2002-04-01

『コリアン・ドリーム!韓国電子メディア探訪』を読む

 韓国の話を書いていて、思い出したのが2000年7月に出版された『別冊本とコンピュータ3 コリアン・ドリーム!韓国電子メディア探訪』(大日本印刷発行・トランスアート発売)である。

 この本のまえがきに「本とコンピュータ」編集室の河上進さんが編集方針を書いている。すなわち、「?本、新聞、雑誌といった活字メディアは、電子化とどう向き合っているか。?電子メディアは、韓国の伝統文化やいまの生活にどのような影響を与えたか。?インターネットをはじめとする電子ネットワークは、韓国と日本の関係をどう変えようとしているか。」という3つの視点である。

 韓国の出版メディアの変化をみることによって、これからのメディア社会のありかたを対象化するという方法はこの本においてかなり成功していると私は思う。ただ、「電子メディアは、韓国の伝統文化やいまの生活にどのような影響を与えたか」という点については、まだ十分には切り込めていないといえよう。

 インターネットに代表される電子メディア化が世界の文化を均質化してしまうのか、あるいはそれぞれの社会の文化的な特性が新たな展開をもたらすのか、という私が前回掲げた問いに答えを出すのはまだ早い。さらなる事例研究が積み重ねられる必要があるだろう。

 ところで、この本の中でハン・キホ(韓淇皓)氏(韓国出版マーケティング研究所長)が「オンライン流通は韓国の出版を変えるか?」という論文を書いているが、その中で次のような指摘があることは興味深い。

 「90年代後半に明らかになった社会や経済の変化は、出版業界のあり方にも変革を迫っている。教育体制の変化、学習誌市場の拡大などから、すでに予見されていた学習参考書市場の沈滞は、オンライン教育の拡張で市場それ自体の消滅すら語られるようになり、これまでベストセラーを量産してきた小説などの文学書や教養書(人文・社会科学書)市場においても、やはり急激に落ち込みが目立つようになった。その反面、経済・経営・政治・社会に関するものなど、社会一般の変化を簡潔に読み取ることのできる本や、語学・コンピュータなどの実用書市場の領域は広がっている。」(30ページ)

 これを読むと、日本の出版業界で起こっている構造的な変化はなにも日本だけの話ではないということがよく分かるだろう。すでにこの連載の第5回、第6回でとりあげたe-ラーニングの進展は韓国においては学習参考書市場の消滅すら語られているわけである。そして、文学と人文・社会科学関係の本が低迷していること、実用書の領域が拡大していることも日本と共通している。

 日本の書店現場ではかつて学習参考書は「学参」と呼ばれ、大きな売上げ比率を占めていた。とりわけ3月下旬から4月上旬にかけての春休みの売上げは書店の生命線だったのである。ところが、今日ではすっかり様相が変わってしまった。塾、予備校、通信教育会社などが独自の教材を制作、頒布し、家電量販店が電子辞書を販売する時代である。e-ラーニングの進展にともなってますます書店で販売される学習参考書の比率は減少し続けるだろう。また、今日ますます盛んになってきている各種資格関係や生涯教育の教材も同様であろう。

 そして、文学と人文・社会科学関係の本の販売低迷は日本でも見られる現象である。

 例えば今日の日本では、文学全集や個人全集の出版はきわめて困難な状況を迎えている。1998年9月に27年ぶりに完結した「筑摩世界文学大系」(全89巻、91冊)も、これが最後の世界文学全集と言われたものである。

なにしろこの全集の第1回配本は1971年2月の『トルストイ?』で刷り部数は3万部だったが、最終配本の『ジョイス? オブライエン』『セリーヌ』の2点は3200部にまで落ち込んでいる。(「朝日新聞」1998年9月3日付け大阪本社版朝刊)

公共図書館を新たに開館するようなときに、文学全集が揃わなくて困るという話は以前から聞いていたが、これからはそもそも古書以外では初めから文学全集が存在しないということもありえよう。つまり、紙の本を購入しようにも電子ブック版しかないという事態が想定でき、まさに百科事典と同様のことが起こりそうな気配なのである。

このような現象は文学全集を読むという、権威的なものを求める読み方が崩壊していることを反映しているといえよう。しかし、古典が読めなくなってよいのかという問題もある。そうすると、文学作品の電子メディア化は紙の本を駆逐するものとして敵視するものではなく、むしろ作品の保存と市民のアクセスを保障する上できわめて重要な課題になっていく、ということになるのではないだろうか。