2009-06-15
序章 [北尾トロ 第1回]
大学3年末の試験が終わってすぐ、生まれて初めての海外旅行でインドへ行き、すっからかんになって帰国。そのまま九州の実家に転がり込んでしばらく過ごした4月初旬、ひとり暮らしをしていた阿佐ヶ谷のアパートに戻り、2カ月ぶりで大学に行ったら留年が決定していた。インドで遊んでいる間に、法政大学社会学部では追試が終わっていたのである。
間抜けだ。落とした必修単位は英語かなにかだったと思うが、ほとんど白紙の答案を提出したにもかかわらず、ぼくは追試とか、留年なんてことが全然頭になかったのである。留年者を貼り出した掲示板の前で呆然としていると、通りかかった知り合いがニヤニヤしながら声をかけてきた。
「もう一度3年生かよ。ま、お前らしいな」
どこが“らしい”のかはわからなかったが、いまさら騒いでもしょうがない。それより、この事実を親にどう伝えるかだ。父は他界しており、母は決してラクな生活をしているわけじゃない。この上、1年余計に学費と生活費の面倒を見てもらうのは心苦しい。今年はともかく、5年目となる来年は、学費くらい自分で出すべきだろう。
その5年目、ぼくはほとんど大学へ行かず、アルバイトばかりしてなんとか卒業にこぎつけた。だが、サラリーマンになりたくなかったので、就職活動もしなかったし、自分の将来にさしたる関心もなかった。
いや、何もしなかったわけじゃない。九州に戻ってもしたいことなどないのだ。母方の親戚が菓子舗をやっている関係で、うかうかしていると菓子職人になれと言われる可能性があった。それを避けるためにも東京にいる理由は必要だ。
そこで年が明けてから新聞広告で映画会社の「にっかつ」の求人募集に応募。しかし面接の前夜、当時封切りされていた「嗚呼!女たち 猥歌」を見に行った帰り、チンピラに絡まれてボコボコにされ、翌朝は顔面が腫れ上がって家から出られずあえなく断念してしまった。卒業間近の3月には、またしても新聞広告で書店ルートセールス(百科事典などを営業する)の仕事に応募。面接のみで採用され、ホッとしたのもつかの間、研修初日の昼休みには「やっぱり入社は辞めます」と口走り、当てのないまま社会人になってしまったのである。卒業式には出なかった。
もともと就職などしたくなかったのだから落ち込むこともなかったけれど、就職が決まったと喜んでいる母には働いていると嘘をついた。その嘘も帰省した夏にはバレ(営業マンのはずなのに、運転がド下手だった)、「なんかおかしいと思うとったんよ。でも3時間で辞めたなんて……」と、深い深いタメ息をつかせてしまうことになる。
明るい見通しなどどこにもないまま、ぼくは、いまでいうフリーターとして無為な日々を過ごしていた。好きなことは競馬だけ。地下鉄の地盤沈下を調べる夜間測量のアルバイトをし、週末は馬券を握りしめ、当たれば金がなくなるまで遊び、負ければ翌週もアルバイトをする単調な生活。でも、困ったことにこれがなかなか快適なのだ。サラリーマンにだけはならないと決めていたが、別にやりたい仕事もないわけで、その日暮らしは性に合っている。もちろん漠然とした不安はあるのだが、まぁどうでもいいやと思っていた。
どうでも良くないと思っていたのは母である。だらだらフリーターを続ける息子に、最後通告がきた。どこでもいいから就職するか、学校に行くか、田舎に帰るべし。就職も九州に戻ることも眼中にないボンクラ息子は、学校という選択肢にすがりつく。ちょうどそのとき、競馬で当てた10万円が手元にあり、その金で行けそうな専門学校を探すと、ひとつあった。『ジャーナリスト専門学校夜間部』というところだ。ジャーナリストになりたいなどとは思っていなかったが、おもしろいかもしれない。ぼくは翌日、高田馬場にあるその学校へ行き、ルポライター養成講座みたいなところに入学を申し込んだ。でも、やる気がないから出席しない。行ったのは3回くらいだったろうか。ルポライターや出版業界への興味が高まることもなかった。
アホらしい。その頃のぼくは、阿佐ヶ谷から引っ越した高円寺のアパートで猫を飼い、それなりに楽しくやっていた。前述した週払いのアルバイトでカツカツだけど生活だけはできている。仕事は終電後から始発前までで、昼間は時間が自由になるから映画も見れるし本も読み放題。勤め人になることを希望している母には悪い気もするが、やりたいことが出てくるまでは、いまの暮らしでいいじゃないか。
そんなふうに開き直りつつあったある日、大学の後輩から電話がかかってきた。卒業して田舎に帰るので、自分がしているバイトを引き継がないかという用件だ。小さな編集プロダクションで、原稿取りなどの雑用をするらしい。
「だめだよ、オレ、夜中のバイトしてるから」
「困ったなあ。ボク、誰か後がまを見つけないとやめられないんですよ。ヒマそうなのは先輩しかいないんです。話を聞きにくるだけでもいいから、明日、時間の都合つきませんか」
後輩のバイト先は、神田の神保町にあった。小さなビルの一室で社長に会うと、明日からさっそく来て欲しいという。なんだか忙しそうな雰囲気だ。きっと自分にはうまくやれないだろうと思い、じつは夜中にバイトをしていて、そっちを辞めるわけにはいかないのでムズカシいと逃げを打った。が、人が足りなくて困っているらしい社長は動じない。
「いいよ、最初は掛け持ちで。うちは月にバイト代11万。細かいことはおいおい教えるから。いいね」
そう言われると返す言葉がない。翌日から、昼間は編集見習い、夜中は地下鉄測量のWバイト生活が始まり、のんびりした生活に終止符が打たれる。
1983年11月。大学を卒業してから1年半経ち、ぼくは25歳になっていた。半年後、フリーライターの名刺を作って新米ライターになるなんて、想像もしていなかった。
この連載が単行本になりました
さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]
目次など、詳細は以下をご覧ください。
◎昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。
著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]
目次など、詳細は以下をご覧ください。
◎【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった