は、他の編集プロダクションに行かないこと。社長はぼくがどこかの編プロに入り直す気でいると疑っていたのである。

「うちにきたとき、伊藤君は電話ひとつかけられなかったよね。かけさせても、敬語は使えないしメモも取らないほどだった。それが、いまでは何とかできるようになっただろう。そういうことも含めて、うちで培った編集ノウハウがよそに行くのは困るんだよ」

そんなことまで言われたが、編集だけは二度とやるまいと思っていたぼくにはどうでも良かった。 続きを読む…

2009-08-17

小さな広告代理店に入社した [下関マグロ 第6回]

イシノマキの入っているビルのエレベータでのことだ。

「お前、よかったらウチに来いよ」

そう、北関東訛りでしゃべりかけてきた男がいた。広告代理店ハリウッドの社長、葛飾さんだ。僕がイシノマキでなにもすることがなく、クサっているのを知っていて、声をかけてくれたのだろう。それにしてもせいぜい顔を知っているくらいで、よくそんなことが言えるなぁとちょっと不思議な気分だった。僕で大丈夫なのだろうか。とにかく詳しい話を聞くため、翌日、ハリウッドを訪れることにした。 続きを読む…

2009-08-11

イシノマキの過酷な支払いシステム [北尾トロ 第5回]

カメラマンのアゴから大粒の汗が流れ落ちていた。そばにいるライターも、まともに顔を上げることができない。シンとしてちゃあダメだということはわかっていて、「その調子!」「そうそう、その感じ」と意味もなく明るい声は出ていても、内心ドキドキなのが手に取るようにわかる。もちろん、ぼくも同じだった。

だって目の前に裸の女の子がいるのだ。それも、モデルとかではなくまったくの素人である。初めて人前で脱ぐ女の子と、初めてヌード撮影するカメラマンと、初めてヌード撮影に立ち会うライター、編集者。ほんの15分かそこらの撮影が数時間にも感じられ、終わったときには心底ヘトヘトになっていた。女の子が帰るとライターは「いやぁオッパイ大きくて勃起もんだったなあ」とおちゃらけたけど、そんな気持ちの余裕などどこにもなかったことはわかり切っている。

『スコラ』で、某社スピーカーの編集記事に添え物として載せる色気のある写真を撮っていたのだ。男性誌だし、裸のひとつも欲しいという宇野さんの軽い一言がきっかけで知り合い関係を探しまわること1週間。脱げるコなんているわけないとあきらめた頃、なぜか謝礼5千円で撮影させてくれるコが現れ、今号もなんとかメドがついたのだった。やれやれだ、まったくやれやれだ。 続きを読む…

2009-08-03

ライターのギャラについての話〜その1〜 [下関マグロ 第5回]

この原稿は北尾トロと僕が交互に書いているわけだけど、僕自身、北尾トロの原稿を読むのが楽しみである。あの頃は知らなかった新事実というものが、わかるからだ。

北尾トロの前回の原稿にあったイシノマキでのアルバイト料が月に11万円から12万円に騰がったという記述。これにはけっこう驚かされた。

すでに書いたが、僕はオナハマという会社で15万円の給料で雇われ、イシノマキに出向するというおかしな雇用関係だったが、北尾トロより僕のほうがたくさんもらっていたとは夢にも思わなかった。 続きを読む…

2009-07-27

スカスカのアドレス帳 [北尾トロ 第4回]

だがそうはならなかったのである。初めてアルバイト代をもらったとき、これでやめさせてくれと社長に言ったところ、機関銃のようなトークで引き止められ、もう少し続けると答えてしまったのだ。

「どうしたの。理由があるでしょ、言ってみてよ」

「えー、その、給料11万ではちょっと……」

「わかった、上げましょう」

一瞬で逃げ道をふさがれる。 続きを読む…

2009-07-21

編集プロダクション「イシノマキ」は天国か地獄か [下関マグロ 第4回]

編集プロダクション「イシノマキ」に籍は置いたものの、いったい何をどうすればいいかまったくわからなかった。

まあ、事情というのは、あとからわかってくるのだが、これは伊藤秀樹(のちの北尾トロ)がイシノマキを辞めたため、その穴埋め要員として僕が雇われたのである。

そんなことはまったく知らない僕だったが、とにかく何をどうしていいのかわからない。一応、イシノマキへは朝10時くらいに顔を出すのだが、ほとんどの人は出社していなかった。何がどうなっているのかがよくわからない。というより、僕個人として、社会人感覚が身についた段階でなく、「空気を読む」とか「気を利かせる」ということがまったく不可能だった。

社長の姫路さん(仮名)はいつもいる人ではなかった。仕方がないので、経理の女性の厳原さん(仮名)なんかと無駄話をして一日を終えるなんてことが何日か続いた。何日間そんなことをしていたのか記憶があいまいだが、とにかく最初のうちは退屈で居づらくてしょうがなかった記憶がある。 続きを読む…

2009-07-13

離れがたきナナオ設計 [北尾トロ 第3回]

「はい、もうすぐ中に入るから急いで作業服に着替えて」

イシノマキでアルバイトを始めて半月ほど経った金曜日の深夜12時前、ぼくは丸ノ内線茗荷谷駅の近くに止めたハイエースの車内で、あわただしく着替えをしていた。軍手をはめて、ヘルメットを装着したら準備完了。作業に必要な荷物を運ぶ段取りはすっかり板についている。

仕事の内容は単純だ。終電が行ってから始発が走るまでの間に、駅構内から線路に降り、地盤沈下を調べるための測量と、壁面のクラック(ひび割れ)調査をするのだ。測量は社員がするので、アルバイトの仕事は、ミリ単位で刻まれた板を、指定の場所に立てて持ち、手持ちのライトで照らすこと。クラック調査は、壁面に走るひび割れに沿ってチョークで線を引くこと。これは、ひび割れの太さごとに赤、青、白と色を変える。たまに工事車両が通るくらいで危険は少ないし、誰でもできる簡単な仕事だった。進む距離は一日に500メートル程度。これを月曜日から金曜日まで、毎晩続けてゆく。実労時間はせいぜい4時間だったが、拘束時間がそれなりにあるのでアルバイト代は4千円ほどと割がいいので、学生時代からずっと続けている。社員や他のアルバイト連中ともすっかり顔なじみだから気楽なものだ。 続きを読む…

2009-07-06

名刺を作ればライターというけれど [下関マグロ 第3回]

1983年の年末から1984年の正月。僕はひとりで中野坂上のフレンドマンションにいた。スーさんは年末から栃木の実家に帰っていたが、僕は山口の実家には帰省しなかった。理由は、単純に金がなく、電車賃が払えなかったからだ。

部屋にはスーさんがクリスマスに買ったファミコンがあった。正式名称はファミリーコンピュータで、その年の夏に出たヒット商品であった。まだソフトはドンキーコングくらいしかなかったけれど、年末年始の間ずっとそれをひとりでやっていたのだ。

年が明けて帰ってきたスーさんにそのことを言うと、彼は苦笑いをしていた。そんなことより、僕らはそのころ、会社を辞め、自分たちで仕事をやろうという話で盛り上がっていた。写真集を作るような編集プロダクションをやろうというのだ。 続きを読む…

2009-06-29

編集者になれるとはとても思えない [北尾トロ 第2回]

翌日から、編集プロダクション(以下、編プロ)イシノマキでの仕事が始まった。初仕事は原稿の受け取りで、K出版社の編集者がアルバイトで書いているオーディオ関係のコラムを取りに行き、小学館の『GORO』編集部まで届けるというもの。いわゆる“お使いさん”である。

わざわざ原稿を取りに行っていたのはファクスが普及していなかったからで、まだ編プロにもなかったと思う。ファクスはその後数年で出版業界人には欠かせないものとなるのだが、この頃まで、原稿は取りに行くなり届けるなり、直接やり取りするのが普通だったのだ。

K 社の編集者に会うと、まだ原稿はできておらず、喫茶店に誘われた。「コーヒーでいい?」と言われて頷くと、彼は「いま書くから悪いけど待ってて」と言い、原稿用紙を広げて資料を見ながらその場で書き始めた。2Bか3Bの太い鉛筆。丸っこい字がサラサラと升目を埋めてゆく。原稿用紙は200字詰めのペラと呼ばれるものだ。へぇ〜凄いな、喫茶店で、しかも人の目の前で原稿を書くなんて、ぼくには真似できそうにない。 続きを読む…

2009-06-22

初めて出会ったフリーライター [下関マグロ 第2回]

大阪から東京へ来て、雑誌『スウィンガー』を発行する会社に勤務することになった1983年の春。東京駅から中央線に乗って驚いたのは、窓から見える桜の美しいことだ。飯田橋あたりから四谷にかけての線路脇の土手には、桜の樹が植えられている。

初出勤の日、会社で新入社員歓迎会を兼ねた花見が催されることとなった。場所は電車から見た土手だった。

小さな会社で、新入社員といっても僕ひとりだけである。それでずいぶんと飲まされ、いつしか酔いつぶれてしまった。生まれて初めて、前夜の記憶がないほど飲んだ。そして、気がつけば、まったく知らない家で目が覚めた。

「増田くん、増田くん」 続きを読む…

2009-06-15

序章 [北尾トロ 第1回]

大学3年末の試験が終わってすぐ、生まれて初めての海外旅行でインドへ行き、すっからかんになって帰国。そのまま九州の実家に転がり込んでしばらく過ごした4月初旬、ひとり暮らしをしていた阿佐ヶ谷のアパートに戻り、2カ月ぶりで大学に行ったら留年が決定していた。インドで遊んでいる間に、法政大学社会学部では追試が終わっていたのである。

間抜けだ。落とした必修単位は英語かなにかだったと思うが、ほとんど白紙の答案を提出したにもかかわらず、ぼくは追試とか、留年なんてことが全然頭になかったのである。留年者を貼り出した掲示板の前で呆然としていると、通りかかった知り合いがニヤニヤしながら声をかけてきた。

「もう一度3年生かよ。ま、お前らしいな」

どこが“らしい”のかはわからなかったが、いまさら騒いでもしょうがない。それより、この事実を親にどう伝えるかだ。父は他界しており、母は決してラクな生活をしているわけじゃない。この上、1年余計に学費と生活費の面倒を見てもらうのは心苦しい。今年はともかく、5年目となる来年は、学費くらい自分で出すべきだろう。

その5年目、ぼくはほとんど大学へ行かず、アルバイトばかりしてなんとか卒業にこぎつけた。だが、サラリーマンになりたくなかったので、就職活動もしなかったし、自分の将来にさしたる関心もなかった。 続きを読む…

2009-06-08

序章 [下関マグロ 第1回]

「せっかく受かったんじゃから、そこへ行きなさい」

母親は、唯一合格した大学に行けと言う。もっともなことだ。僕は、一浪しており、その年に受けた大学もほとんど落ち、たったひとつだけ合格した大学なのだ。しかし、この唯一合格した大学は、たまたま予備校で試験があったので、受けただけで、まったく行く気がなかった。だいたい東京の大学に行きたいと思っていたのだが、その大学は大阪にあった。僕はどうにも気が進まず、母親の言葉にも黙っていた。

「おばあちゃんも心配して、どこでもええから、行きなさいって言うちょったよ」
と母親が言う。祖母は、病気で入院していた。そんな祖母に心配をかけちゃいけないなと思い、この大学へ行くことにした。

大阪の大学とは桃山学院大学であった。入学してもやる気は起こらず、僕は5年間も大学生活を送ることになった。1年留年したのだ。

つまり一浪一留で、僕は社会に出るのに通常の人よりは2年多めにかかったことになる。これだけ、時間を費やしたにもかかわらず、僕は自分がどういう仕事をしたいかとか、何をやりたいかということはさっぱりわからなかった。

でも、とりあえず東京へ行こうという考えはあった。不思議なことに東京に行けばなにかあると思っていたのだ。

就職活動というものはほとんどせず、とりあえず上京。高校時代の同級であった岡本くんの下宿先へ転がり込んだ。 続きを読む…