ジュンク堂の福嶋さんと一杯飲んで、ヘイト本のことを書いておこうと思った
ジュンク堂梅田店の福嶋聡さんが『明日、ぼくは店の棚からヘイト本を外せるだろうか』という本をdZERO という版元から出版した。
ISBN・9784907623678/発行・dZERO/3,000円
ポット出版が製作委員会に参加した映画『ゲバルトの杜 かれは早稲田で死んだ』の2024年6月2日の大阪第七藝術劇場での上映会で、福嶋さんは代島治彦監督との上演後トークにゲストとして話しをしてくれた。
久しぶりに福嶋さんと話をしたくて、大阪まで行ってみて、トーク後に、監督や劇場関係者や、僕の左翼時代の友人の内藤進さん、ポット出版の著者たちと飲み会(二軒!)でおしゃべりした。
ヘイト本の「扱い」についてはいろいろ考えていることがあるんだけど、意見表明するとメンドーなことになりそうだと、どこかでヒイててこれまでしてこなかった。そんななかで、福嶋さんはちゃんと意見表明していて「なんか申し訳ないな」という気分があったのが、大阪まで行っても話をしたいなと思ったんだと思う。
ヘイト本をそれぞれどう扱うのがいいか、ということの僕の考えから書いてみる。それぞれというのは書店・取次・出版社と、図書館、など本を扱うプレーヤー、ということだ。それらの立ち位置によって、その扱い方は変わるのだと思うからだ。
まずは福嶋さんのいる書店について。
といっても書店の立ち位置によっても違うとおもっている。
ジュンク堂のようにさまざまな本を置いて、少部数の本でも探しに来てもらうのをコンセプトにしている本屋(僕はそう思っている、ネット書店もそうだろうと思う)。
ヘイト本もヘイトやヘイト本を批判する本もならべるのが良いと思っている。
福嶋さんはあくまでヘイト本に批判的な立場から、「言論のアリーナ」としての「ヘイト本を置く」ことを選択しているのだと思う。『NOヘイト!』フェアもやった(いわゆるヘイト本も並べたそうだ)。
一方、書店員の「狙い」で並べる本を選ぶスタイルの本屋は、その書店員の「狙い」でヘイト本を置くのも、置かないのも選択するのだと思う。
こうした尖った本屋は面白くて、自分の感覚に合うそうした本屋を見つけると少し遠くても時々行きたくなる。
次は取次。
取次は、本の内容に立ち入らないのがいいと思う。
僕の出会った取次の人は「検閲」のようにみられることをとても注意しているように思った。
もちろん、メディアやネットなどで「問題」になった本の場合に、慎重に吟味しているようだ。エロや、犯罪からみ、などで極稀に取り扱わないとされた本があることも知っているけど、すくなくとも基本は「検閲」にならないようにしながら、これはどうしても、、、という例外もないことはないといった考えのように思える。例外の本の是非はその本がどういう本なのかという具体的な問題として語り合う以外ないし、その緊張感は書店・取次・出版者がつねに持つべきもだとおもっている。
三番目は、出版社。
ポット出版では、ヘイト本を出すつもりはまったくない。
ただこれは、どのような内容がヘイト本(他国や他民族、マイノリティへの憎悪・偏見を煽る書籍)なのか、ポット出版自身で判断する以外にはないと思っている。
一方、わかりやすいヘイト本を出す出版社がある。そうした出版社には嫌悪感を感じるけど、僕に強く批判したい気持ちがあれば、批判する本をつくってアリーナに参加すればいいと思っている。
最後は図書館だ。
図書館はひろくさまざまな考えの本を用意して、市民に考える材料を提供するのがいいと思う。
こうした考えの基盤は、表現はたとえ僕が納得できないような表現であっても、表現すること自体は尊重する、という考えだ。
権力や制度や法律での規制は、なるべく少なくしたい。
もちろん、どうしても例外はでてくるだろう。
一番わかりやすし規制の例では、子どもとエロ表現などだ。
現在は、ある程度のゾーニング、という「規制」がある。
ストリップ劇場の18禁なんかがわかりやすい例かな、本じゃないけど。
これはどうする、ていう具体的な問には、表現の自由との折り合いにおいてどうしても矛盾は生まれると思う。ただ、こうした矛盾は、ずーと抱えながらやっていくしかない。一刀両断のわかりやすい基準に「頼る」のではなくてね。
映画『ゲバルトの杜』の製作に参加したのだけど、社会を丸ごと「良いもの」にする絶対的な正義の思想の実現のカツドウは、その正義実現の妨げに対して実力・暴力をともなった規制をうんでしまう可能性がたかまると思う。「内ゲバ」は、そうした暴力の極限まで肥大した例だった。映画製作への参加はこのことに無自覚だった自分の過去にたいする「オトシマエ」だった。
むしろ異なった正義がさまざま行われることが、考えを深まりを全体として前にすすめると考えるようになった。これが僕の個人的なゲバルトの杜の総括。