2009-08-17

小さな広告代理店に入社した [下関マグロ 第6回]

イシノマキの入っているビルのエレベータでのことだ。

「お前、よかったらウチに来いよ」

そう、北関東訛りでしゃべりかけてきた男がいた。広告代理店ハリウッドの社長、葛飾さんだ。僕がイシノマキでなにもすることがなく、クサっているのを知っていて、声をかけてくれたのだろう。それにしてもせいぜい顔を知っているくらいで、よくそんなことが言えるなぁとちょっと不思議な気分だった。僕で大丈夫なのだろうか。とにかく詳しい話を聞くため、翌日、ハリウッドを訪れることにした。
オフィスは、新宿7丁目、明治通り沿いのマンションの一室だった。
社長の葛飾さんと、経理その他なんでもやる女性社員がひとりいるだけの会社だ。女性社員はまだ20代だったが、なかなかしっかりしていた。社長の葛飾氏は40歳手前くらいで、中堅の広告代理店の勤務から独立した人だった。たぶん当時はこういう人は多かったと思う。広告といってもほとんどが、雑誌媒体が中心だったろうが、インターネットが登場する前の時代には、それなりに需要もあったのではないかと思う。

「給料は15万でいいか?」

以前もらっていた金額と同じだ。悩む間もなく、僕はハリウッドに入社することになる。
これがちょうど1984年の6月の終わり頃のことだ。この年は本当に僕にとっていろいろなことが起こった年となる。おもしろいのは3ヶ月ごとに職を変えたことだ。3月までは『スウィンガー』というスワッピング雑誌の営業をやっていた。4〜6月まではイシノマキという編集プロダクションにいて、7月〜9月まではハリウッドに所属することになる。
編集者やライターになることはあきらめ、将来は、葛飾さんのように、ひとりで気ままに広告代理店でもやれればいいなと思った。
給料は15万円だが、実はここでも仕事らしい仕事はなかった。それでも、僕は葛飾さんには損をさせないという自信が少しあった。
『スウィンガー』時代に知り合った岩国さんという人からおもしろい仕事をもらっていたからだ。
僕よりもほんの少し年長の岩国さんは『女性通信』という雑誌を発行していた。
当時、「夕暮れ族」を代表とする愛人バンクなるものが流行していて、『女性通信』は愛人志願の女性が個人広告を掲載している雑誌だった。
『スウィンガー』を発行するSESという会社は、多くの書店流通網を持っていた。『女性通信』もSESの販売ルートで流していたのだ。そういった関係で僕は岩国さんと知り合うこととなった。宮崎県出身で、早口でしゃべる岩国さんには、その後も何度か仕事を世話してもらうことになる。

僕がSESをやめてほどなく、岩国さんも『女性通信』の発行をやめていた。『スウィンガー』の社長が趣味の延長のような形で雑誌を発行していたのとは違い、岩国さんは愛人バンクというものに興味があるわけではなく、お金になりそうだからやっていたというところがあった。僕はそんなこと見当もつかなかったが、岩国さんは愛人ブームというものがそんなに長続きはしないと考えていたようだ。そして、新しい事業に乗り出していた。それがオリーブオイルの化粧品販売であった。

岩国さんに呼び出されたのは、まだイシノマキに在籍していた頃であった。池袋にある事務所に行くと、「仕事をしませんか?」といきなり言われた。
雑誌の読者プレゼントコーナーに商品のオリーブオイルを掲載してもらうため、出版社をまわる仕事である。雑誌にもよるが、ひとつ掲載されると5万円をくれるという。

商品写真を預かり、試しにいくつかの雑誌社をまわってみた。昔は今ほどセキュリティもうるさくなかった。
背広にネクタイ姿で編集部へ行き、そこらへんにいる人間に「読者ページの担当者の方はどなたでしょうか?」と聞いてみる。たいていプレゼントコーナーは読者コーナーの中にあったからだ。
教えてもらったら、その人にオリーブオイルの商品写真とニュースリリースを渡し、「読者プレゼントできますよ」と言うのである。

リリースにはこんなことが書かれていた。

「読者5人にオリーブオイルをプレゼント、応募者全員に試供品を差し上げます」

今なら、無料お試し商法(そんな呼び名があるかどうか知らないが)として、テレビのCMなどでもおなじみだが、たぶんそういう商法の走りではないかと思う。

資料を渡すと、あとは新しい号が出る頃に書店に行って、記事が載っているか
どうかチェックする。載っていれば、その雑誌を岩国氏のところへ持っていく。そうするとすぐに5万円をくれるのだ。僕は「これでよく5万円もくれるなぁ」と思った。
こまめに出版社をまわると、載せてくれるところはけっこうあった。あまりにマイナーな雑誌の場合だと3万円だと言われることがあったが、たいていは5万円もらえた。

僕はこの売り上げすべてを広告代理店ハリウッドに入れるという約束をした。そのためかなり自由に毎日を送れたと思う。とりあえず、出社して、それから出版社をまわってくるといって、外出し、夕方には再び会社に戻るといった毎日であった。

時には葛飾さんにお供してクライアントをまわることもあった。葛飾さんは有名な靴メーカーなどをクライアントに持っていた。
あるいはちょっとしたパーティなどにも連れて行ってくれた。当時の僕にはどういう関係のパーティかはよくわからなかったが、葛飾さんとそういう場所へ行くのは楽しかった。
若い僕はたいてい、「葛飾さんのところへ来る前はなにをしていたのか」と聞かれるので、「以前は『スウィンガー』というスワッピング雑誌で営業をしていたんですよ」
というような話をした。たいていこういう話題は食いつきがよかったからだ。

ところが、あるパーティからの帰りに葛飾さんは、

「増田、お前、よくスワッピング雑誌の話をするけど、あれ、あんまりしないほうがいいぞ。むしろそういうことは隠しておけ」

というようなことをポツリと言った。これにはちょっと驚いた。これまで喜んで話を聞いている人ばかりで、こういう忠告めいたことを言ってくれる人は初めてだったからだ。
この人は僕のことについて親身になって考えているのかもしれない。そう思ったが、僕が広告代理店ハリウッドに籍を置いたのはたった3ヶ月であった。
やめた理由というのが、いまから考えれば奇妙なかんじなのだが、失業保険をもらうためであった。こうして僕は1984年の10〜12月は無職になったのだ。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった