2024-03-11
映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』の製作に参加したわけ
ポット出版は、代島治彦監督の運営するスコブル工房と、映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』の製作委員会を一緒に構成して、この映画の製作に参加した。
●ナタリーの記事
●予告編
●『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』のクラウドファンディング
僕は1956年3月生まれで、1971年の4月に高校に入学。
67年の10.8(ジュッパチ 佐藤訪米阻止闘争 中核派の京大生山崎君が死んだ)から高揚が始まった新左翼運動/ベトナム反戦運動/全共闘運動が下火に向かい始めた頃だった。とはいえ、まだ大学・高校でヘルメットを被って「戦う」ってムードがあった頃。
同じ年に高校に入学したなかにもブンド戦旗派で一年ダブって入学し直したやつがいたし、同じ年のその高校の入試には麹町中学校で全中闘の活動のことを内申書にかかれて、軒並み高校入試を落とされた保坂展人(現世田谷区長)もいた(入試で落とされてのちに「内申書裁判」になる)。
同級生のなかには、おなじ学校の戦旗派にさそわれ三里塚第二次執行阻止闘争に参加して、畦道から田んぼにおちてパクられたやつもいた。
一年生を中心に10人ちょっとで「全闘委」を作って黒ヘルをつくったりした。
そんな時代だった。
オヤジが共産党員だったこともあって、中学生のころには左翼を気取ってたし。
72年になると、2月に連合赤軍のあさま山荘事件。
立て籠もった5人のなかの高校生兄弟の下がちょうどおなじ歳、でなんだか自分が「遅れた」ような気分になった。
夏になると学校に比較的近い相模原で、相模原闘争=米軍戦車輸送阻止闘争(鴻上尚史の『アカシヤの雨が降る時』のネタのひとつでもある)があって、相模補給廠の正門前に高校メンバーでテントをはって、夏休み中泊まり込みしてた。
現地にきていた高校生たちのグループ=全都高校生相模原闘争連絡会議(町田・忠生・新宿・東大付属などなど)とも仲良くなったり、ジモトの寿司屋から閉店後のすし飯の残りを差入をしてもらったり、駅前でカンパをいっぱいもらったり、と闘争気分を満喫した。
そしたらなんと、73年3月に、高校から退学勧奨があって中退。
友達がいた(昼間部に)こともあって定時制の4年に転校、そこの友達に公務員の試験のことを聞いて、労働者になって左翼続けようと思って地方公務員になった。
公務員では仕事より組合運動・青年部運動ばっかりやってた。
でもしっかり飲んだり遊んだりしてたケドね。
公務員で10年程過ごしてたけど、その左翼運動ってことでは、ほんとに社会主義・共産主義でいいんだろうかって疑問が少しずつ大きくなっていった。
最終的に100人を超える死者を出す内ゲバ、高校生のときにあった連合赤軍の仲間殺しなんかは、ソビエトのスターリンの大虐殺や、中国での文化大革命という名の大虐殺とおなじ土俵のものに思わざるえなかった。
新左翼はスターリン(の虐殺・粛清)への批判から始まったはずで、それを克服できない既成左翼=共産党を強く批判したはずなのに、その批判は「世界革命を裏切って一国社会主義革命に逃げ出した」のがいけない、といった批判だったけど、どう考えたって、スターリン批判しても、内ゲバ・虐殺・粛清の論理を超えられるとはおもえなかった。
いまだからストレートにいえば社会主義・共産主義の論理のなかに必然的に内ゲバ・虐殺・粛清が内包しているとおもった。プロレタリア独裁という論理は、ブルジョアジーにたいしてプロレタリアが「独裁」して押さえつけるんだ、って論理だと思うんだけど、でもそれを、誰が、どういう基準で、どうやって決定するのか、明確な論理がないんだと思った。
なんで30歳で左翼を一切やめてた。公務員もやめた。
それからは、仕事をして、最終的にポット出版にいきついた。
高校生から二十代の「左翼」な気分や現場は、本当に面白かったといまでも思うし、そんなことをやったことに後悔はしていない。
そこで考えることや、いろんなことも「学んだ」と思ってる。
会議の運営の方法も、教えてもらったことも役立ってるけど、おかしいなと思って、どうやるのがいいのか?とかもいっぱい考えたのは、今も役に立ってる。
今も時々言うギャク。
「お知らせ」なんかのなんらかの「メディア」の大切さは、僕の中ではレーニンの「何なす(何をなすべきか)」の「全国を貫く政治新聞とその配布網の確立」ってのがどうしても結びついちゃう。
左翼運動をしたことを後悔はしてないし楽したかったと思うけど、それは失敗だったとも思う。
圧倒的に考えが足りてなかった、社会のありかたもただ正しい/正しくないとしか考えてなかった。いろんな人がいる状態で、なにをどうするのかという考えはまったく浅かった。
若造の社会への反発=自分のダメさのいいわけ。
ただ、そうした社会のムードがあって、そのなかでどんなことを考えていたのかというのは、記録として残しておきたいと思っていたんで、この映画の製作に加わることにした。
内ゲバに関しては左翼をやめた以降もいろいろ考えてきたつもりだけど、あんまり考えが進まなかったんで、この映画をとおして、もう一度考え直したり、友達と議論してみたかった。
そんなかんじで映画製作に参加した。
結果、それなりに、左翼や内ゲバのことなんかも自分で整理できたつもりだ。
なので、この映画づくりは、僕にとってとても大きなものをもたらしてくれたと思う(経済的には損失になりそうな予感がしてるけどw)。
ということでこの『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』がついに完成。
2024年5月25日(土) 東京渋谷 ユーロスペースで公開される。
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