デジタル時代の出版メディア・考

2002-04-08

書店の危機と変貌する若者のメディア接触

 2002年4月7日(日)午前1時30分、朝日放送で放映された「テレメンタリー2002」は書店の危機をテーマとした30分のドキュメンタリー番組であった。題して「誰が書店を殺したのか―出版不況の構造に迫る―」。(朝日放送制作、テレビ朝日系で放映。東京では4月11日(木)午前2時41分。地域によって放映日が異なる。http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/

 言うまでもなく、出版業界内でよく読まれた佐野眞一著『だれが「本」を殺すのか』をもじったタイトルである。テレビを見て驚いた。私もよく知っている川辺佳展さんがこのドキュメンタリー番組のまさに主人公の扱いで登場していたのである。なんと書店を2つもつぶした店主としての役回りである。

 そういえば出版営業をしている友人から書店トーク会という有志の会の事務局をしている私に、今はコンビニを経営している元・書店主を朝日放送に紹介してほしいと言われたことがある。結局、その人は出演していなかったが、きっとこの番組の話だったのだろう。また先週、朝日放送で夕方の6時半からのニュースの中でこのドキュメンタリー番組とまったく同じシーンが登場していたのを見た。書店の話だったのでビデオにとっておいたのだが、朝日放送制作のドキュメンタリーなので、ニュース特集としても流したのだろう。

 それはともかく、「誰が書店を殺したのか」である。今ではスーパーストアになっている店内を川辺さんが歩くシーン。野菜とか並んでいる売り場で「このあたりに雑誌を置いてあったんですよ」と川辺さん。そこは神戸市西区にあった書店「チャンネルハウス」跡である。つぎに川辺さんがチャンネルハウスを清算して開店した神戸市中央区・元町の「烏書房」跡が映し出される。ここはガランとしたビルの1室となっていた。

 ドキュメンタリーではほかにも大阪・難波の書店激戦区の模様を大型書店としてのジュンク堂書店と、店の商品の半分近くを料理関係書に特化し、生き残りをはかる街の本屋である波屋書店の双方を紹介することによって描きだしていた。

 また、コンビニでの雑誌販売が街の本屋に与える影響、新古書店であるブックオフの展開がもたらすコミック作家の印税収入減や万引きとの関係、図書館における利用者への貸し出し問題なども取り上げていた。さらに、書店の注文品の迅速調達のためにつくられたトーハンのブックライナーという在庫照会、配送システムを取り上げるなど、多様な視点から書店の経営危機の深層に迫ろうとしていた。ドキュメンタリーとしてはなかなか意欲的な内容であったといえよう。

 しかし、30分という放映時間の中ではくわしく触れることができなかった問題がある。それは若者のメディア接触の変化である。番組の中ではケータイなどによって読書時間が減っていることが一言述べられていたが、じつは本や雑誌がかつてのように売れなくなっている状況を考える上で非常に重要なのが、現在のメディア状況全体の中で本や雑誌がどのような位置を占めているのかという視点なのである。

 前回、韓国の出版業界のあり方に変革を迫るものとして、オンライン教育の拡張で市場自体の消滅すら語られるようになった学習誌市場の話を紹介したが、韓国では「近代化では遅れたが、情報化には遅れるな」を国家的なスローガンに、急速なIT化を進行させてきた。

 日本でも2002年度から改訂された学習指導要領で高等学校においては情報処理が必修となり、「情報活用の実践力、情報の科学的理解、情報社会に参画する態度」を重視する情報教育が実施されるところとなった。すでに私学などではこれを先取りして、1人1台のノートパソコンをもたせ、インターネットによる情報の収集、wordやexcelの習熟、power pointをつかったプレゼンテーションの授業、ホームページの作成など、おとなを凌駕するパソコンのスキルをもった高校生を育成していることはもっと知られてよいだろう。最近の若者はケータイで友人とメールして遊んでいるだけと思われがちだが、必ずしもそうとばかりは言い切れないのである。

 大学では図書館が電子図書館化し、学生は全国の大学図書館が所蔵する資料だけでなく、インターネット上で新聞記事を検索し、電子ジャーナルで雑誌論文を利用する。また、図書館には情報コンセントが設置され、ネットワークを利用した文献の探索、レポート作成、演習室でのプレゼンテーションに活用することができるといった具合である。

 それが今日では、高校生もこのようなシステムを利用できるようになってきている。例えば、大阪の桃山学院高校の図書館では生徒が自由に蔵書検索に使えることを目的としてタッチパネル式の図書検索システムを導入している。

 また、大阪府立中央図書館でもインターネットを利用したレファレンス(参考業務)を現在の電話、FAX、文書からインターネットを利用して受付けられるようにし、レファレンス・データベースを構築することを目指している。このe-レファレンスは、学校図書館においては、まずはモデル校を決めて生徒からのレファレンスを司書教諭経由で図書館が受付け、回答していこうという試みである。2003年度からは一般の利用者にも範囲を拡大することになっている。

 さらに、学校図書館では2003年度から12学級以上の学校には「学校図書館司書教諭」の配置が義務化されることになっている。新・学習指導要領で定められた「総合的な学習」では、このようなレファレンスが非常に重要な位置を占めることになるだろう。

 このような学校教育の変化は当然、生徒や学生たちのメディア観を変化させることになる。インターネットで情報を検索し、パソコンを利用して記録・発信するということが常識化している時代の子どもたちが、これからのメディアをデザインしていくのである。

 「1986年には全国で1万3000軒あった書店が昨年、9000軒を下回ってしまった」(朝日放送「誰が書店を殺したのか」)原因は、そのようなメディア状況から考えなければならないだろう。

2002-04-01

『コリアン・ドリーム!韓国電子メディア探訪』を読む

 韓国の話を書いていて、思い出したのが2000年7月に出版された『別冊本とコンピュータ3 コリアン・ドリーム!韓国電子メディア探訪』(大日本印刷発行・トランスアート発売)である。

 この本のまえがきに「本とコンピュータ」編集室の河上進さんが編集方針を書いている。すなわち、「?本、新聞、雑誌といった活字メディアは、電子化とどう向き合っているか。?電子メディアは、韓国の伝統文化やいまの生活にどのような影響を与えたか。?インターネットをはじめとする電子ネットワークは、韓国と日本の関係をどう変えようとしているか。」という3つの視点である。

 韓国の出版メディアの変化をみることによって、これからのメディア社会のありかたを対象化するという方法はこの本においてかなり成功していると私は思う。ただ、「電子メディアは、韓国の伝統文化やいまの生活にどのような影響を与えたか」という点については、まだ十分には切り込めていないといえよう。

 インターネットに代表される電子メディア化が世界の文化を均質化してしまうのか、あるいはそれぞれの社会の文化的な特性が新たな展開をもたらすのか、という私が前回掲げた問いに答えを出すのはまだ早い。さらなる事例研究が積み重ねられる必要があるだろう。

 ところで、この本の中でハン・キホ(韓淇皓)氏(韓国出版マーケティング研究所長)が「オンライン流通は韓国の出版を変えるか?」という論文を書いているが、その中で次のような指摘があることは興味深い。

 「90年代後半に明らかになった社会や経済の変化は、出版業界のあり方にも変革を迫っている。教育体制の変化、学習誌市場の拡大などから、すでに予見されていた学習参考書市場の沈滞は、オンライン教育の拡張で市場それ自体の消滅すら語られるようになり、これまでベストセラーを量産してきた小説などの文学書や教養書(人文・社会科学書)市場においても、やはり急激に落ち込みが目立つようになった。その反面、経済・経営・政治・社会に関するものなど、社会一般の変化を簡潔に読み取ることのできる本や、語学・コンピュータなどの実用書市場の領域は広がっている。」(30ページ)

 これを読むと、日本の出版業界で起こっている構造的な変化はなにも日本だけの話ではないということがよく分かるだろう。すでにこの連載の第5回、第6回でとりあげたe-ラーニングの進展は韓国においては学習参考書市場の消滅すら語られているわけである。そして、文学と人文・社会科学関係の本が低迷していること、実用書の領域が拡大していることも日本と共通している。

 日本の書店現場ではかつて学習参考書は「学参」と呼ばれ、大きな売上げ比率を占めていた。とりわけ3月下旬から4月上旬にかけての春休みの売上げは書店の生命線だったのである。ところが、今日ではすっかり様相が変わってしまった。塾、予備校、通信教育会社などが独自の教材を制作、頒布し、家電量販店が電子辞書を販売する時代である。e-ラーニングの進展にともなってますます書店で販売される学習参考書の比率は減少し続けるだろう。また、今日ますます盛んになってきている各種資格関係や生涯教育の教材も同様であろう。

 そして、文学と人文・社会科学関係の本の販売低迷は日本でも見られる現象である。

 例えば今日の日本では、文学全集や個人全集の出版はきわめて困難な状況を迎えている。1998年9月に27年ぶりに完結した「筑摩世界文学大系」(全89巻、91冊)も、これが最後の世界文学全集と言われたものである。

なにしろこの全集の第1回配本は1971年2月の『トルストイ?』で刷り部数は3万部だったが、最終配本の『ジョイス? オブライエン』『セリーヌ』の2点は3200部にまで落ち込んでいる。(「朝日新聞」1998年9月3日付け大阪本社版朝刊)

公共図書館を新たに開館するようなときに、文学全集が揃わなくて困るという話は以前から聞いていたが、これからはそもそも古書以外では初めから文学全集が存在しないということもありえよう。つまり、紙の本を購入しようにも電子ブック版しかないという事態が想定でき、まさに百科事典と同様のことが起こりそうな気配なのである。

このような現象は文学全集を読むという、権威的なものを求める読み方が崩壊していることを反映しているといえよう。しかし、古典が読めなくなってよいのかという問題もある。そうすると、文学作品の電子メディア化は紙の本を駆逐するものとして敵視するものではなく、むしろ作品の保存と市民のアクセスを保障する上できわめて重要な課題になっていく、ということになるのではないだろうか。

2002-03-25

ソウルのメディア事情あれこれ

前回、この連載の番外編のようなつもりで、ソウルで見てきたことを書いたらいろんな人から反響があって驚いた。論文がインターネットで読めるかどうかなんてどうでもいいから、もっと韓国のことを書けよという人もいれば、あれを読んでソウルに行きたくなったという人まで現れる始末である。なるほど、そういわれてみればたしかにそうだ。退屈な話よりも面白い話のほうがいいに決まっている。
 
ポット出版の担当者からは「ポットの人間に聞いたところ(韓国通が一人います)、韓国ではバレンタインデーやホワイトデーに縁のなかった人のために『ブラックデー』なる日があるそうです」とメールが来た。
 
そうなのである。私もソウルを案内してくれた韓国旅行社のキムさんから「ブラックデー」の存在を聞いて笑ったのだった。4月14日を韓国ではブラックデーと呼んで、バレンタインデーとホワイトデーにプレゼントをもらえなかった人たちが(ほとんど冗談のノリだが)チャジャンミョンという黒い麺を食べるという日になっている。こんな大事なことを前回書き忘れるなんて。韓国のバレンタインデーは日本経由で伝わったのではないかと言われているが、日本以上にすさまじく発達しているに違いない。韓国のテレビドラマを見ていても、私が行った3月11日から13日という時期のせいでホワイトデーをエピソードに使っていたものだ。ハングルが分からないのに、テレビドラマはほとんど日本のドラマを見る感覚でだいたいの展開が分かるところが面白い。大きなかごのホワイトデーのプレゼントをもらった若い女性が小さなかごしか持っていない友だちに自慢するシーンなど、言葉が分からなくても理解できてしまうのである。
 
そういう意味ではテレビコマーシャルもほとんど日本と変わらないのに驚く。車、ビール、ファーストフードなど、広告作りのコンセプトが同じではないかと思えてくる。紙おむつや洗剤のコマーシャルに登場する男性のふるまいなども日本と同様。ドラマにしてもコマーシャルにしても、「こりゃ、日本で言えば松嶋菜々子やん」「おお、こいつはココリコの田中直樹みたい」てな具合で、いちいちキャラクターが当てはまりそうな気がするから不思議である。顔があまりにも似ているということももちろんあるのだが、テレビ制作の基本的な考え方が共通しているような気がしてならない。
 
韓国のテレビでいま人気があるのがなんと時代劇だという。KBS(韓国放送公社)、MBC(文化放送)、SBS(ソウル放送)の各テレビ局が高麗の時代に材をとったドラマを作り、競い合っている。もともと日本のNHKのようなKBSが時代劇を放映していたが、これはやや堅苦しい内容で、中高年が多く視聴していた。ところが、最近になってMBCやSBSが面白い時代劇を作り始め、若者にも人気がある。当初、3局が同じ時間帯に放映し、競合していたが、視聴者がこれに反発したため、今では別の時間帯に放映しているという。
 
ソウルから車で1時間ほど南にある「韓国民俗村」に行ったとき、ちょうどSBSの時代劇の録画撮りに出くわした。韓国の昔の衣装をつけた7人の役者を見たのである。東映映画村の「集落」版とでもいうような「韓国民俗村」はよく撮影に使われるそうである。
 
ソウルのホテルでは韓国語のテレビ放送のほかに衛星放送のSTARチャンネルやNHK衛星第1、第2放送が映ったので、世界や日本のニュースに不自由することはない。
 
コンビニは「Buy the Way」「Mini Stop」「seven-eleven」「LG45」が多かった。ホテルの近くのコンビニでは日本のだし入り味噌やポテトチップスも売られているのだが、おにぎりはハングルで表記されているため、中身がさっぱり分からない。買ってみてから「ツナマヨだったのか」、と分かるのはつらいものである。なぜ絵がないのか。そこで、おにぎりに書かれているハングルは4文字だったり、7文字だったりするのだが、それをメモに書き写しておいたものである。
 
コンビニの雑誌をかたっぱしから手にとって眺めたが、韓国では日本と異なり、性表現はまずない。女性の水着姿が表紙になっている雑誌であっても、中はすべてクロスワードパズルだったりするのである。それにしてもハングルが読めないことには新聞も雑誌もなにも読めない。漢字や英語が少しでもあると意味が分かるのだが、と思ってしまう。大阪からわずか1時間半、飛行機に乗ってやってきたところは、日本とそっくりなようでやはり「外国」なのだという奇妙な気分にとらわれる。
 
ところで前回、韓国は日本以上にIT化が進んでいる、と書いた。インターネットを使っている人の比率も日本より高いし、ブロードバンド化も進展している。しかし、私がもっとも関心があるのは、インターネットの普及が韓国の社会にどのような影響を与えるのかという点である。
 
3月22日(土)午前11時からNHK衛星第1放送でアジアのニュース特集を見ていると、日本の国立民族学博物館(民博)の特別展「2002年ソウルスタイル~李さん一家の素顔のくらし」の舞台裏が紹介されていた。
 
李さん一家の子どもはブロードバンド化されてつなぎっぱなしのインターネットに多くの時間を使っている。また、家族のホームページも作っており、遠く離れた親戚を結びつけている。これについて民博の佐藤浩司助教授は「日本ではインターネットやケータイが家族を解体する方向でとらえられているが、韓国では逆に家族の絆を深めるように使われていることは興味深い」と番組の中で語っていた。
 
インターネットは世界の文化を均質化してしまうのか、あるいはそれぞれの社会の文化的な特性がインターネットを通じてさらに新たな展開をもたらすのか。デジタル時代の出版メディアを考える上で、この問いはとても重要に思えてくるのである。

2002-03-18

ソウルの書店は元気だった!

3月11日から13日までソウルを旅してきた。そこで今回は急遽、ソウルで見てきたこと、考えたことを書いてみたい。
 
私が訪れたこの時期は4月からの観光シーズンの前ということで、観光客は少ないはずだった。しかし、意外と日本人の大学生のツアー客が多かった。大学は春休みに入っているし、手軽なショッピングが楽しめるところからソウルは人気があるのだろう。ひょっとすると「卒業旅行」なのかもしれない。
 
朝10時過ぎに関西国際空港発の大韓航空722便に乗り、仁川(インチョン)空港を降りたのが11時半頃。関西からだと韓国は北海道に行くより近いと感じる。景福宮、国立民俗博物館、東大門を1日目に訪ね、2日目には利川で青磁器の窯元、韓国民俗村などを見学、3日目に南大門市場(ナンデムンシジャン)、仁寺洞(インサドン)、明洞(ミョンドン)を回った。
 
国立民俗博物館ではおりしも「隣りの国、日本」展を開催していた。これは日本の国立民族学博物館と共同で両国の暮らしを理解しあう機会を作ろうという特別展である。景福宮のすぐ東にある博物館に入ると、右手にさっそく特別展の入り口があり、第1部「お婆さんの家」が展示されている。ここでは京都で一生を送った日本のお婆さんの暮らしぶりが紹介されている。第2部「誕生から墓まで」はごく一般的な日本人が生まれてから死ぬまでの通過儀礼を紹介。第3部「現代の日本文化の読み取り」では若者の生活とファッション、スポーツと娯楽、音楽とアニメーションなどが展示されていた。
 
宮参り、七五三、ひな祭り、成人式、結婚式、葬式などの展示のうち、特に葬式のところでは思わず「うまく出来てるなあ」とうなった。2年前に私の父と妻の母が相次いで亡くなったものだから記憶に新しく、展示がきわめてリアルに再現されているのに驚いたのである。日本の文化の展示を韓国の博物館で見学するということは、とても奇妙な体験だった。日本のコギャルの写真や、現代の若者の一人暮らしの部屋がそのまま再現されているコーナーも興味深かった。特別展の全体を通して、アジアに規定されながらもグローバリゼーションの波に呑まれた日本の姿がそこにはあるように私には感じられたのである。
 
日本では国立民族学博物館で3月21日から「2002年ソウルスタイル~李さん一家の素顔のくらし」という特別展が始まる。まさに韓日共同開催なのである。
 
ソウルの書店を見たいと思った。そこで東大門に行ったときには地上10階、地下2階のファッションビル「doota!」(ドゥータ!)の裏側にある古書店が立ち並ぶところを見て回ったり、骨董と雑貨の街・仁寺洞(インサドン)でも古書店を見たりした。
 
しかし、なんと言っても新刊書店では世界最大級といっても過言ではない「教保文庫」(キョボムンコ・Kyobo Book Center)が圧巻だった。「教保文庫」は光化門(クァンファム)にある。韓国の機動隊の物々しい警備が目立つアメリカ大使館の近くの教保生命(Kyobo Life)の22階建てのビルの地下1階ワンフロアーすべてが書店になっている。地下鉄に直結している大通りの地下道から書店の入り口に向かうと、世界の作家の肖像ががデッサン風に描かれていて、ショーウィンドーを飾っている。見ると大江健三郎氏の肖像もあった。入って左側はホワイトデーのプレゼントの特設コーナーになっていた。韓国のホワイトデーのプレゼントは半端ではない。「教保文庫」は書店なのでさすがにそれほどでもなかったが、たいていの商店ではまるで入院患者へのお見舞いのメロンでも詰まっているのではないかと思えるほどの巨大なカゴにぬいぐるみやお菓子をいっぱいつめて、13万ウォン(約1万 3000円)とかで販売していて、若い男性が品定めしているのである。
 
地下1階ワンフロアーといっても広大な売り場面積である。端から端まで150メートルはあるだろうという巨大書店なのである。帰国してからインターネットで調べると1981年6月にオープンした「教保文庫」はなんと2704坪もの売り場面積を誇っているという。日本最大でも2000坪くらいだから、圧倒的な広さである。そして、ソウル市内の商店はどこでもそうだが、この書店の売り場も熱気にあふれていた。そして、日本と比べると若い人の姿が目につく。レジ近くにあった売り場案内をもらって見ると、次の19の売り場に分類されている。

1.マルチメディア、2.子どもの本とアニメ、3.未就学児童と女性、4.科学、5.工学、6.コンピュータ、7.外国語学習、8.芸術・スポーツ・趣味、9.自然科学、10.社会科学、11.日本語、12.政治・法学・社会学、13.経済・経営、14.人文科学、15.宗教、16.中学・高校、17. 辞書・雑誌、18.ノンフィクション・詩、19.フィクション

そして、店内には10台のタッチパネル式の書誌情報検索端末機があって読者は自由に検索していた。日本語の本のコーナーは非常に充実していて、文庫・新書、単行本、雑誌がどっさり。そこだけで日本の小規模の書店ほどの面積を占めていた。本の裏に元のバーコードを塞ぐように別のバーコード・シールが貼ってあり、450円の文庫を600円で売っているという感じの価格付けだった。
 
韓国の出版界では現在、オンライン書店の値引きが中小書店の経営を圧迫しているといわれている。この「教保文庫」でもホームページでは20%から30%の値引き販売を宣伝している。そこで韓国では現在、刊行されてから1年以内の書籍を10%以上値引きすることを制限する法案の行方が注目されているという。
 
また、韓国は日本以上にIT化が進んでいる。街を歩いていても多くのビルにはホームページのURLが看板になっている。出版業界の書誌情報・物流情報のデジタル化も進展している。教育熱も高い。今後、e-ブックの分野でもさらに進展しそうな気配が感じられるのである。
 
それにしても「元気な国・韓国、活気にあふれるソウル」というのが、私の旅の印象であった。日本に戻ってくると、ビルは低いし、太っている人が多く、しかも人々の表情は暗い。そして、書店には韓国ほどの活気はないように思えてくるのであった。

2002-03-11

電子文藝館と作家

学術情報を中心にここまで見てきたが、オンライン出版やオン・デマンド出版などのいわゆる電子出版物はなにも学術的なものに限定されているわけではない。むしろ、今日ではあらゆる分野に及んでいると考えた方がいいだろう。また、そのことが社会的な関係性の変化をもたらすという点でも共通しているのである。
 
例えば、文学である。アメリカの人気作家スティーブン・キングが電子ブックだけで『Riding the Bullet』や『The Plant』を発売して話題になったことは記憶に新しい。日本でもすでに東西の名作古典を提供する「グーテンベルク21」や「青空文庫」のような無料のサイトや、「電子文庫パブリ」やイーブック・イニシアティブ・ジャパンなど文学作品を有料で提供するサイトが現れている。また、一方では作家たちが共同で小説をインターネット上で「産直」する「e-NOVELS」もスタートしていた。
 
しかし、最近になって文学そのものを変えていくのではないかと予感させるいくつかの事例が現れてきた。その一つが2001年11月26日に「開館」した日本ペンクラブの「電子文藝館」である。
 
じつは私自身も2001年9月17日、井上ひさし・小中陽太郎両氏の推薦で日本ペンクラブに加入したので、この「電子文藝館」には今後かかわっていきたいと考えている。
  
「電子文藝館」の総目次を見ると「歴代会長、詩、短歌・俳句、戯曲・シナリオ、ノンフィクション、評論・研究、随筆、小説、児童文学、オピニオン、翻訳、外国語、索引」となっている。完全に無料公開されており、閲覧だけではなくダウンロードも自由である。
 
そして、ここに作品を発表することを日本ペンクラブとして会員に呼びかけているのである。そもそもこの構想の推進役であり現在、電子文藝館の主幹である作家の秦恒平氏は次のように書いている。
 
「『電子文藝館』という『場』で、過去・現在の会員が『地方・中央』『有名・無名』『ジャンルの違い』超えて、全く平等・対等に自愛・自薦の『自作』を呈示し、読者の鑑賞ないし評価を求めている、ということでもある。」(「出版ニュース」2002年3月中旬号・「電子文藝館への招待」)
 
実際、このような試みはおそらくその期待通りに作品のデータベースとして機能することは間違いないだろう。もちろん、だからといって何も紙の本がただちになくなるわけではない。しかし、これまで文芸という領域のもっていた閉鎖性に風穴があくことは間違いないだろう。これまで文学者の生活を支えていた出版資本が文芸作品という商品を、インターネットでの無料公開とどのように折り合いをつけていくのか、価格付けの整合性を見出していくのか、興味は尽きないのである。
 
私としては作家というものは近代の所産であり、すでにその職業的な役割は終盤に近づいているような気がしてならない。出版業界ではよく冗談でこう言われていた。作家にとっては雑誌が月給で、単行本がボーナスで、文庫が年金だ、と。ところが、すでにそのようなサイクルは出版業界では破綻している。雑誌は創刊と廃刊を激しく繰り返し、ジャンルは細分化され、それぞれのフリーライターとその予備軍が数多く存在する。単行本はごく一部のメガヒット以外は以前に比べて初刷部数は減少し、芥川賞作家の名前さえ多くの人は知らない。文庫は評価が定まったから出版されるのではなく、まるで単行本の価格破壊のためにタイムリーに出版されては品切れになって、しかもなかなか増刷されない。
 
こうなってくると、作家は講演など出版以外の部分を当てにするよりほかはないだろう。なぜなら1000円の本が1冊売れるごとに作家に入る印税を100円とすると、書いた本が3万冊売れたとしてもようやく年収は 300万円にしかならない。毎年、毎年3万冊売れる本を書き続けることはごく一握りの作家にしかできないのである。
 
ところが、一方で現在は読みたい人よりも書きたい人の方が多いのではないかと思えるほど、書く人が出現してきている。
 
例えば文芸社が2000年12月に開設したサイト「ブーンゲート・コム」にウェブ作家登録した人は1ヶ月で約270人に達したという。また、トランネットが運営する翻訳者のオーディションサイトでは、オーディション参加料2000円を払ってまで、メールで訳文を送る人たちが多いときで約150人も競い合うというのである。(「朝日新聞」2001年2月19日付け・大阪本社版夕刊)
 
つまり、文芸という領域は今後、おそらくインターネットによる作品の応募、デビュー、配信、作品のデータベース構築といった流れの中で、紙の本が主流であった時代では考えられなかったようなものに変質していくのではないだろうか。そして、ここでも大量のコンテンツと作品の質の問題についての議論が高まっていくことになるのである。

2002-03-04

電子ジャーナルとインターネット・カラオケ

ここまで、論文がインターネット上で公開されると学術出版社はどうなるのかという点について考えてきた。そうすると、どうしても触れておかねばならないのが、またしても電子ジャーナルの問題である。
 
欧米を中心とする学術出版社はこのようなインターネットを媒介とした著者から読者への直接的なつながりに危機感をもったにちがいない。このままでは自分たちがこれまで長年にわたって築き上げてきた主導的な役割が失われてしまう。そこで、学術コンテンツのデジタル化に投資し、従来からの商業的学術出版社のマーケット維持に努めたのである。
 
電子ジャーナルの歴史は、1992年に創刊されたOnline Journal of Current Clinical Trialsからとされている。その後、1993年から1995年にかけて、エルゼビア・サイエンス社が米国の9大学と共同でTULIP(The University Licensing Program)という実験を行い、これが1996年のEES(Elsevier Electronic Subscriptions)、そして現在のScience Directのサービスへと展開している。この動きは他社にもすぐに波及し、Academic PressのIDEAL(International Digital Electronic Access Library)、SpringerのLINKなど、大手学術出版社によるパッケージ化されたサービスが始まり、現在に至っている。
 
電子ジャーナルの利点としては、冊子体に比べて迅速な提供ができること。また、全文検索やリンクなど冊子体にはない機能がある。さらに、郵便事故による欠号がない、図書館の開館時間外でも利用できる、他の利用者がいる時などの順番待ちや製本期間中で利用できないといった問題がないという利点があげられる。
 
しかし、一方で冊子体にくらべて価格が割高であるという問題がある。大手学術出版社は当初は冊子体の購読者に無料でオンライン版を提供していたが、現在では冊子体と組み合わせた価格設定であり、割高になっている。また、個人の契約を認めないことが多く、所属機関が契約していないことには研究者は利用することができない。さらに、出版社ごとに画面構成や操作方法が異なるため使いにくいという問題もある。
 
一方、資料保存に関しても冊子体であれば購読を中止してもこれまでの分は残っているわけだが、電子ジャーナルの購読を打ち切った場合、どこまで契約期間の閲読が保障されるのか、といった問題がある。なんらかの事情で発行元が電子ジャーナルの提供サービスを持続できなくなったときにいったいどうなるのかということも考えるべきだろう。また、冊子体の場合はコピーを取ることは原則的に自由だが、電子ジャーナルの場合は学外への再配布は原則的には認められていないなどの課題がある。さらに、パッケージ化された電子ジャーナルの契約は一見、図書館にとって有利なようでありながら、価格やタイトルの決定権を出版社側が持つようになってしまうという問題もある。
 
このように雑誌における紙から電子への流れは、言ってみればテープだったカラオケが通信カラオケになったようなものである。1970年代に始まった酒場のカラオケというと1曲ごとに100円を払い、店の人がいちいち8トラックのテープを突っ込んでくれていた。それが1982年あたりから絵の出るカラオケが登場し、1987年ころにはカラオケボックスが普及、そして1992年に通信カラオケが登場した。現在では自宅にいながらのインターネット・カラオケにまで発展している。例えば、MASTERNETのインターネット・カラオケ「SiNGる」は2002年3月4日現在、1万756曲もの登録曲の中から歌いたい曲が選べるのである。
 
電子ジャーナルは論文をデジタル化し、それをサーバーに保存したものである。利用者はインターネットを経由してそのサーバーにアクセスするので、すでに述べたように紙の雑誌のもつ時間的・空間的制約がない。
 
電子ジャーナルは必然的に巻号の概念をなくしてしまう。すべては論文単位である。ちょうど論文の公開のところで原資料へのアクセスや研究方法などに関する議論を交わすことによって、研究の新たな地平がひらけるかもしれないと書いたように、電子ジャーナルは雑誌という概念を解体してしまうのである。すなわち、それは学術情報データベースとなり、さまざまな学術コンテンツとリンクすることによって研究者にとっては不可欠なサイトになる。
 
また、出版流通の視点から見れば、これまでの物流を伴う発行部数ではなく、アクセス数やダウンロード数といったいわば情報流へ変化するのであるから、価格体系の変化をもたらすことになる。
 
こうした事態はレコードがCDになった変化とは明らかに異なる。CDがインターネットでの音楽配信になったのと同様に、電子ジャーナルやインターネット・カラオケは流通の「中抜き」現象をもたらすのである。すでに情報流の時代における中間業者はアグリゲータ・ビジネスを展開するという趣旨のことを第2回目「アグリゲータ・ビジネスとはなにか」で書いた。しかし、旧来の、すなわち物流における中間業者が直面している危機については、相当に深刻なものであると指摘せざるをえないのである。

2002-02-25

論文の公開と学術出版社の危機

現在、論文の公開の流れには2つあり、研究者がみずからのホームページで公開する場合と、大学などの研究機関が発行する研究紀要がネット上で公開される場合があると前回、書いた。これに付け加えるならば後者にはさらに学会や協会が刊行する学術雑誌を国立情報学研究所(2000年3月31日までは文部省学術情報センター)の電子図書館で公開するということも含まれるだろう。NACSIS-ELSと呼ばれる国立情報学研究所(NII)の電子図書館サービスは、日本の学協会が発行する学術雑誌から論文を検索し、必要なページを表示し、印刷することができるのである。2002年2月25日現在、415件の学術雑誌が登録されている。
 
例えば「マス・コミュニケーション研究」という日本マス・コミュニケーション学会が刊行している学会誌は1993年の第42号から2001年の第59号まで18冊が収録されている。この学会誌に掲載されている論文を読むためには利用者アカウントとパスワードの入力が必要であり、利用範囲は大学の教職員や研究員、文部科学省の職員、その他利用規程で定められた学術研究者に限られている。研究者にとっては論文単位で検索し、ダウンロードできることは非常に便利なサービスであろう。
 
著作権使用料が無料のものもあるが、有料の場合は学協会ごとにそれぞれ価格が決められている。ちなみに日本マス・コミュニケーション学会は無料で提供しており、一方、日本独文学会の「ドイツ文学」の場合、会員はすべて無料、非会員では表示するだけなら無料で、印刷すると表紙・裏表紙、目次、索引、論文などは25円、文献目録などは200円のページ単価となっている。この料金は財団法人電気・電子情報学術振興財団が各経理責任者から徴収して各学協会に支払われるしくみになっているのである。
 
このような論文自体のネット上での公開は、学術出版にどのような変化をもたらすのであろうか。
 
第一に、これまで大学などの研究紀要は研究者の論文発表の場と位置づけられてきた。したがって紙の雑誌に印刷され、発送されてはきたが、読まれるかどうかは別問題だったように思われるのである。その点、必要な論文だけを検索し、ダウンロードできるとなれば読む側にとってはかなり便利である。学会誌についても同じようなことがいえよう。
 
そうすると、今後、このような論文を集めた書籍ははたして商業的に成り立つのだろうかという疑問がわいてくる。研究者が学術書、専門書を刊行する出版社からこれまでの論文を集めて新刊を出そうとすると、すでにその中のすべて、あるいはいくつかの論文が紀要や学会誌に発表したがゆえにオンラインで入手可能の状態であり、あえて高額な専門書を購入しなくても必要な論文は入手できるのである。それでなくても、今日、学術予算は重点研究費や科学研究費補助金など、プロジェクト的な研究に配分され、大先生の退官記念論文集や古稀記念論文集などを大学の研究費を使ってお付き合いで購入するゆとりは次第になくなってきているのが、学術出版の現状なのである。
 
第二に、論文がオンラインで入手可能になればなるほど、これまで研究者仲間に閉ざされていた学術研究が市民的な広がりをもつことになる。国立情報学研究所にしても現在、利用者を限定しているのは著作権使用料の徴収の問題があるからだろう。大学や研究機関に在職していなくても一定の料金を支払えば学術論文を簡便にダウンロードできるとなれば、市井の研究者にとっては喜ばしいことではないだろうか。
 
第三に、ただ紙に印刷してあった論文をオンラインで提供するという変化ではなく、原資料を公開したり、研究方法などに関する議論を交わしたりするようなしくみを作ることによって、研究の新たな地平を切りひらくことも可能だろう。私自身、ボイジャーの「理想書店」から『デジタル時代の出版メディア』電子・ドットブック版をオンライン販売することによって、その可能性を探ろうとしているところである。索引から300 箇所以上のウェブページへリンクすることによって、読者はクリックするだけでそのホームページを開くことができる。原資料に読者が直接あたることをできるだけ保障することによって研究がより実証的になる利点があろう。
 
ただ、インターネットによる論文の公開が、従来の学術出版社の経営基盤を脆弱にし、これまでこつこつと積み上げてきた学術出版の編集という営為を突き崩すことになりはしないのかという懸念も一方ではある。学術情報の流通の観点からみれば、情報の独占から公開へという道すじは市民的なものと位置づけて間違いはないだろう。しかし、その反面、デジタル化の波がコンテンツ産業による新たな寡占化をもたらすかもしれないということもつねに念頭に置いておく必要があるのである。

2002-02-18

論文のネット上での無料公開

前回、著者である大学の教員は教科書執筆から得られる印税がゼロになっても、多くの読者を得られるのであればみずからの講義ノートをインターネット上で無料公開するだろう、という趣旨のことを書いた。すると、ポット出版の沢辺さんより、教科書のバリエーションはいっぱいあって、ほとんど自費出版に近いスタイル、何部か著者買い上げがあるもの、かならず学生に買わせることを前提に出版されているものなどがある、とのご指摘をいただいた。つまり、印税なしのケース、教科書の買い上げで印税と相殺しているケース、印税が支払われるケースがあるというわけである。
 
なるほど教科書と呼ばれる出版物のもう少し厳密な定義が必要だったかもしれない。ここでは大学の教科書に限定して話を展開したが、もちろん専門学校やカルチャーセンターのようなところで使われる教科書や教材など、教育関連出版物の幅は広い。この種の教科書や教材は塾や資格試験などにおけるe-ラーニングの展開の問題とあわせて、また、いずれ触れることにしたい。
 
話を戻すと、たしかに大学の教科書を執筆したからといって著者である大学教員に印税が入るとは限らないことは私も知っている。出版してくれるだけでありがたい、と教員が考えるケースがあるのは事実である。しかし前回、私が取り上げたのは、一般的に大学の教科書として発行され、その教員の講義を受講する学生数の部数をいわば基礎票としながらも、一般の読者にも販売されるような種類の本についてであった。そして、私がそこで主張したかったのは大学教員が「印税より引用」を選択するということである。そうすると、これまで紙の本として大学の教科書を出版していた出版社は、教員がこれからは教科書を執筆してもインターネット上で無料公開すると言い出せば、打つ手はないのではないだろうか。
 
では、教科書ではなく、論文の場合はどうだろう。
 
論文の公開に関しては、二つの流れがある。一つは教員みずからが自分のホームページ上で論文を公開する場合。そして、もう一つは教員が所属する大学や研究機関が紀要などをその機関のホームページ上で公開する場合である。
 
まず、教員みずから公開することは今日ではかなり広く行われるようになってきた。例えば、岡本真氏(Academic Resource Guide編集兼発行人)は次のように書いている。
 
「手元の私的なデータベースに記録してあるだけでも、文科系だけで実に2000人を超える研究者がウェッブサイトを開設している。(中略)いずれも論文や書評、文献目録、データベース、年表等、なんらかの学術情報を公開している。」
 
(岡本真「これからの学術情報流通におけるインターネットの役割」『大学出版』No.49・2001年夏号・大学出版部協会)
 
これだけの研究者がすでに論文などの学術情報をインターネット上に公開しているのである。そして、この数は増えることはあっても減ることはないだろう。
 
岡本真氏はこの論文の中で、特に「二村一夫著作集」と「森岡正博全集」という二つのサイトを取り上げ、「専門分野も世代もだいぶ違う二村氏と森岡氏だが、同じように既発表作品の電子化を進め、それにとどまらず新作の公開を試みているわけだ」と書き、読者に論文を読んでもらうためにはこれまでの学術出版では不十分であるという認識が研究者にあることを指摘している。
 
第二の、大学や研究機関が公開する場合はどのようなものだろうか。
 
現在では研究者が大学の発行する紀要などに論文を書く場合、あらかじめ著作権上の許諾条件に同意を求められることが多い。すなわち、著作物をデータベース化し、それを学内で公開することや、CD-ROMやDVDなどの電子媒体に複製して配布すること、さらにインターネットなどを通じて配信することに関して、大学や研究機関に許諾を与えるのである。もちろんデータベース化された著作物の著作権は著者である研究者に帰属することが明記されている。また、許諾期間は70年間と定められていたりするのである。
 
このように紀要に掲載された論文が公開されるのが常識化してくると、紀要に発表した論文を集めて出版社から刊行するということが成り立ちにくくなるのではないだろうか。従来から論文集の読者は研究者仲間である。それが個々の論文単位でダウンロードすることができるのだから、単価の高い論文集を購入する意欲は減退するにちがいない。
 
論文単位で入手できるシステムが従来の学術出版に与える影響について、さらに詳しく次回考えてみたい。

2002-02-11

e-テキストブックが切り拓くe-ラーニング

大学の教員が自分の講義ノートをe-テキストブックという形でインターネット上に無料公開する―これは考えてみれば画期的なことである。全国の大学で1年間に行われているあらゆる講義にすべての人がアクセスできる日もそう遠くないかもしれないではないか。しかも、このことは日本国内に限らず、国境を超えて可能になるかもしれない。少なくともe-ラーニングにおいては受講者数を制限する必要はなくなるだろう。
 
実際、マサチューセッツ工科大学(MIT)が2001年4月に発表したMIT OpenCourseWareというプロジェクトは、MITで行われる講義内容を無料で公開していこうというものである。e-ラーニングの現状に詳しい植村八潮氏(東京電機大学出版局・日本出版学会事務局長)はこのプロジェクトについて次のように書いている。
 
「(2001年=引用者注)9月から先行実験がスタートし、最初の2年半でウェブを利用するためのソフトウェア開発と500以上の講義内容を準備し、最終的には多岐にわたる分野で2000コースの開発を目指すという。利用対象は当然、MITのみならず世界中の学生や教育機関で、これにより高品質で無料の教材コンテンツが流通することになる。」
 
(「出版ニュース」2001年10月中旬号・植村八潮「eラーニングと出版ビジネス」)
 
MITの場合は大学が講義コンテンツを公開するが、単位を認定するわけではないので、ヴァーチャル大学と呼ぶことはできない。一方、単位まで認めてしまうヴァーチャル大学も現れつつある。
 
遠隔教育という点では日本でも通信制大学があり、また一方で放送大学が実施している放送授業がある。
 
放送大学の場合、18歳以上であれば誰でも入学でき、15歳以上であれば誰でも選科科目履修生として入学できる。入学するとテキストの学習、テレビ・ラジオの放送授業の視聴、通信指導の提出、全科履修生として大学卒業をめざす場合には放送授業のほかに面接授業(スクーリング)の履修が課せられて、単位取得となる。科目は人文・自然・産業など約300科目。これに加えて日本でも大学審議会の審議を受け、インターネット授業での単位取得が可能となるヴァーチャル大学が発足することになっているのである。
 
教員との交流や単位認定を前提としたe-ラーニングの高等教育版であるヴァーチャル大学と、ただ大学での講義ノートがインターネット上で公開されていることは質的には異なるだろう。
 
しかし、これまでの大学の教科書は必ずしも当該科目を受講する大学生だけに購入されていたわけではなく、入門書、教養書、啓蒙書といった観点から大型書店でも販売され、一般読者からも支持されていたのである。放送大学のテキストであっても受講生以外の人がただ読むために購入することもある。現在、放送大学のテキストは「放送大学教材」として財務省印刷局が印刷、製本し、財団法人放送大学教育振興会が発行しているが、これがある日突然、インターネット上で無料公開されたとしたらどうだろう。同じようなことがさまざまな教員の著していた本に起こると想像するだけで、これまで教科書を刊行していた出版社は青ざめるに違いない。
 
著者である教員は、教科書執筆から得られる印税を手放してまで、みずからの講義ノートの無料公開に賛同するであろうか。
 
プロ野球の新庄選手は「記録より記憶」、すなわちイチロー選手は記録がすごいけど、ぼくは記憶に残るプレーをしたという意味のジョークを記者会見で言っていた。これにならって言えば、大学の研究者は「印税より引用」、すなわち印税が入ることよりも、引用される方が実績となり名誉であると考えるのである。
 
多くの読者に自分の著作が読まれること。そして、読んだ人たちが自分の文章を引用してくれること。それこそ研究者である大学の教員にとってなにものにも代えがたい誇りなのであるから、教員は印税がゼロになっても多くの読者を得られるのであればみずからの講義ノートをインターネット上で無料公開することをためらわないであろう。
 
実際、教員自身が作成し、管理しているホームページに論文、文献目録、年表などを公開しているだけでなく、そのホームページで連載を始めている人たちも増えてきているのである。
 
次回は、このような論文の無料公開について考えてみたい。

2002-02-04

教材の公開からe-テキストブックへ

いま、教育の現場ではさまざまなかたちでパソコンの使用を前提とした授業が行われている。従来から学校ではテレビ、ビデオ、スライド、OHP(オーバーヘッド・プロジェクター)などの情報機器が授業で用いられてきたし、またLL(ランゲージ・ラボラトリー)といった形で授業のやり方そのものが変化することもあったのだから、パソコンが教室に登場しても驚くことはないのかもしれない。

しかし、インターネットの急速な普及は教育のありかたそのものを大きく変化させる可能性がある。つまり遠隔教育やデジタル化したコンテンツを教材に用いるなど、いわゆるe-ラーニング、e-テキストブックが次第に実効性のあるものになりつつあるのである。

すでに今日の大学では、なにも情報工学の研究者でなくても教材をインターネット上で公開している人が次第に増えてきている。

例えば、関西大学法学部の園田寿教授はみずからのホームページ「電脳世界の刑法学」において刑法教材や論文、さらに「韓国法最前線」など多くの法情報を公開している。このホームページは1997年度関西大学重点領域研究「マルチメディアによる新しい教育方法と支援システムの研究」助成費による成果の一部であると明記されているのだから、大学としても研究者が学生や一般市民に研究を公開し、その学習を支援していくことを奨励しているのであろう。

このなかの「刑法教材」を見てみよう。まず、冒頭に次のように書かれている。

「以下の教材は、Microsoft(R)のPowerPoint(R)97を使用して作成したものです。ダウンロードして使用してください。 PowerPointがインストールされていませんと、利用できません。(中略)教材ファイルはLHAで圧縮されています。解凍してください。」

じつは現在の大学はPowerPointの全盛期といった感がある。PowerPointでのスライドショーを教室でおこなう教員が増えているのである。まるで企業のプレゼンテーションのように図表やグラフなどを交えながら講義が展開される。また、研究者のホームページ上で公開されることによって、学生は自宅にいながらいつでも見ることができるのである。

ただし、いくつかの問題点もある。パソコンに不慣れな学生にとってはPowerPoint のインストール、教材のダウンロード、解凍といった教材を見るまでに必要な操作がかなり煩雑であること。すべての学生がパソコンを操作できるという前提に立ったやりかたは、パソコンを所有していないために大学の図書館やメディアセンターに設置されたパソコンを利用しなくてはならない学生にとっては不利益を与えるという点である。

もちろん、就職するための企業資料の請求から内定の連絡まで自分のパソコンがなければ対応できないといわれる現状では、できるだけ早いうちからパソコンに習熟する必要があると大学は考えるであろう。そのために多くの大学では学内のIT環境を急速に整備しているのである。

また、教科書を補うものとして教材を使用するなど、教員の側でもさまざまな工夫がなされている点は評価できよう。変わりばえのしない講義ノートを読んでいるだけという、昔ながらの教員は決して学生から評価されることはない。

ところで、このようなデジタル化された教材が次第に一般化してくるといったいどのようなことが起こるのであろうか。まずは大学の教科書を刊行していた出版社はきわめて深刻な事態となるのではないだろうか。すなわち教科書の成り立ちそのものが講義ノートを活字化し、毎年新たな学生分が増刷されるといったものだからである。これが著者である教員その人が無料で公開するとなると、教科書市場のかなりの部分が消滅することになる。

たしかに教科書が紙の本であるがゆえに便利な部分はまだまだあるに違いない。機器を用いずに、ページを任意に飛ばしながら読め、アンダーラインを引くことも、メモを書くことも自由である紙の本はきわめて便利である。

しかし、最新のデータを入れたり、必要な部分だけをコピーして持ち運んだり、といったことにおいてはインターネットからダウンロードするe-テキストブックの方が優れている。

そうすると、これまで教科書の刊行を手がけていた出版社は講義、教材、教科書を一体化したものとしてとらえ、デジタルコンテンツ化する新たな編集技法を生み出さない限り、この領域における存続は困難になるだろう。

大学の教科書という一つの出版ジャンルが少子化の問題よりもさらに深刻な危機に見舞われているのである。

2002-01-28

IT革命と社会的関係性の変化

新しいタイプの電子出版の進展が社会的関係性の変化に影響をおよぼす、と前回書いた。それはなにも医療の分野での医師と患者の関係に限ったことではない。つまり、労働や教育の場面における上司と部下、教師と学生といった具体的な人間関係にも影響を与えることになるだろう。

たしかに現代日本の企業社会においてIT革命といえば、これまでのタテ型の人事組織を温存したまま、社内LANをひいただけという滑稽な事態もしばしば観察されている。情報の公開ではなく、秘匿することによってこれまでの権益を守ろうとする人々はかならず存在するからである。しかし、インターネットによる出版コンテンツのオンライン・サービスはさまざまな場面での情報公開を、おそらく不可逆的に進展させていくことになるだろう。

たとえば教師と学生の関係性を考えてみよう。

哲学者の黒崎政男氏は次のように書いている。

「従来、学者や教師など専門家の権威を形作ってきたのは、〈情報の独占〉と〈情報のタイムラグ〉であったと言える。情報をより早く所有し、それを自分たちだけで囲い込むことで専門家の権威は発生してきた。」

ところが「インターネット情報は、それとは正反対の〈開放性〉と〈同時性〉という特質を持っている」というのである。

つまり、「情報の支配的なメディアが書物からインターネットへと変わるのであれば、書物文化と深くリンクしていた大学制度が大きく変容・崩壊することは大いにありうる」という。

そこで、「情報の量や速さをいたずらに追い求めのではなく、情報を見きわめる判断力や、断片的知識の寄せ集めから統一的な意味を見いだす洞察力を身につける」ことしか、大学人には残されていないのかもしれないと結論づけるのである。

(「朝日新聞」2001年5月1日付け大阪本社版夕刊、黒崎政男・東京女子大学教授「大学制度 揺さぶるネット~情報の独占・落差の終焉」)

このように考えると、IT革命におけるデジタル・デバイド(情報格差)と同様の問題が書物というメディアにも起こっていたといえよう。つまり、従来の紙の本というメディアも、必ずしも多数の人々に開かれていたわけではなかったのである。明治期以降の日本の洋書小売業の歴史はまぎれもなく、このような学問のありかたと密接に関係していたといえるだろう。例えば、丸善を経由して日本国内に輸入された少部数の「洋書」を翻訳し、紹介するだけで業績となった時代を思い起こせばそれは分かるだろう。何ヶ月もかかって船便で届く高価な洋書を大学の公費で購入することによって、欧米の情報を独占的に入手し、それを少しずつ紹介することで、大学教授の学問的な権威は不動のものとなったのではないだろうか。

ところが今日では丸善もそれまでの書籍販売課を学術情報ナビゲーション営業課と名称を変え、ハードウェアとしての本の販売だけでなく、むしろ学術情報を提供する企業というイメージを盛んにアピールしている。その丸善が日本初のアグリゲータ・ビジネスを開始するとして「Knowledge Worker(ナレッジワーカー)」というサービスを展開していることは日本の大学関係者にはよく知られている。それはインターネットで世界の学術情報へのワンストップ・アクセスを実現する学術情報ナビゲーションシステムである。洋書・和書・外国雑誌コンテンツを自由に検索し、書籍や論文を入手することができる。しかし、皮肉なことに「Knowledge Worker」は〈情報の独占〉と〈情報のタイムラグ〉というこれまで学者や教師の権威を形成してきた歴史をそのまま保障するわけではない。

現在では、インターネットによって学生も同時に、あるいはさらに詳しく知っている情報だってあるからである。書物の権威性やその情報ルートとしての寡占状態がすでに崩れているといってよいだろう。

そうすると、情報の生産と消費の双方の場面においてこれまでのやり方はすっかり変わる可能性がある。これこそがIT革命が革命と呼ばれるゆえんなのだろう。

教育の現場におけるこのような変化は、出版メディアそのものに直接的にかかわってくるにちがいない。例えば、教科書という概念が変化するだろう。そこで次回はe-ラーニング、e-テキストについて考えてみよう。

2002-01-21

医学・医療情報の公開

[2002年1月21日執筆]

(株)メテオインターゲートというところがメディカルオンラインという医師向けのサイトを開設している。このサイトではいくつかのサービスを提供しており、「文献検索」では2001年12月現在、13万論文が収録され、24時間オンライン図書館として「週刊日本医事新報」などの学会誌・専門誌のダウンロードができる。疾病名、医薬品名、学会名、著者名、論文タイトルなどのキーワードから検索でき、アブストラクト(抄録)の閲覧料は1件30円。全文ダウンロード料金は1論文400円となっている。
 
また、「医学書籍のネット販売」では医学書籍をインターネットで販売し、支払い方法は「代金引き換え」「銀行振り込み」「コンビニエンスストアでの支払い」「クレジットカードでの支払い」の4種類が可能となっていて、購入金額の3%を文献ダウンロードの割引額とする特典がある。
 
ほかにも「治療薬剤Q&A」「学会・研究会情報」「メールマガジンの配信」「お役立ち情報」「最新ニュースの配信」「ホスティングサービス」「電子化受託サービス」「学会ナビ」といった機能があり、まさに「忙しい医師」向けのサービスが豊富に用意されている。
 
このサービスを見ると、これまで医師や病院職員に対する資料提供を中心に活動してきた病院図書館司書の危惧もうなずけよう。アグリゲータが推奨する電子ジャーナル管理システムの導入後、その行く末には従来の図書館サービスがそっくり民間の情報業者に奪われてしまうのではないかと考えても無理はないのである。
 
しかし、医学・医療情報をめぐる中心的な問題はむしろ医師―患者という関係性の中で情報がどう位置づけられるかということであろう。
 
1997年6月26日、アメリカ国立医学図書館が構築する医学雑誌記事データベース「Medline」がインターネット上で無料公開されたことはきわめて象徴的な出来事であった。これまで商業データベースを通して有料で提供されていた世界最大の医学データベースが一般市民に開放されたのである。これは医学・医療情報の観点から言 えば、医師だけでなく患者やその家族にも情報が公開されていくという非常に画期的な転換点であったといえるだろう。
 
日本においても、学会がつくった治療指針や信頼できる臨床研究などの医療情報を集積し、一般公開する「電子図書館」が2002年度から官民共同で始まる見通しとなった、と報道されている。
 
2001年8月17日付け「朝日新聞」大阪本社版夕刊によれば、この電子図書館構想は「患者側にとっては、標準的な治療法やその根拠となる論文を手に入れることで、治療への理解を深め、医師らを選ぶ基準にもできる。ひいては医師側も常に最新情報を治療に生かす努力が求められ、医療の質向上につながる、と関係者はみている」という。
 
すでに国立情報学研究所の情報検索サービスには「臨床症例データベース」があり、2001年10月からは画像情報の提供も開始されている。しかし、「医療情報の電子図書館」という構想には明らかに今日の医療情報をめぐる環境の変化が反映されているのではないだろうか。つまり、医師が絶対的な権威を持ち、情報を独占していた時代から、患者の知る権利・選ぶ権利・決定する権利が尊重される時代になってきたという背景があるだろう。みずからの健康に関する情報を入手したいと考える人々が多くなってきたのは当然のことである。
 
しかし、ここで注意しなくてはならないことは、出版メディアにおいては著者と読者がいればあとは不要というような単純なものではないということである。インターネット上の大量の、玉石混交の情報があればあるほど、出版における編集という機能が重要視されるように、出版コンテンツに関する情報を的確に整理し、信頼に足る情報を利用者に提供する図書館司書の仕事は必要であるに違いない。ただ、図書館サービスが資料提供から情報提供に質的に転換していこうとしている現在、そのはたす役割はダイナミックに変化しつづけるだろう。
 
いずれにせよ、新しいタイプの電子出版の進展と医師―患者という社会的関係性の変化はこの場合、相互に影響を与え合うことになると私には思えるのである。

2002-01-14

アグリゲータ・ビジネスとはなにか

IT革命とは産業革命との対比で語られる言葉であり、インターネットの普及によって一般の人でも情報をもつことが可能になった時代がここから始まったというニュアンスで使われている。

とすれば、出版メディアにおいてもこれまでの産業革命=工業化社会の延長線上にある大量生産、大量消費を前提とした産業構造自体を見直す必要があるだろう。つまり、出版物をインターネット通販によってより多く販売したり、出版業界の物流情報がデジタル化されることによって大量の出版物の流通が可能になるという考え方ではなく、むしろ出版メディアとはなにか、出版メディアがはたす社会的な役割とはなにか、という原点に立ち戻る必要があるような気がするのである。

例えば著者―出版社―取次―書店―読者というこれまでの出版流通の形も、それが物流によって制約されていたためにこのように発達したのに過ぎないのであって、出版コンテンツ(出版物の内容・出版物に書かれてある情報そのもの)をインターネット経由で入手することも可能になった今日、その優越的な立場は崩れ去っても不思議ではない。つまり、物流から情報流への変化によって中間業者の形態に変化が生まれるのである。それは単純な意味での流通の「中抜き」現象ではなく、物流の中間業者から情報流の中間業者への転換を意味する。そして、それは例えば書店と図書館の区分をあいまいなものにしてしまうだろう。

では、もう少し具体的に考えてみよう。

2001年10月、近畿病院図書室協議会が開催した「雑誌―これからの利用環境を考える」という研修会において、私は電子出版など出版メディアの変化によって図書館はどう変わるのかというテーマで話をした。

この中で私は出版メディアの変化は図書館にも大きな影響を及ぼさざるをえない。なぜならCD-ROMのようなパッケージ系の電子出版物の収集だけでなく、オンライン出版、オン・デマンド出版といった新しいタイプの電子出版物にも図書館として対応していかざるをえないからであると指摘した。

例えば野村総合研究所が刊行しているNRI ITフォーキャスト・ブックレットシリーズの『21世紀型経営の情報技術』という本の奥付には「2000年1月31日10時」と記載されているだけで、版表示がない。この本には「ITフォーキャスト・ブックレットは、オーダーをいただいてから最新の情報を盛り込んでオン・デマンド印刷・製本をする方法を採用しています。在庫をもたず、版管理をリアルタイムにおこなう、まったく新しいスタイルのブックレット」と書かれている。刻々と最新版が現れる本、それは図書館の収書・整理にとっては厄介な問題であろう。

日本図書館協会では日本目録規則(NCR)を改訂し、デジタル資料の目録化の問題に対応しようとしている。また、国立国会図書館ではCD-ROMなどのパッケージ系のデジタル出版物については収集する方針を打ち出したが、インターネット上の資源についてどのように収集していくのか、課題は多い。実際にオンライン出版という出版形態が進展してくれば、図書館はいったどうなるのだろう。すでに、学術出版物を取り扱う大学図書館や専門図書館などでは電子ジャーナルの問題が現実化しているのである。

これまで病院図書館では、医学雑誌が海外から到着すればそれを開封し、利用者に提供するために管理するということが中心であった。しかし、医学雑誌が冊子体から電子ジャーナルに移行すれば図書館は電子ジャーナルに対応せざるをえない。なぜなら、図書館員はつねに最先端の情報へ利用者を案内しなければならず、図書館司書の仕事は資料提供から情報提供に変化しつつあるからである。

近畿病院図書室協議会が2001年10月におこなった「外国雑誌の利用形態の変化に関するアンケート調査」の結果を読むと、「IT Station」という電子ジャーナル管理システムについて、「面白い企画だが、これが普及したら図書館担当者はさらに不要の存在になるのかと思ったりしています」と率直に答えているものがあった。この「IT Station」とはインフォトレーダー株式会社(旧・北尾書籍貿易)が図書館に提案している電子ジャーナル管理システムであり、このときの研修会でデモンストレーションが行われることになっていたのである。そのプレゼン資料によると、これからの図書室(資料室)に求められていることは「電子ジャーナルに代表されるようにインターネット上に存在する大量の情報中から必要な情報を整理し、情報発信基地としての役割が求められる。利用者はそこに行けば(接続すれば)、必要な最新情報が簡単に入手できる」というのである。

このような新しい中間業者は従来の書店というより、アグリゲータと呼ぶにふさわしい。アグリゲータとは、複数の出版社から提供される電子ジャーナルをインターネット上で、共通のインターフェースで利用できるサービスを提供する会社のことである。出版社ごとに個別に利用契約を結ぶ場合だと、出版社ごとに別々のID/パスワードを入力して、出版社ごとに異なるインターフェースから電子ジャーナルを検索して論文にアクセスしなければならない。その点、アグリゲータと契約すれば個々の出版社、サービスごとの操作や契約形態の違いを意識せずに論文にアクセスできるのである。

しかし、考えてみるとそのような中間業者に利用者が直接アクセスすれば、図書館や図書館員は不要になるのではないか。図書館現場の不安はまさにこのようなところにあるのである。

ところで、本当に重要な変化はじつはそれだけではない。なぜならインターネットによる出版コンテンツのオンライン・サービスなど、新しいタイプの電子出版の進展が社会的関係性の変化をもたらしていることにこそ注目しなければならないのである。このことは次回に考えてみよう。

2002-01-07

あいまいになるメディア間の境界

ポット出版の沢辺均さんからポット出版のサイトにコラムを連載しないかとの提案をいただいた。2000年8月に上梓した『デジタル時代の出版メディア』以降の動きを書かないかというのである。
 
実際のところ、書いた端から情報としては陳腐化していくのが、「デジタル時代」の特徴でもある。したがって、つねに最新の状況に目配りしておく必要がある。しかし、だからと言って本としての『デジタル時代の出版メディア』がすでに古くて役に立たない、とは思わない。出版メディアの変容をどのような視点でとらえるのかという現状整理のしかたについてはまだ十分に有効だと思っている。
 
ところで、インターネット書店「bk1」のサイトにある拙著の書評(2000年12月26日)に日本出版学会の小出鐸男・常任理事が次のように書いておられた。 

「ただこうした変化の速度があまりにも早いため、本書に書かれている現状がおおむね2000年の前半どまりであることが、惜しまれる。これもまた従来型の出版物の限界とみれば、納得できるというものか。」

じつはこれは『デジタル時代の出版メディア』の電子・ドットブック版が周知されていないために起こった現象と言えよう。ポット出版から紙の本が刊行されてから2ヶ月後の2000年10月、電子・ドットブック版が(株)ボイジャーの「理想書店」で紙の本より800円安い1000円でオンライン販売されているのである。
 
電子・ドットブック版では索引から300箇所以上のウェブページへリンクをし、クリックするだけでそのホームページを開くことができるようになっている。また、私がもう少し勤勉であれば、この電子・ドットブック版Ver.1.0はテキストにおいても最新の状況を追加しながら、Ver.1.1や Ver.1.2そしてVer.2.0といつまでも完結しない書物としてまるで生き物のように進化を遂げ続けることもできるのである。
 
ところで、最新情報の更新という時系列的なことがらにあまり目を奪われるとつい忘れがちになるが、現在、出版メディアにおいて特徴的なことはむしろメディア間の境界があいまいになるという横への拡がりの問題であろう。
 
だからこそ、出版業界ではないところからも、『デジタル時代の出版メディア』を読んだと言って講演の話が舞い込んできたりするのだと思う。
 
朝日新聞社の共同研究プロジェクトである電子メディア研究会では奥野卓司氏(関西学院大学社会学部教授)と岡田朋之氏(関西大学総合情報学部助教授)の社外研究者と朝日新聞記者が若年層のメディア接触を中心に勉強会を続けているが、2000年10月、私はここで出版メディアのデジタル化と若年層の読書実態について話す機会を奥野さんによって与えられた。
 
また、2001年1月、イトーヨーカドーグループの伊藤謝恩育英財団の「小売イノベーション研究会」でマーケティング・流通分野の若手研究者を対象に電子メディアと流通の問題について話した。
 
あるいは、大学図書館問題研究会京都セミナー「ネットワーク環境下における図書館サービス」が全5回にわたって開催されたが、2001年4月の第1回セミナーで出版業界におけるデジタル化の動向について話した。続いて、2001年8月には大学図書館問題研究会の全国大会でも「出版流通」の分科会のゲストとして講演。
 
さらに、2001年10月には近畿病院図書館協議会の「雑誌―これからの利用環境を考える」というテーマの研修会では電子ジャーナルとアグリゲータ・ビジネスの動向について話したのだった。
 
このようにさまざまな領域の人々が出版メディアのデジタル化がもたらす大きな変化に関心を寄せている。もちろん出版業界内からの反応もたくさんあった。しかし、とくに新聞社や図書館といった組織においてインターネットが爆発的に普及してからというもの、出版業界ときわめて似通った問題意識を持ち始めているという印象を私は受けたのである。
 
例えば、朝日新聞社の電子メディア研究会は電子メディアの普及で紙の新聞はどうなるのかがメインテーマであるが、その背景にはとくに新聞が若年層に読まれていないという危機感がある。ケータイ世代は新聞を購読しないということが数字の上からも明らかになってきているからである。
 
また、近畿病院図書館協議会に加盟する病院図書館司書のうち、少なからぬ人々は医学雑誌の電子ジャーナル化によって、医師や職員などこれまで病院図書館の利用者であった人々が直接、ネット上で医学情報を入手し、図書館や司書が不要になるのではないかという危惧を抱いていた。
 
新聞、放送、通信、映画、出版といったメディアがコンテンツ産業という観点から再編成されつつあるという状況認識を持つ人々にとっては、「紙の本はなくならない」と言ってみてもなにも言わなかったのと同じである。
 
情報とメディアの関係はどのように変化していこうとするのか。そのことを次回からのコラムでさまざまなトピックスを取り上げながら考えてみたい。