2009-08-11
イシノマキの過酷な支払いシステム [北尾トロ 第5回]
カメラマンのアゴから大粒の汗が流れ落ちていた。そばにいるライターも、まともに顔を上げることができない。シンとしてちゃあダメだということはわかっていて、「その調子!」「そうそう、その感じ」と意味もなく明るい声は出ていても、内心ドキドキなのが手に取るようにわかる。もちろん、ぼくも同じだった。
だって目の前に裸の女の子がいるのだ。それも、モデルとかではなくまったくの素人である。初めて人前で脱ぐ女の子と、初めてヌード撮影するカメラマンと、初めてヌード撮影に立ち会うライター、編集者。ほんの15分かそこらの撮影が数時間にも感じられ、終わったときには心底ヘトヘトになっていた。女の子が帰るとライターは「いやぁオッパイ大きくて勃起もんだったなあ」とおちゃらけたけど、そんな気持ちの余裕などどこにもなかったことはわかり切っている。
『スコラ』で、某社スピーカーの編集記事に添え物として載せる色気のある写真を撮っていたのだ。男性誌だし、裸のひとつも欲しいという宇野さんの軽い一言がきっかけで知り合い関係を探しまわること1週間。脱げるコなんているわけないとあきらめた頃、なぜか謝礼5千円で撮影させてくれるコが現れ、今号もなんとかメドがついたのだった。やれやれだ、まったくやれやれだ。
ヌード撮影にはそれ専門のモデルプロダクションがあり、そこに頼めばカンタンなのである。が、ケチなイシノマキの社長からはOKが出ない。「プロのヌードモデルじゃ新鮮味がないでしょ」と言われたけれど、モノクロの編集記事で主役はスピーカーである。ヌードの新鮮さにこだわる読者などまずいないだろう。宇野さんだって裸なら何でもいい感じだったんだから。社長の本音は経費を安く済ませたいってことだけなのだ。『スコラ』からは、デザイン代は別として経費込みページ5万円で仕事を受けているという話だった。
ぼくが社長の声を無視してモデルプロダクションに頼みたいところをグッとこらえた理由もそこにある。だんだんわかってきたのだが、イシノマキでは経費が増えるとギャラが減るという恐ろしいシステムになっていたのだ。どういうことか。たとえば4ページの記事を作る場合、売り上げは20万円になる。で、イシノマキはここから有無を言わさず5割を抜き、残った10万円が経費を含む全制作費になるわけだ。ライター、カメラマン、ときにはイラストレーターも含めた外部への支払いは、10万円から経費を差っ引いた金額なのである。つまり、経費がかかればその分ギャラは少なくなってしまう。イシノマキでは、外部を泣かせても会社の懐は痛めない搾取体制がビシッと貫かれているのだった。
これがいかに安いかは、単価を出せばすぐわかる。4ページ企画で写真が10カットにイラスト3点、原稿が400字で10枚くらいは入るとしよう。一方、経費はどうかと言えば、フィルム代と現像代、撮影時の食事代や取材や打ち合わせの喫茶代、資料代、移動費で、節約したって4万円程度は消えてゆく。これであと6万円。写真1カット3000円で計30000円、イラストも同じで計9000円、残り21000円を10で割ったら400字1枚2100円。説明写真が必要ならカット数はすぐ倍増するからイラストは頼めない。今回のようにモデルを使ったり、名のある人を取材して食事でもふるまえば条件はもっと悪くなる。
この業界には前もってギャラを伝えない慣習があるらしく、金の話はわからないと答えておけと言われていた。だから気にしていなかったのだが、松山さんがやった仕事のギャラが振り込まれたとき、『スコラ』を引き継いだぼくに「いくら何でも安くないか」と苦情が相次ぎ、経理の厳原さんに確かめてわかったのだ。社長にもっと払いたいと言ったら鼻で笑われた。
「伊藤君は何もわかってないね。いいか、キミの稼ぎは今いくらだ?『スコラ』が月に8ページと、他が少し。売り上げが50万として会社に落ちるのは25万ぽっちじゃないか。我が社がキミに払っている給料や、キミが使っている電話代とか机代、原稿用紙代、名刺代なんかを合わせたらほとんど何も残らない。会社がつぶれたらギャラも払えなくなるだろう。キミが一緒に仕事しているのは若いヤツが多いんだから、うまく説明してわかってもらいなさい。それも編集者の仕事のひとつだよ」
イシノマキに出入りするフリーの人たちは、ぼくから見れば仕事ができる人が多かった。年代が近いせいか、仲良くもなってきている。当然、他にアテもない。必死で探したって、またギャラでトラブルになるだけだ。ぼくは安いとこぼしながらも仕事を受けてくれる彼らに、離れて行って欲しくなかった。そのためには、ギャラは安いがおもしろいとか、やってて楽しいとか、何かなきゃいけない。
でも、ぼくには何も持ち合わせがなかった。できることは遊びであれ食事であれ彼らに誘われたら断らないことと、仕事の負担を減らすために一部を自分で書くことしか思いつかない。前者は自分にとっても楽しいことで、後者はギャラ減らしの役に立つ。あとはそうそう、あるライターが言っていた。やりたい企画を通して欲しいと。
イシノマキにいる時間がますます減ってきた。いったん会社へ行くものの、昼からは出っぱなし。用がないときは新宿をうろつき、たまに時間があるときは名画座にしけこんで時間をつぶす。あとはたいてい打ち合わせと称してライターなどと喋るのだ。そして夜になると締め切りを控えた彼らのところに行って、資料を見やすく整理し、飯を作り、終電がなくなれば泊めてもらった。進行状況を見ながらキャプションとか小さなコラムを自分で書く。ギャラが減っても、ややこしい作業をしなくても良くなることを彼らは喜ぶことがわかった。ぼくにしてみれば、確実に原稿がもらえ、指導を受けつつ赤入れまでできる利点がある。
すっかり図々しくなったぼくは、出入りする女性ライターの家で飯をごちそうになったり風呂に入れさせてもらったりして、アパートに帰らずしてサバイバルする方法も編み出した。まわりに同世代の女の子が増えたのに誰ともつき合いたいなんて思わない。そんな余裕はどこにもなく、大した仕事でもないのに毎日無駄に動き回り、くたくたになり、それでも身の回りに起きるあれやこれやが、やけに楽しい。
ある出版社の雑誌で、初めてライター発の企画が通った。それ以外にも頼まれたページがあり、それを自分で書くことにしてこっそりギャラを調整し、いつもより多めのギャラが支払えたときはざまみろ社長と思った。とはいえ家計のやりくりみたいなセコいやり方にすぎず、抜本的解決にはほど遠い。イシノマキにいるかぎり、ずっとこんなことが続くかと思うと気が滅入る。そんなときは会社に持ち込んだギターを皆が帰った後でかき鳴らし、でたらめな歌をがなるのだった。
「お。まだいたのか。いまなら終電間に合うだろう、ヒマならうちにこいよ」
そんなとき、いいタイミングで電話をくれるのがぼくより5歳ほど年長のライター、パインである。終電に乗って家を尋ねると、パインはすでに一升瓶ワインを片手にご機嫌になっている。
「で、伊藤ちゃんはいつまでイシノマキにいるの。あそこでいくらがんばってても先が知れてると思うけどな」
「だけどオレ、何もできそうにないから。サラリーマンとかやりたくないし、編集者はだんだんウンザリしてきたし」
「ライターは? フリーになってみれば」
パインみたいに? その選択はどうかなあと笑って済ませた。これまでライターになるなんて考えたことがなかったのだ。ライターか。編集者よりはラクかもしれないなあ。ギャラの支払いで頭を悩ませるなんてアホらしいことはしなくていいもんなあ。
その話はぼくもパインもすぐ忘れた。翌日からは、いつものドタバタした毎日。そしてある日、めまぐるしく動いて時計が0時を回ったとき、今日が26歳の誕生日だと気がついた。たまたま、その日は仕事がヒマな上、誰の誘いもない。日の高いうちにアパートに戻り、銭湯に行き、コインランドリーで汚れ物を洗う。こたつに潜り込んでテレビを見ていると、急に自分に腹が立ってきた。
友達ができたと喜んでるけど、イシノマキでの仕事はあまりにも冴えねえ。パインに言われるまでもなく、いい加減でさよならしないと何ともならん。
翌日、社長にバイトを辞めさせてくれと言いに行った。これで3度目。引き止められても、断固辞めてやる。
この連載が単行本になりました
さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]
目次など、詳細は以下をご覧ください。
◎昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。
著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]
目次など、詳細は以下をご覧ください。
◎【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった