2010-02-15

スポーツライターへの道が開かれた!? [北尾トロ 第18回]

なぜアフリカ雑誌の企画がスキーに? 唐突すぎる福岡さんの電話には戸惑うしかなかったが、だんだんその気になってきた。ジャンルはともかく、新創刊というところに惹かれるのだ。スポーツには縁がないが、ダメでもともと。それより、雑誌がどのようにカタチになっていくのか体験してみたい。

数日後、五反田の喫茶店で福岡さんに会った。

「どう、やってみる気になった?」

「はあ。でも、スキーができないんですよ。大学のとき、一度行っただけで道具も持ってないくらいです」

「ははは、そんなの気にすることないですよ」

気にするよ! 滑れないヤツが書いたスキーの記事なんて誰が読むっていうんだ。でも福岡さんはそんなことを気にする素振りを見せず、アフリカ雑誌について語ったときと同じく、夢見るように言うのだった。 続きを読む…

2010-02-08

決意というより成り行きでライターに [下関マグロ 第18回]

最近はそうでもないのかもしれないが、昔はエロ業界について勘違いしている男が多かった。

僕がアダルトビデオの助監督やエロ本の仕事をしていると言うと、「撮影現場に連れてってくれ」というようなことをよく言われた。

そんな物見遊山感覚のお願いは実に困る。こちらは遊びで行っているわけではない。仕事なのだから。

たしかに、アダルトビデオの撮影現場では、男女がセックスをしているのを間近で見ることができる。しかし、現場のスタッフがそれを見て興奮することは皆無といっていいと思う。

全員、仕事をしているわけで、それぞれ果たさねばならない役割がある。見ていて楽しむ余裕などなかった。 続きを読む…

2010-02-01

本が出ても何も変わりはしなかった [北尾トロ 第17回]

机の前に座り、原稿用紙を広げて早4時間。1文字も書けないまま時計の針だけが規則正しく先へ進む。初の著作となる『サラブレッドファン倶楽部』は出だしから行き詰ったままだった。肩に力が入っているせいか、最初の1行でつまずいてしまい、数行書いてはボツ。ゴミ箱は書き損じの原稿用紙で山盛りだ。そのうち飽きてレコードを聴き始め、夜に賭けようと昼寝を貪り、夜になると明日に賭けようと読書に逃避。煙草を吸いすぎて、一日中気持ちが悪い。

単行本といっても初心者向けの競馬ガイドブックで、中身は実用的なコラム集。2ページから4ページほどの原稿が数十本入る形式だ。馬券の買い方やオッズの説明、歴代名馬の解説など、テーマ設定もありきたりのものだから競馬必勝法を考案する必要もなく、1テーマにつき2千文字程度の読み切り原稿をコツコツ書いていけばいいのだ。が、頭のなかではわかっていても、これが実行できない。部屋にこもって4日目になるのだが、1日に1本書くのがせいぜいで、しかもことごとくつまらないときているから実質は0本である。

どうして計算通りに行かないのか。普段のペースなら1日3本は堅いのに。理由を考えると「本の執筆だから」としか答えが出ない。そうなのか。本なんて興味がないと思っていたけど、その実、めいっぱい緊張しちゃってるわけか?

違うと言えば嘘になる。やはりこう、著者という響きにはたまらないものがあるのだ。 続きを読む…

2010-01-25

アダルトビデオの助監督という仕事 [下関マグロ 第17回]

「もしもし、増田くん、またお願いできるかな」

芳友舎の土屋監督から電話がくるとうれしかった。アダルトビデオ助監督の仕事依頼であるが、うれしい理由はギャラが取っ払いだからだ。

ライターが原稿料を受け取るのは、早い場合で仕事をしてから一ヶ月後、遅い場合は半年後なんていうのもあった。失業保険の支給がなくなった僕にとって、働いてすぐに現金が貰えるというのはとても魅力的だったのだ。

しかし、なんでその場でお金を貰うことを「取っ払い」っていうんだろう。

「たとえば芸能人なんかが、所属事務所経由でギャラを貰うんじゃなくて、興行主から直接お金を貰うってことだと思うよ。すなわち中間を〝取っ払う〟ということ」

1万円の領収書を書きながら土屋監督に質問したら、そう教えてくれた。 続きを読む…

2010-01-18

いきなり単行本の著者になった [北尾トロ 第16回]

パインの仕切りで、夏の終わりに総勢10名数名で長野県の野尻湖へ遊びに出かけた。車なんてシャレたものはないから電車である。大半が普段フリーで活動しているライターやデザイナーなので、大勢でどこかへ行くというだけでむやみに盛り上がる。30歳を超えているパイン以外は全員20代の、明日をも知れぬ生活をしている業界人たちだが、先行きの不安などないかのようにはしゃいでいた。みんなの気持ちはわかる。ぼくも、乏しい銀行残高をやりくりして参加したひとり。遠くまできてしみったれた話をするくらいなら最初から参加しない。1泊して、翌日にはレンタサイクルで湖を一周。テンションが下がることなく東京に引き上げた。

きっと、同じように貧乏で、同じようにヒマだった駆け出し仲間だったから盛り上がった小旅行だったのだろう。また旅行に行こうと誓い合ったものの、みんな忙しくなってそれぞれの道を歩き始めると、誘い合って大勢で出かけることは困難になってゆく。そればかりか、何人かとはやがて連絡も途切れ、ニ度とそんな機会が訪れることはなかった。 続きを読む…

2010-01-11

読者チャレンジ企画とAVの助監督 [下関マグロ 第16回]

新橋の駅ビルの地下に、ウエイトレスの制服がミニスカートの喫茶店があった。といってもいかがわしいお店ではなく、ごく普通の喫茶店だった。

僕はその喫茶店で雑誌『とらばーゆ』の原稿を書いた。『とらばーゆ』は週刊だったから、最初の頃は毎週足を運んだ。慣れてくると数週間分の原稿をまとめて書けるようになったので、そんなに通わなくなった。

調子よく原稿をこなせるようになり、それでとんとん拍子にライター専業になったかと言うと、答えはノーである。相変わらずエロ雑誌のカメラマンはやっていて、1985年の夏は伊藤ちゃんと鎌倉の由比ガ浜で「オイルぬりぬりマン」を撮影していた
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2010-01-04

オイルぬりぬりマンの夏 [北尾トロ 第15回]

季節は巡り、暑い夏が近づいてきた。去年の今頃はパインの家に居候してプール通いをしていたのだ。あれからもう1年。相変わらず生活はカツカツだが、ライター稼業で持ちこたえてきたのは上出来のような気がする。

キンキンに冷房を効かせた部屋で、ベッドに寝転がってハイライトに火をつける。イシノマキのときは風呂なしアパート住まいだったことを思えば、ずいぶんマシになったもんだ。たまたま出会った仕事だけれど、辞めてしまいたいと思わない。最近はもっとうまく書けるようになりたいと欲も出てきて、自分でも驚く。こんなの初めての経験だ。

親父が典型的なサラリーマンだったため、ぼくは幼い頃から2、3年おきに転校を繰り返してきた。そして、平日はほとんど顔を合わせることもなかった親父は、ぼくが19歳のとき、目標だったマイホームを持つ前に、48歳で突然この世から去っていった。何だろう、この人生は。ぼんやり過ごしていたぼくに、親父の生き方はひどく虚しいものに思え、自分はその轍を踏まないようにしようと誓った。 続きを読む…

2009-12-21

初めてのライター仕事 [下関マグロ 第15回]

1984年の暮れのことだ。手帳に書きとめた住所と地図を交互に見ながら、新橋にある『とらばーゆ』の編集部にやっとたどりついた。

担当は長崎さんという、僕と同じくらいの年頃の女性だった。テキパキと事務的に打ち合わせが進んでいく。

「読者ページのこのコーナーなんですけどね」

と長崎さんは『とらばーゆ』のひとつのコーナーを指さした。 続きを読む…

2009-12-14

幻のアフリカ旅雑誌企画 [北尾トロ 第14回]

「アフリカの雑誌をやりたがっている人がいるんだけど会ってみない?」

1985年の3月頃、デザイナーの友人から電話がかかってきた。海外なんて学生時代にインドへ旅行したことしかないが、こっちはおもしろそうな仕事に飢えている身。返事は考えるまでもない。

「行く! コンゴでもケニアでも行く!」

「まだ企画段階で、これから会社に話を通さなくちゃならないらしいのよ。で、そのためにダミーっていうか、イメージを形にしたい。ついては、一部原稿つきのページを作りたいってことなんだけど。ギャラも出るんだか出ないんだか」

「ダミー? よくわからないけど、やる!」

「じゃあ紹介するよ。よかったわ、ヒマなライターはいないかって言われて伊藤君しか思いつかなくてさ」

その一言は余計だ。でも事実だからしょうがないか。 続きを読む…

2009-12-07

高橋名人とカメラ [下関マグロ 第14回]

このシリーズには多くの個人名や会社名が出てくるが、ほとんどは月並みな仮名にしてある。しかし、編集プロダクションの社長につけられた「パイン」という名前は、なんだか突拍子もない感じがするだろう。

それには理由がある。パインというのは仮名ではなく、僕と伊藤秀樹だけが使っていた社長のあだ名なのだ。
ちなみに由来は、とりあえずパイナップルとは関係がないとだけ言っておこう。詳述は避けるが、名前の一部分を英語にするとそうなるという単純なものだ。

パインは、歌舞伎役者のような古いタイプの二枚目で、声が低く、話し方に妙な説得力がある男だった。
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2009-11-30

パイン事務所での暗黒時代 [北尾トロ 第13回]

パインの事務所では月刊誌の「ロンロン」に加えて、パソコン周辺機器のムック製作が始まった。当時はまだパソコンそのものが一般的になりつつあった頃で、この手のカタログ的なものにも需要があったのだ。いち早くパソコンを使いこなしていたパインにとって仕事はいくらでもあり、ひとりではさばき切れないほどである。そこでパインは、少しでも知識のある若手ライターにどんどん仕事をまわし、編集プロダクション「オールウェイ」を大きくする作戦を立てていた。

「俺はもう30過ぎだろ。このままライターで食っていけなくもないけど、プログラミングから自分でやるほど詳しいわけじゃないし、パソコンの専門家になりたいわけでもない。それよりは編プロのおやじになるほうが、この先生き残れると思ってるんだよ。秀樹も手伝ってくれると助かるんだけど」

そう言われてもパソコンは大の苦手。ぼくの出番はあまりなさそうだ。 続きを読む…

2009-11-23

エロ本の仕事で女の子の路上撮影 [下関マグロ 第13回]

若生出版の柳井が応接室で見せてくれた雑誌は『ムサシ』というごく普通のエロ雑誌だった。まだインターネットもない時代、エロ雑誌というのは、いまから考えられないほど種類があったし、部数もけっこう出ていた。

業界にはまだ余裕があり、当時はボクのようなズブの素人でもライターやカメラマンになれたのだ。

『ムサシ』での最初の仕事は、3ページほどのモノクロ記事であった。「新宿でナンパした素人の女の子」というような記事内容である。千葉くんが文章を書き、写真は僕が撮影することとなった。 続きを読む…

2009-11-16

等身大パネルと愛の暮らしを [北尾トロ 第12回]

いつものようにアートサプライ内のパイン事務所でうだうだしてると、増田剛己がやってきて仕事の話があるという。

「最近知り合ったムサシっていうエロ本の編集者から、何かやってよって言われてるんだよ。一緒にやんない?」

「ほぅ、ムサシか」

「あれ、知ってるの?」

「まったく。でもヒマだからいいよ。やる、やります、やらせてください!」

「ギャラはすごく安そうなんだけど、打ち合わせの経費は出るから、うまいもんでも食べてくれって。しゃぶしゃぶでも食べに行きますか」

「いいねえ。しゃぶしゃぶなんて一度しか食べたことないよ。行こう行こう。企画会議ってことで」
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2009-11-09

こうしてエロ本の仕事をすることになった [下関マグロ 第12回]

今でも四谷四丁目から四谷三丁目にかけての新宿通りを歩くと、ここを3輪の原付バイクで走ったことを思い出す。時期は1984年の秋から1985年の暮れまで。麹町にあるパインの事務所に通っていたのだ。

今でもそうだが、新宿通りから行けば、四谷四丁目の交差点から歩道も車道も広くなり、視界が開ける。僕は劇的に変わるこの景色が好きだった。

JR四ツ谷駅を通り過ぎると、右に上智大学がある。その並びのビルに『SPA!』になる以前の『週刊サンケイ』の入っているビルがあった。ここには、オリーブオイルのPR仕事で一度お邪魔したことがある。上智大学の学食はその後何度も食べに行ったことがある。

ルノアールがあり、その先につけ麺大王があった。今は両方ともない。その先に「蛇の目寿司」がある。これは今でもある。ただし一度も行ったことがない。というか、当時はお金がなく、自分たちにそんな選択肢があるということは思いもしなかったのだ。そのお寿司屋さんの手前のビルの地下にあったのがアートサプライという編集プロダクションで、パインたちはここに間借りしていたのだ。

パインが僕に期待をしていたのは、広告営業だった。 続きを読む…

2009-11-02

合格電報屋で一稼ぎをもくろんだ [北尾トロ 第11回]

アートサプライの事務所は四谷と半蔵門の中間にあり、食事処には不自由しなかったが、決して安くはなかった。そこで、少しでも食費を安く上げたい駆け出しライターたちは、上智大学の学食によく足を運んだ。ここなら300円もあればまともな食事にありつける。食べるのはもっぱらカレーで、定食だと贅沢した気分。経済事情は学生以下だ。

だが、挨拶代わりに「金がない」と言い合っているのも飽きてきた。何かてっとり早い現金収入の手段はないだろうかと考え、受験生相手の合格電報屋を思いついた。

「上智なら地方から受験に来る学生も多いから、けっこう注文があるんじゃないの。仕事もラクだよ。受験日、試験が終わった頃に行って2時間勝負ってとこだな。あとは発表日に見に行って『サクラサク』とか『サクラチル』とやるわけよ」

増田君と伏木君に提案すると、ふたりとも乗り気だ。

「元手もかからないし、いいバイトになりそうじゃん。伊藤ちゃん冴えてるねえ。伏木君もやろうよ」 続きを読む…

2009-10-26

怪しいニューメキシコの水島 [下関マグロ 第11回]

去年の夏のことだ。千代田区立図書館で本を借りようとしているときに後から「まっさん」と声をかける男がいた。

僕のことを「まっさん」と呼ぶ人間は限られている。本名が増田だから、〝まっさん〟と呼ばれていたが、そういう呼び方をするのは、この世でほんの数人だろう。

振り返れば、そこには水島がいた。ニューメキシコの水島である。何年ぶりだろう。10年以上は会っていないはずだ。しかし、おもしろいもので、昔の知り合いというのは、時間を飛び越え、すぐに会話ができる。相変わらずおしゃれで、高そうなワイシャツを着ていたので、

「よぉ、なんだか、羽振りいいらしいじゃない。今、新宿?」

と僕は水島に言った。彼は一瞬、どうしていいかわからないという表情になり、照れ笑いを浮かべ、

「まあ、そんな時期もあったのぉ。いい夢を見させてもらったよ」

と言った。 続きを読む…

2009-10-19

ほろ苦い焼き鳥の味 [北尾トロ 第10回]

1985年になっても代わりばえのしない日々が続いていた。1月、ぼくは27歳になったが、それで気持ちが変化するわけでもない。唯一の趣味であり、かつては生活費稼ぎの手段でもあった競馬は、資金難のため当分封印。週に3日ほど四谷に行く他は、自宅でおとなしく過ごす。借金した100万円がきれいさっぱりなく なったので、前年にやった仕事のギャラが銀行に振り込まれるのをひたすら待つ毎日だった。もっとも、入金額が少ないので、家賃を払うといくらも残らなかったが。

だからといって暇を持て余すかというとそうでもない。時間があるし、周囲には似たような連中が多いから、ちょくちょく誘いがかかるのだ。用件が仕事じゃないだけなのである。

前年の秋頃はテレビ局の仕出しアルバイトなどで忙しそうにしていた増田君も、いまでは以前のようにヒマそうで、赤い3輪スクーターに乗っては遊びにやってきた。やっと花開いたかに思えたオフィスたけちゃんだったが、あっという間に開店休業状態に戻ったようだ。 続きを読む…

2009-10-12

放送作家にしてやると騙された [下関マグロ 第10回]

最初に買ったワープロは富士通のマイ・オアシス2だった。高見山がテレビコマーシャルをしていた「ザ・文房具」というシリーズのワープロで、こんなに小さいと宣伝していたわけだが、相撲取りのなかでも巨体の高見山が持っているのだから、そりゃ小さく見える。我が家にやってきたものは、たしかにそれまでのワープロに比べれば価格も安く、小さかったが、それでも机の上を占領していた。時期は1983年の秋くらいだったろうか。中野坂上でスーさんとルームシェアを始めた時期だ。つまり、まだ『スウィンガー』の営業マン時代。

価格は50万円くらいだった。もちろん現金では買えないので、丸井のローンである。

買った理由は、当時流行していたミニコミ誌を自分でも作ってみようと思ったからだ。しかし、新しく買ったワープロは、まったく使いこなせなかったし、ミニコミ誌についてもどういうものを作りたいかというような具体的なものはなかった。ただ漠然と作りたいと思っていただけである。今から思えばなんともアホな話だ。 続きを読む…

2009-10-05

四谷の間借り事務所に通い始めた [北尾トロ 第9回]

そうか、下関マグロ(増田剛己)は失業保険をもらっていたのか。前回の原稿を読むまで、そんなことはすっかり忘れていた。いまどうやって食いつないでいるかというのは切実なことではあるのだが、会社員経験がないぼくには関係のない話だったので、聞き流してしまったのだろう。

引っ越しして電話が復活したため、八重洲出版という会社で働く大学時代の友人から連絡がきた。

「ライターになったんだってな。仕事はあるのか」

「ない。毎日ぶらぶらしてる」

「そうか、じゃあオレんとこで仕事しろよ」

持つべきものは友である。『ドライバー』の編集をしているヤツは、すぐに仕事を与えてくれた。 続きを読む…

2009-09-28

無職になり、失業保険をもらうこととなった [下関マグロ 第9回]

雑誌『スウィンガー』の編集長である佐々木公明さんが、電話をくれた。

「増田くんも独身でどこで、ちゃんとご飯食べてないんじゃないの? たまにはウチにきなよ」

佐々木さんは新婚で、同じ会社の女性と結婚していた。だから、僕は両人を知っているのだ。家をきけば、歩いていけるほどの距離ではないか。

約束の日、佐々木さんの家に行くと、スーさんもいた。かつて一緒に暮らしていたスーさんである。彼は今、落合に住んでいると言った。

佐々木さんの奥さんの手料理をいただきながら、スーさんになにをしているのかと聞けば、

「失業保険をもらっているからなにもしてないよ」

という答えだった。 続きを読む…