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[第13章●本の買い方読み方しまい方] 23… 書籍番号は出版者が決める |
[2005.08.18登録] |
石田豊 |
出版者コードの体系が公開されていないのだから、出版者コード自体のリスト、つまり番号と出版者名の対応表は、少なくとも公式のものは公開されていない。篤志家が個人で収集されたものはあるのだが、当然のことながら完全なリストではない。 もっといえば、全書誌データも「どう使ってもいい」という形で公開されているものは存在しない。ただ、こちらのほうはわからなくもない。全書誌データといえば、量も膨大だし、その作成やメンテには巨大な資金が必要になる。公開したくてもできないということはあるだろう。 もし、こうしたデータが利用自由で公開されていれば、可能性として何がおこりうるか。 いろんな個人・団体が書誌を利用するサービスの提供に参入できる。ビジネス的なところでいえば、書店の外商伝票発行システムやPOSレジシステム。これはすでにあるのだけれど、そのために必須不可欠な書誌情報は、開発者が高額で購入しているのが現状である。その費用は当然製品の価格に上乗せされるのだから、もしデータそのものが無償提供されれば、製品の価格はそれに応じて激減する。 読者にとって利便性の高いしかけも登場してくるだろう。たとえば蔵書管理システム。バーコードリーダーで「ピ」と読み込むことだけで蔵書のリストができてしまうのだから、やってみたいという一般読者は多いだろうし、企業内の資料室や図書室なんかは欲しくてたまんないシステムだろう。 現在多数の書評サイトがある。こうした書評サイトをはじめとする「本の情報」を公開している人たちにとっても、後ろに全書誌のデータベースがあるかないかではおおきな違いが生じる。現在、その役目を担っているのはアマゾンなどのオンライン書店のそれなのだが、彼らのデータは、当然ながらそういうふうに利用することが本来の目的ではないのだから、「書誌データを吸い上げてきて、勝手に加工する」という観点で使いやすいようにできているわけではない。 こういう広義の読者のための書誌情報利用システムは、現在のところ存在しないといってもいいだろう。つまり書誌利用のためのコストが高いので、商売のためのシステムならいざ知らず、個人が手を出せる値段で提供できないからだ。 書誌データが公開されれば、そうしたシステムもどこどこ登場してくるんじゃないかな。 先般「文字・活字文化振興法」が成立した。その内容はなんだか抽象的で、ぼくのような法律の素人には、「業界にかね、だしまっせ」と言っているだけのように見えてしまうのだが、「書誌データの公開」なんてのこそ、「文字活字文化の振興」に寄与するものじゃないか、と思う。 ともあれ、ISBNの構造の話である。 出版者番号の後ろにくるのは書籍番号である。何度もいうように、その付番は現在のところ個々の出版者にゆだねられている。7桁の出版者番号を持つ出版者は、書籍番号は1桁しかないわけだから、すなおに0から順に振っていくしかないのだが、書籍番号の桁数が大きな大出版社は、書籍番号の中をまた分割して、文庫は何番台、新書は、文芸は、という具合に、社内での意味を持たせている場合もある。 本は絶版などでいつかなくなってしまうわけだが、そうして「空いた」番号を他の本に付番しなおすことは許されていない。当たり前のことだが、このルールは時として破られる。同じISBNでまったく違う本は、現実には存在してしまっているのが現状だ。 コンピュータ屋は、「それぞれに違う番号」のことを「ユニーク」という語でもって言い表す。一般世界の用法では、「個性的でちょっとステキ」みたいなニュアンスで使われるが、ここではそういう意味はもたない。 本来の定義ではISBNコードはユニークであるはずだ。しかし、現実にはユニークではない。考えの浅いプログラマ(たとえばぼく)は、ユニークであるはずだという「理念」でプログラムを書いてしまい、痛い目にあう。劫を経たグルは、んなこと世界にあるはずがないということをちゃんとしっていて、同じISBNで「違う」本が存在しても問題が生じないようなプログラムを書く。 ただ、「違う」本、「同じ」本というのは、厳密に考えようとすると非常に難しい問題をはらんでいる。一般に、増刷された本は奥付に「第何刷」という部分が追記されるだけで、「同じ」本とみなされている。しかし、増刷時には前刷で存在していた事実関係の誤りや誤植部分等を直すものである。だから、刷が変わると、中身は必ずしも同じではない。 ご存知のように、現在、講談社現代新書はカバーのリニューアル作業の進行中だ。在庫がなくなると新しいデザインのカバーに順次置き換わっている。本としての印象はずいぶん違う。しかし、これもISBN的には「同じ」本として扱われる。 また中身(文章)がまったく同じでも、単行本と文庫本なら、そりゃナイーブな感覚として「違う」本だとするのが普通だろう。 価格が変わればどうなのか、増刷にあたって数ページの重要な補遺が追加されたらどうなのか、出版社が倒産して会社更生法の適用を受け、社名が「〜新社」のように変わったらどうなのか(ISBNの出版者番号は変化しないことが多い)、etc。考え始めると、「どこで線を引くか」というのはなかなかの難問である。 かといって、微細な差異でもって、「違う」本とされてしまうと、コードの意味というのが根底から崩れてしまう。ISBNを控えて本やに買いにいっても、そんなもんはないと言われてしまうからだ。だってそれは14刷ですよね。いまは16刷しかないんですよ、って。 余談になるが、これは「コードをつける」ということが持つ、本質的な「曖昧さ」である。一部の小説家とかが漢字コードに対していい募ってらっしゃる反論は、この「コードというものは、ある意味、曖昧で、包含的なものであらざるをえない」ということがおわかりになっていないからなのかもしれない。 もとい。 結局のところ、これも「何をもって本となすか」と同様に、最後は「出版者の恣意的な判断」ということしかないのだろう。 学習参考書などの出版社が、XX年度版として毎年少しずつ違う内容の本を出し、それに同番のISBNを振ることに対する批判を時として聞くが、これもこういうふうに考えると、かならずしも一方的にあげつらうようなことではないように思えてくる。 書籍番号はこのように付けられる。利用する側のポイントは、ISBNが絶対的な本の識別子だと思い込まないことだろう。 チェックデジットについても、今回にまとめるつもりであったが、それは次回ということにさせていただく。 |
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