専門図書館に書いた●デジタルと出版
2010-10-11 沢辺 均
専門図書館協議会の機関誌(?)に原稿をかきました。
7月発行号なので、10月1日に公開します。
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デジタルと出版
沢 辺 均(ポット出版社長)
1.はじめに
国民読書年を機に本のこれからを考えてみる。
その国民読書年だけど、ウエブをみたら、テレビ番組なども作ってるみたい。「コトバダイブしよう。」ってコピーで広告、テレビCMとかもやってる。金かかりそー、だ。啓蒙の匂いがするなー。というワケで、国民読書年はどうも好きになれない。
啓蒙なんかに金使わないで、国立国会図書館のジャパンマークを本の発行日に間に合わせるとか、日本語の書籍の全文検索とその結果の一部表示を実現させるとか、基盤の整備こそやってもらいたいもんだ。というのは前フリ。「デジタル出版について」というのを書くことになったので、そっちにいこう。
2.出版とは何なのか?
まず、出版とは、いったい何なのだろうか?
僕の中では、(1)文字や絵・図表などを使って/(2)選別して/(3)知識や情報を/(4)複数の人に発信していく、というふうに整理している(まあ、正直、この原稿を書くために整理したんで、いつもいつも頭の中にあったのではないけど)。
(1)文字や絵・図表などを使う
文字情報(書記言語といってもいいかな)が伝える力は、ほとんど最高のものを持っていると思う。「○月○日に飲み会をやりましょう」ってことを、絵や動画で伝えるのはとってもむずかしい。もちろん音声言語を使えば文字情報と同じくらい正確に伝えることができる。それでも、文字情報を読む時間に比べればちょっと長くかかるし、正確さ、あとでもう一度確認できること、記録しておくという点で、音にも勝る。
音楽はメロディーを通して「情感」を伝えることに優れているのだけれど、知識や情報を正確に伝えるという点では、文字情報にかなわない。
もちろん、文字情報を使う場合も補助的に絵や写真、図表などを使うことも多い。例えば、戦争の写真。実際の現場をイメージさせる点では、写真のほうが文字情報より優れているけど、それがいつどこの戦争なのかといった知識や情報はキャプション=写真説明という文字情報に頼らなければならない。
(2)選別する
出版は、知識や情報を発信していくおこないだが、どれもこれも片っ端から発信する訳じゃない。そんなことをしたら、意味の薄いものがどんどん混じるので、読む方もメンドウだ。伝える意味のあるものを選別して発信するのだ。
(3)知識や情報
たぶんこのあたりがイチバン出版らしいイメージだ。知識や情報を、主に文字情報を使って伝えるのが出版。
ただし、この知識・情報というのは、とりあえずあらゆる知識・情報をさしているのであって、マンガだろうがエロ本であろうが知識・情報だ。
(4)複数の人に発信する
複数の人に、というのが結構大切なポイントだと思う。人はだれもがさまざまな知識や情報を他の人に伝えている。だけど、出版がそれらの一対一のやり取りと違うのは、複数の人を対象にしたものだということ。だから、暑中見舞いのハガキなどは、出版とは別なものだ。
逆に、学校の先生が配る「学級通信」のようなものは、複数の人に発信するのだから、広義の出版の範疇になると思う。
この四つのポイントが満たされているのが出版だと思う。逆に言えば、有料なのか無料なのか、職業なのか職業ではないのか(有償でない)というのは出版を定義する場合に関係ないと、僕は思っている。
だから、ブログはもちろん、友人知人をBccにいれて複数発信するメールも出版という行為としておきたい。「R25」のようなフリーペーパーも出版だし、企業の社内報も出版。出版社の社員などのように給料を受け取って知識や情報を発信しているのも出版だし、アフターファイブで無償のブログ書きも出版だと思う。
3.出版の現状をめぐってよく言われていることを考える
最近、出版をめぐる話題がメディアをよく賑わせている。
たとえばこんなことだ。(1)本が読まれない(2)本が売れない=出版(社)の危機(3)ネットワークに出版社がやられている。
(1)本が読まれない
毎日新聞が毎年「読書世論調査」というのをやっている。
ライターの永江朗さんによれば、ほぼ唯一の日本全国を対象にした継続的な調査だということだ。その「2009年版読書世論調査」(毎日新聞社)によれば、
88年=73% 95年=70% 00年=84% 05年=71% 08年=79%
というように、70年代〜90年代にかけてほぼ70%前後。2008年調査では79%と、ほぼ8割の人が読書をしている。これは総合読書率という数字で、書籍・週刊誌・月刊誌のいずれかを読んでいる人の率、である。
この場合の対象となるのは、「紙の本」である。総合読書率だけをみれば、決して「本」を読む人の率は減っていない。しかし、出版業界の売上げは近年減り続けていることを考えれば、「紙の本」を読む人の「率」は変わらなくても、読む「量」は減っているのかもしれない。
では、僕自身はどうだろうか? 文字はあいかわらず読んでいる。でも、その媒体はだんだんとパソコンの画面やiPhone(iPadはまだそれほど文字を読むことに使ってないけど)といったデジタルの媒体で文字を読む割合が増えていると思う。若い人たちに聞いたり、見たりしても、やはりその傾向は変わらないように思う。携帯電話を中心にしたメールや、携帯サイトといったデジタル媒体を読む頻度が高いようだ。
さらに、若い人たちを中心に、読むだけでなく文字を書く頻度も増えているのではないか。それは主にメールだけど、一昔前はハガキや手紙を書くことなんてほとんどなかったのに比べれば、書くという頻度、その文字量は増えているように思える。
僕は「本を読む」という行為を、ウエブサイトやメールの文字を含んだあらゆる文字情報を読む、というように読み替えるべきだと考えている。
「紙」の文字を読む量は減ってきたかもしれないが、いっぽうで、デジタルな文字を読む量は確実に増えている。つまり、僕らが「文字を読む」量は、ますます増えている、と考えるのが妥当ではないだろうか。
(2)本が売れない=出版(社)の危機
「本が売れない=出版(社)の危機」という言われ方にはいくつもの要素が混じっていると思う。たとえば、本の発行点数は1970年に比べて近年は4倍になっているが、販売冊数は2倍に満たない。一タイトルあたりの販売冊数が半減している。また、雑誌が特に売れないし、広告が入らなくなっている。出版社の決算が悪くなっている。たとえば講談社、小学館のような業界1位2位は、ココ数年赤字決算だ。
これらの物言いには、基本的には同意である。そしてその原因はネットワークだ。
読むものが、「紙」のものからデジタルとネットワークの文字へとシフトし、紙の本や雑誌は読まれる頻度が減っている。つまり売れなくなってきているのだ。ネットワーク上での広告が増えているが「紙」の広告は減っている。紙が主体の出版社は、ネットワークに読む人をとられ、広告をとられているので、決算が悪く、赤字も目立つようになってきたのだ。
現にこの僕も、これまで寝るときは本を読みながら眠りについていた。今は、本を読む前にiPhoneでこれまで読まずにすませていたメールマガジンや、ちょっと長文のウエブサイトの文章、ツイッターなどを読む。それらを読み終えてから本に向かうのだけど、ほとんど読み進められないまま眠ってしまう。
(3)ネットワークに出版社がやられている
こうした状況は、これまでの出版が、ネットワークでの「出版」に取って代わられているということだ。
さて、この状況は、良くないことなのか・良いことなのか、止めるべきか・止められるのか? 僕は良いことなのだと思うし、たとえ止めようとしても止められないことなのだと思う。
売れっ子の勝間和代さんの本のタイトル「起きていることはすべて正しい」を新聞広告で目にして、すげー、うまいタイトルだと感心した。僕は「起きていることはすべて正しい」と思う。正確にいえば起きていることは僕らがみんなで受け入れているということ、だから正しいと考える以外にどういう対処も成り立たない、ということだ。
自動車。公害はまき散らして来たし、交通事故で毎年何万人も「殺し」てしまった。だけど、僕らはひとたび知ってしまった自動車の便利さ、自動車を利用することで社会全体が豊かになったことを手放すことができなかった。だから、少しでも自動車のマイナス点である公害や事故を減らすということに社会全体として取組んできたのだ。そして、こうしたマイナスを減らしてプラスを生かすという行動以外、とる道を見つけることができなかったし、今も見つけられていない。
こう考えると、今ネットワークが広がっていること、僕らがネットワークを受け入れていることを、良いことか悪いことかを問うても意味がなく、その弱点を減らして、強みを増やすというように考える以外にないのだと思う。
では、出版が、ネットワークでの「出版」に取って代わられているというのは、どういうことなのだろうか?
第一に、だれもが「出版」できる状況を生み出したのだ。これまでの出版は少額といえ資本金を必要とした。取次との取引契約という条件を必要とした。放送が放送免許という条件を必要としたようにだ。
たとえば印刷の費用の特性を考えればわかりやすいと思う。10万字程度の文字情報を詰め込んだ本の印刷費用は、千部で50万円(単価500円)程度だ。二千部でも60万円(単価300円)、五千部では80万円(単価160円)。逆に少部数の場合、五百部で40万円(単価800円)、百部でも30万円(単価3,000円)。これがデジタル情報なら、印刷費用に該当するものはほとんどゼロだ。さらに、紙という物理物を全国の書店を通して販売するには必要な輸送、店舗費などなど多くの流通費用も不要。
第二に、こうしたことを背景にして、無料で文字情報を提供する人、したい人が膨大に生まれた。これに対して、出版社は「質」の高さを有料の根拠にして商売を継続したのだけれど、すでに個別の場面では敗退したり、陣地が少しずつ浸食されている。
小説はまだまだ生き延びているとはいえ、携帯小説の登場で、やや侵食された。辞書・辞典類にいたっては、Wikipediaはもちろん、ネットワーク検索というあらたな調べものツールにすでに浸食されている。もちろん、紙の辞書がネットワークにすべて取って代わられている訳ではなく、専門家の説明や、編集という力、それらに対する信頼にもとづいて一定の陣地をまだ確保し続けているが。
雑誌などに掲載されていた広告については、すでに売上げそのものが半分程度までネットワークに浸食されている。ネットワークでは、個人のブログ(マスではない!)でさえも広告の掲載媒体の対象であり、その範囲は広がっている。
既存の出版社にとっては、まずい状況かもしれない。
しかしこれは、まずい・まずくない、ということではない。出版の場が、たんに紙からネットワークに移動したにすぎない、ということなのだ。
4.今おこっている出版(メディア)の変容
今、出版や、出版社をめぐって起きていることは、基本的に出版が紙媒体からデジタルとネットワークに移行しているってこと。それがどのような経過をへて移行しているのかをもう一度整理しておこう。
・コンピュータのパーソナル化と、アーパネットにはじまるTCP/IPの通信プロトコルによるネットワークの広がりがあり
・さらにその費用が劇的に低下して
・出版を生み出したり、流通させる道具として実に使い勝手の良いものになり
・知識や情報の発信を、だれもが自由にできる状況を生み出し
・これまで生産費用や流通コストを負担できる組織の出版社がほぼ独占して来た発信者の位置を、すべてに人に明け渡さざるを得なくなった
というように整理できると思う。
ところが、まだ、何点かの結論の出ていない問題がある。
一つは、選別をどうするかということだ。はじめに「出版とは何なのだろう」で、(1)文字や絵・図表などを使って/(2)選別して/(3)知識や情報を/(4)複数の人に発信していく、を出版の定義とした。
出版の制作と流通がパソコンとネットワークによってまかなわれる度合いが大きくなっている中で、(1)文字や絵・図表などを使う、というのは、質を別にすればだれでもできることになった。だが(2)選別する、ということは、質そのものを判断することだ。
これまでは出版社がその選別を担ってきた。出版社はひとまず「そこそこ」にその役割を果たしてきたと思う。出版社が発行した本の多くのものは、一定の質を持っているものが、それなりに多くあったと思う。もちろん評価は別である。「バカの壁」を評価する人も、評価しない人もいるだろうが、そういう両方の評価を得るということ自体が、一定の質を持っていたということだとも思う。2チャンネルから生まれた「電車男」も、こうした出版社の選別をへているのだ。
ところが、ネットワークを通じて、誰もが自由に発信することができる現在、あまたあるウエブサイト・ブログなどを、だれもがすべてチェックして、直接選別することができるだろうか? 普通の人に評価する能力がない、と言いたいのではない。普通の人に、そんな時間はない、と言いたいのだ。そんな必要もない。出版社は、そういった普通の人のかわりに、時間を節約するために選別を行ってきた。
出版がだれもができるものになった時に、誰がこうした選別を引き受けるのか? 出版が一人一人の自分の発信したい知識と情報を自ら発信していくときには、一人で知識と情報を文字にして、他者の選別をへずに行われることになるからだ。
では、ネットワーク上では誰が選別を担っていくのか。候補はいくつかあると思う。人であり、検索ロジックなどを始めとしたシステムである。
人という場合、専門的な人が選別する場合と、無報酬で日々ネットを見て回っている膨大な人によって選別が行われる場合である。専門的な人の場合は、これまでの出版社社員のような人であったり、ブロガーと言われる人なども候補になるかもしれない。あるいは図書館員も候補者のひとつである。
いっぽう膨大な人々によって選別がなされるというのは、たとえば多くの人がアクセスしている、などというロジックから選別が行われるといった可能性である。あるいはいくつかの候補者が併存するという可能性もある。
今後どのように選別が行われるようになるのか、僕にはわからない。いずれにしても、僕らは、だれかの選別を抜きにして、もともと膨大な知識や情報、ましてやネットワークによってそれがさらに膨大にふくれあがる社会のなかで、一定の有効性を持った知識や情報にアクセスすることはできないと思うのだ。
二つ目の課題は、知識や情報の事実確認をだれがどうするのかということである。これも基本的な論理は「選別」と同じだ。これまでは職業として担う人によって主に行われていた。
そして、課題の三つ目は、費用をだれがどのようにして負担するのか、確保するのか、ということである。決して出版社が引き続きその費用を徴収すべきだと思うのではない。しかし、なんらかのコストが必要なのだ、ということは間違いない。
例えばさんざん話題になった、各大臣の記者会見取材のオープン化。現時点のオープン化の評価はともかくとして、今後は、一定の手続きさえ踏めばどのようなメディアも会見に参加できるという方向に進んでいくはずだ。後戻りするのはとても難しいだろう。さて、その記者会見だが、オープン直後の記者会見の質問を見て僕が感じてしまったのは、継続的にその分野の知識と情報を自分の頭の中に蓄積していない人の質問は、やはり単純なものだなー、ということだ。
また、時間的にも、真っ昼間、定期的に(あるいは突発的に)その記者会見を無償でフォローできる人がいるだろうか? それも継続的な知識と情報を蓄積させながら。
もちろん将来、衣食住に関わる労働をロボットなどが人間に替わって行うような社会にまでなれば、不可能ではないかもしれない。ギリシャ市民が、奴隷に支えられ、もっぱら衣食住を支える労働をしないで、政治議論ばかりしていたように。しかし、そうした社会は、実現する可能性はここ数十年のスパンではないと思う(あくまで予想でしかないけれど)。
なので、例えば、僕たちの日本の進み方を決める政治の有様を、継続的に、質の高い、知識と情報を提供することに、職業的(それによって衣食住といった生存のための費用が提供される人という意味で)な担当者を置く以外に、僕には現実的な可能性を見ることができない。
しかし、現状インターネット上の多くのメディアは、無料の情報公開にとどまっている。そこでは売上げが見込めていない。「売る」ということで、そういう専門性をもった担当者を確保して主に行われてきた従来の出版のモデルは成り立っていないのが現状だ。もちろんそれ以外にも、方法があるかもしれない。例えば、テレビとラジオは、ほぼ一貫して広告費モデルという、インターネット上の商売と同じ方法で、職業的な担当者をまかなってきた。学術出版の一定数は、研究者自身の資金によって成立してもきた。
ネットワーク上における「選別」の費用は、有料で販売する、広告費というスポンサーからの収入を当てにする、メディア発信者自身の拠出、あるいは図書館が典型のように税金でそれらをまかなう(科研費による出版補助だってあるし)などのどれかかもしれないし、複数の方法が混ざりあっていくのかもしれない。しかし、いずれにしても、当面そうした職業的な担当者を、どこかに置かなければ、選別や事実確認などを行う費用をまかなうことができないと思うのだ。
5.出版社の現状
出版社のこうしたネットワーク状況に対する対応はさまざまであり、出版社をひとくくりにしてその現状を述べることは適切ではない。このことをふまえた上で、しかし、それでも、多くの人は、出版社はデジタルに対して後ろ向きだと見ているのではないか?
それは、出版(メディア)の変容を前にして、どのような方向で望むのかといった方向性、方針の不明瞭さである。そこから派生して、方向・方針をたてることへの恐れ。例えば、長尾真国立国会図書館長の電子図書館構想への、なんとなく後ろ向きな反応。あるいは、Googleブックサーチに対する出版界の反発、などのようなものだ。
しかし、出版社の多くがただ単に後ろ向きな姿勢だと断じるのは少し不正確だと思う。
第一に2000年の電子書籍コンソーシアムに始まった、数々の電子書籍の取組みだ。これは、利用者の要望を、むしろ先取りして取組まれたと思う。しかし、いずれもほぼ「失敗」。もちろん今も継続しているデジタルとネットワーク活用の取組みもある。
第二に、長尾電子図書館構想への反発の中心にあるのは、電子書籍の取組みが失敗したことをふまえて、投資に見合う売上げ見込みがたたない、ということへの違和感であり、デジタル利用=電子図書館構想のすべてに対する反発ではないと思う。
だが一方、デジタルとネットワークの広がりの中で、その状況を大胆に活用・利用して、あらたな出版の可能性を切り開こうとしているわけでもない、というのが出版社の現状だろう。経済合理性、出版としての質の確保(選別と事実確認)、著作者の権利保持、そしてデジタルとネットワークの技術そのものの発展への対応、といった要素の絡み合う複雑な状況のなかから、出版社はまだ解答を生み出せていない。
そして、その解答は、同じ時代を生きている人々のだれもが生み出せていないと思う。
6.デジタルとネットワーク時代の出版
出版はなくなるどころか、ますます多くの担い手を得て発展していくと思う。
そして、デジタルとネットワークをうまく使いこなすことは、今後の出版にとって必要不可欠なことだと思う。また、極めて複雑になった現代社会では、複数の人によるチームでなければそれは生み出せないように思う。
デジタル・ネットワークの技術をもち、出版に対する深い思想をもち、経済性を担保し、チームのより良いあらたなルールを生み出し、複数の意思を担保しつつ、一つの意思としてチームの方向を生み出す方法をつくりだす、といった広い範囲の対応が必要で、それはとても一人でカバーできるようなものではないからだ。
これまで出版を担ってきた出版社がこのままの状態で、それを引き続き主要に担うポジショにはなりえないと思う。今後も出版社が担うには、自らのあり方を大きく変えなければならない。
アイディア次第で、出版というおこないは大きく状況を変え得るときだと思う。
今後、だれが、どう担うかはわからないけれども、出版はますます発展することは間違いないと思うのである。
(さわべ きん)
デジタルと出版
沢辺 均(ポット出版社長)
キンドルやiPadといった端末の日本での発売でますます出版界の大きな課題としてたち現れた電子書籍。この電子書籍状況から今後の出版を考えるために、まず出版とは何なのか?という確認から出発。そこから、今おこっている出版(メディア)の変容をデジタルとネットワークによる出版の大衆化として、それが出版のありようをどのようにしていくのかという視点を提示する。
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