昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

発行:ポット出版
北尾 トロ 著, 下関 マグロ 著
定価:1,800円 + 税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月刊行]
印刷・製本●シナノ印刷株式会社
ブックデザイン 和田悠里/大原真理子
書籍のご購入は右側から ⇒


内容紹介

北尾トロ=“伊藤ちゃん”と下関マグロ=“まっさん”の20代。

金なし。定職なし。でも時間だけは腐るほどあった、1983〜88年のあの頃。
ライターになってはみたけど、気分は悶々、未来は不透明だった──。

当時のライター・出版業界の気分から、おかしなペンネームの由来までわかる、ふたりの原点を振り返った青春ボンクラエッセイ。

目次

まえがき 下関マグロ

◎第1章 出版業界に転がり込んだ
1983年3月〜1984年8月
●トロ編
序章
編集者になれるとはとても思えない
離れがたきナナオ設計
スカスカのアドレス帳
イシノマキの過酷な支払いシステム
フリーライターの名刺をつくってみた
フリーライター初仕事と居候生活
●マグロ編
序章
就職活動は大学を卒業してから
スワッピング雑誌を発行する出版社へ就職
フリーライターって素敵な職業かも
名刺をつくればライターになれるというけれど
編集プロダクション「イシノマキ」は天国か地獄か
小さな広告代理店に入社した

◎第2章 かくも長き助走
1984年8月〜1985年3月
●トロ編
借金して吉祥寺に引っ越した
四谷の間借り事務所に通い始めた
ほろ苦い焼き鳥の味
合格電報屋でひと稼ぎをもくろんだ
パイン事務所での暗黒時代
等身大パネルと愛の暮らしを
幻のアフリカ旅雑誌企画
●マグロ編
伊藤秀樹への原稿発注!
失業保険をもらいながらライターにチャレンジ
オフィスたけちゃんの誕生
放送作家にしてやると騙された
こうしてエロ本の仕事をすることになった
エロ本の仕事で女の子の路上撮影
高橋名人とカメラ
初めてのライター仕事

◎第3章 時間だけはたっぷりあった
1985年8月〜1985年12月
●トロ編
オイルぬりぬりマンの夏
いきなり単行本の著者になった
本が出ても何も変わりはしなかった
スポーツライターへの道が開かれた!?
間借りを脱し、新宿に共同事務所を開くことに
●マグロ編
読者チャレンジ企画とAVの助監督
アダルトビデオの助監督という仕事
決意というより成り行きでライターに
金はないが、時間だけはたっぷりあった
会社の役員になってくれと頼まれた

◎第4章 トロとマグロの誕生
1986年1月〜1987年1月
●トロ編
データ原稿書きで、手のひらが真っ黒だ
スキーができないスキー雑誌のライター集団
ラーメンとカレーを食べまくった初取材
彼女と別れ、妹と経堂に住む
事務所がギクシャクし始めた
ぼくが本当にフリーになった日
●マグロ編
デカい明日になりそうな『ビッグ・トゥモロウ』の仕事
タダほど高いものはない。スキー合宿顛末記
「北尾トロ」が誕生した瞬間!
ライターの三種の神器がそろう!
クリスマスイブの出来事
パインの事務所にお別れ

◎第5章 脳天気商会
1987年1月〜1988年1月
●トロ編
スイスでの単独取材
作家志望の後輩が居候にやってきた
脳天気商会、テキトーに誕生
岡本君引き込み計画
初ライブと初小説
そろそろ中央線に戻ろうか
●マグロ編
スキー田舎紀行
バンドやろうぜ!
30歳までにライブをやるぜぃ!
ついにライブの日程が決まった!

◎第6章 先行きは未確定
1988年4月〜1988年12月
●トロ編
気分は悶々、未来は不透明
田辺ビルの日々と岡本君のライターデビュー
キミにはスポーツマンの爽やかさがない
いつまでも明けない空に
●マグロ編
新連載「プータローネットワーク」と事務所の居候
ドント・トラスト・オーバー・サーティー
消費者金融とNTT伝言ダイヤル
下血報道とフリーペーパー
そして僕はからっぽな自分に気がついた

あとがき 北尾トロ

プロフィール

担当から一言

先が見えないこと。自分が何ものなのか、わからないこと。
駆け出しの社会人として、20代の若者に不安の種は尽きません。
でも、それはそれ。なんとかなる。時間はまだたっぷりある。
ほとんど無根拠に近いですが、そんな楽観性は、逆に若者の武器でもあると思います。
とにかく面白いことをやる。そしてそれを続けてみる。
ずっと歩み続けることが大切なんじゃないか。いくつになっても。
そんなことを考えさせてくれる、ふたりの若者のライター稼業に寄り添った、ちょっと青臭い、元気の出る本です。

著者プロフィール

北尾 トロ(キタオ トロ)

本名、伊藤秀樹。1958年、福岡市生まれ。
小学生の頃は父の仕事の都合で九州各地を転々。東京都立日野高校、法政大学卒。 個人事務所(株)ランブリン代表。NPO法人西荻コム理事長。西荻ブックマークスタッフ。季刊ノンフィクション雑誌「レポ」編集・発行人。

下関 マグロ(シモノセキ マグロ)

本名、増田剛己。1958年、下関市生まれ。
大学卒業後、出版社や広告代理店を経て、26歳でフリーライターとなる。

追記

イベント



【レポート&動画】2011年4月25日(月)刊行記念トークイベント「ライターとして生きぬくために必要なこと─職業ライターの今と昔をとことん語ります」@SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS



メディア情報



エキサイトレビュー/いつまでも、若い、新人、ゆとり、ではやっていけない。『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』

ガジェット通信/等身大パネルと一緒に生活をし“オイルぬりぬりマン”をした2人組

「本の雑誌」2011年6月号/「今月の一冊」



初出



本書は、ポット出版ウェブサイトでの連載「北尾トロ×下関マグロのライターほど気楽な稼業はない」を元に、加筆修正を施し書籍化したものです。

・「北尾トロ×下関マグロのライターほど気楽な稼業はない」(2009.6.8-2010.10.18)



プロモーションビデオ



●北尾トロ編『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』by SPBS_TV





●下関マグロ編『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』by SPBS_TV




この本への反応

  1. 伊藤さん、増田さん、こんにちは!
    編集長の福岡さんって、僕のこと?
    それとも、菅沼さんのことかな?

    昨日、僕の経歴について触れる必要があり、そのとき突然、「あの懐かしい青春の日々、ボブスキーの痕跡がインターネットに残っているなんて奇跡があるのだろうか?」という閃光が僕の頭を走り抜けました。
    そして、「昭和が終わる頃、僕たちはライターになった」を見つけたのです。

    伊藤さん、あなたの才能を最初に発掘したのは、僕です。
    僕は、初めてあなたの原稿を見たとき、繊細なガラスのようにちょっとつつくと壊れてしまいそうな、澄んだ、はかなくも美しい文章にハッとしました。
    スキー雑誌を創刊したものの、巻頭を飾るカラーページは、カメラマンの持ち込んだ躍動感のない、定番ともいえるヨーロッパアルプスを滑るスキーヤーのカットしかありません。
    そこで、僕は、その写真に合わせて、君に詩を書いてくれるよう依頼しました。
    こうして、ボブスキーの巻頭カラーページは、初めてのスキーシーズンを乗り切ったのです。
    あなたは、ライターではなく、詩人になるべき人だったという確信は、今も変わりません。

    僕が目指したのは、スキー雑誌の「ポパイ」でした。
    これまでのスキー雑誌ではなく、若者文化をリードする平凡出版のポパイのようなスキー雑誌を出したかったのです。
    だからボブスキーには、エッセイスト、ミュージシャン、作家など……様々なジャンルの執筆者が登場します。
    中でも、僕が一番原稿を書いてもらいたかったのは、開高健氏でした。
    僕は、平凡パンチに連載された「風に訊け」が大好きで、スキー誌版「風に訊け」の執筆を彼に依頼しました。
    しかし、返事は、「僕も書きたいんだよ。でも、体が悪くてね」というものでした。
    それから、しばらくして、開高健氏は亡くなりました。

    あなたたち若いスタッフの力で、その目標はほぼ達成できたと思います。
    八年後、編集部を去ることになったとき、僕には、「この編集部は解散することになるだろう」という確信に近い予感がありました。
    理由は、企画力が育っていなかったからです。
    面白い企画を生み出していく力はある、けれど、それを深めていくことができない。
    僕は、企画会議を通じて、若いスタッフたちの限界を感じていました。
    そして、その通りになりました。

    実は、僕は、ボブスキーが軌道に乗ったあと、若者向けの一般誌を創刊したいと考えていたのです。
    伊藤さん、増田さん、あなたたちふたりは、その強力な戦力になりうると信じ、温存してきました。
    残念ながら、その夢は叶いませんでしたが……

    おふたりも参加して下さったICI石井スポーツのアウトドア・カタログ「EARCHIAN」の編集後記で、僕は次のように書きました。

    スキーが好き、山が好き、というぼくがついにアウトドアのカタログを出すことになった。
    いつの日か、そんな本を出してみたい、というのが僕の夢だった。
    都会の喧騒と、時の流れの速さは、ぼくたち若者を魅了せずにはおかない。
    時の流れを忘れさせ、新緑の木々の芽生えを、そして木枯らしの音を忘れさせる熱狂が都会にはある。
    時はいつも後からついてくる。
    でも、若いということは、いつもそういうものなんだと思う。
    そんなぼくが、無性に山に行きたくなることがある。
    徹夜続きの手をふと休めて、机の中からなにげなく取り出した一冊の手帳。
    その1ページ目に書き込まれたタイム・テーブル。
    ぼくが初めて登った山、上越の苗場山の山行記録だ。
    時を記しただけの断片的なメモ。
    その数字の中から浮かび上がってくるさまざまな思い出と思い。
    都会の中にあって追いかける自然。
    アスファルトの世界にあって夢見る蒼い空、雪を抱く山々、そして風の声。
    そんなとき、僕は世の中の全てを超えて幸せだなと思う。
    三十路を越えての山体験だけれど、このアウトドア・ライフの世界に触れることができたことは、きっとぼくの人生において最大の収穫に違いない。
    このカタログづくりには、スタッフのことばにならない苦労があった。
    後半の一ヵ月はほとんど徹夜だらけだった。
    苦しい思い出の多かったこのカタログづくりに、スタッフへぼくの心からの愛とサンクスをこめて。

    おふたりにとっての青春の日々は、また僕にとっても青春の日々でした。
    夢を見て、夢を追いかけ、がむしゃらに駆け抜けたあの日々……
    あの高揚に満ちた熱い日々をともに生きて下さったおふたりとボブスキーのスタッフ全員に心からの感謝をささげます。
    本当にありがとう。

    かつて存在したスキー雑誌「ボブスキー」の編集長 空閑俊親より

  2. 空閑さん
    コメントありがとうございます。
    増田です。
    その節は、右も左もわからぬ駆け出しのライターである僕に、
    仕事する機会を与えてもらい、本当に感謝しております。
    本稿を書くため、
    『ボブスキー』を探しに国会図書館へ行きましたが、
    ありませんでした。残念。
    手元に本誌はありませんが、当時の記憶は自分の中に
    深く残っております。

  3. 空閑さん、お久しぶりです。
    伊藤です。
    『ボブスキー』ではお世話になりました。
    後期は実質的に抜けてしまい、気がつけば
    空閑さんの姿もなく…ということで
    すっかりご無沙汰してしまいました。
    ぼくらは相変わらず友人として、ライターとして
    なんとかやっております。
    この本は、そんなふたりで作った本です。
    読んでいただきありがとうございます。