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[第15章●その他よしなしごと]
17… 和風「マグデブルク半球」経験
[2005.08.01登録]

石田豊
ishida@pot.co.jp

昨日、マクデブルクの半球の話題を書きながら、ぼくたち日本人は別に青銅(まだこだわるか)のボウルをつくって馬で引かせたりしなくても、日常的にこの現象を子供のころから体験しているのであるなあと、気がついた。

それはお椀のフタだ。蓋付きのお椀に吸い物が入っている。いざそれを飲もうと蓋をとろうとすると、これが取れない。力一杯引っ張ってもダメだ。すると横で笑いながら見ていた大人が、ほれ、ちょっと貸してごらんと手を伸ばしてきて、お椀の本体のほうをちょいっと押しながら、いとも簡単に蓋を取ってくれる。

なんでだろー、ふしぎやなあ、と思った経験はだれでもあるはずだ。われら下々の民草にとっては、蓋付きの椀なんてもんは、正月か旅館でしか目にしないものなので、子供には対策のための経験値が少なすぎるのだ。

ともあれ、これが和風の「マクデブルクの半球」似の現象である。

厨房では、たくさんのお椀を並べておく。吸い物の場合は、まずは吸い口だけが入っているのかもしれない。そこに熱い吸い物を注ぎ込んでいき、注ぎ終えれば端から蓋をしていく。蓋と言っても、かるく上に乗せる程度だろう。蓋を置く時には、吸い物の温度は非常に高い。であるからお椀の上部は吸い物からたちのぼる水蒸気が空気を押しのけているだろう。そこに蓋を置くものだから、蓋の中(つーか、お椀のなか)は吸い物と水蒸気になっている。

仲居さんが廊下を運んでくる過程で、吸い物の温度はどんどん下がる。であるから水蒸気もどんどん冷えて、元の液体に戻ってしまう。なにしろ、22.4リットルの水蒸気が水にもどればたった18ccの体積しかないんだ(ここ、あらっぽいですけど、気にしないでね)。お椀のふたの下はどんどん真空に近づいていく。

もちろん、ほんとの真空になっちゃうわけではない。だって、もともとが水蒸気だけで満たされていたわけでもないし、温度が下がったからといって、すべての水蒸気が液体に戻るわけでもない。ま、真空に近づいていくというだけ。「空気が薄くなる」といえば、ちょっと不正確かなあ。

そのことによって、ぷち「マクデブルク半球」現象が生じてしまう。だもんで、子供が青筋立ててひっぱったくらいでは、蓋は開くことはない。大人は椀のほうを指でおさえて変形させ、椀と蓋との間に隙間を作る。隙間がちょっとでもできた瞬間に、周りの空気は椀の中にびゅーっと入ってくるから、内外の気圧差がなくなるので、蓋は拍子抜けするほどたやすく取れてしまう。

さきほど「もちろんほんとの真空になっちゃうわけではない」などと、やけに断定的に書いたが、ホンマにそうか、もしかしたら真空になってるかもしれんやん、というふうに突っ込まれたら、どうする?

なんも気体の状態やなんかの難しいことを考えなくても、逆説的ではあるが、背理法で考えると、たぶんそんなことにはなってへんのとちゃうか、と宴会の途中の酔眼でも反論することができる。

「お椀の蓋の直径はせいぜい10cmというトコやろ。ということは、お椀の蓋がドーム型になってなくてぺったんこでもゴゴ25かける3で75平方センチぷらすちょっとやんか」

「なんでカケ3やねん。あ、円周率か。それやったら3.14やんか」

「ここのサイトに前に書いたやん。3でええねん。3やったらこうやって酔っぱらってても暗算できるし。コンマ14部分がどうしても欲しいんやったら計算結果に5パーほどオンしたったらええねん。答えは75プラス消費税ちゅうとこや。だいいち、蓋はドーム型してるから、蓋の表面積はそれよりもなお大きい」

「まあええわ。ほんでどうなる」

「ほんまは蓋だけやなくて、お椀全体を四方八方から大気圧は押しているんやけど、ま、ここは蓋だけを上から押しているとしいな。中に空気が入っている時は、お椀は大気圧のプレッシャーにお椀の強度プラス中の空気の連合軍で対抗してるわけやけど、中が真空なら、頼りは自分のカタさだけや。」

「中に空気が入ってたら、中も1気圧、外も1気圧やし、蓋はなんも気にせえへんでもええやん」

「そやな。その通りや。どっちにしてもなんも気にしとらんとは思うけどな。ほんで、中が真空の時には、蓋は1平方センチあたり1キロの……」

「ちょっと待ったれ。なんでぬけぬけと1キロなんて数字がでてくんねん」

「どき。ほら、ジュースの中にストローをつっこんで、その口を指でおさえてしゅーっと引き抜くと、水は落ちひんやん」

「サイフォンの原理やな」

「なんや。よお知ってるやん。そのサイフォンの原理で水はどこまで上がると思う?」

「素堀りの井戸なんかは10mまでやちゅう話やったっけ」

「つまり大気圧ちゅうのは10mの水の柱の重さと釣り合うちゅうことやろ。ちょっと乱暴やけど」

「なるほど。ちゅうことは、ふたの上に10mの柱をたててそこに水を入れた力で押しとおるちゅうことか」

「底面積1平方センチで高さが10mの立体の中に水を入れたら、そら、1キロになるやろ。1センチのサイコロが1cc、つまり1グラムやろ。1メートルは100センチやし、10メートルは1000センチ。1000グラムは1キロやん。細かいことに目をつぶってもろたら、そうなる」

「そうか。ほな75平方センチぷら消費税の蓋には75キロぷら消費税の重さがのしかかる、ちゅうことやな」

「ちょうどお前くらいの重さちゅうことや。お前、ちょっとそのふたを廊下の堅いとこにおいて、上から踏んでみ」

「あほ、そんなことしたら仲居さんに怒られるぞ。これ、輪島塗やないか」

冷めた吸い物の椀がバコンといきなりツブれたりしないところからも、蓋の下は真空になってなんかいないということが容易に推察できるのである。

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