2003-02-14

「IT革命=若者のバカ化」説への反論

 さて、いよいよ今回は私の敬愛する島元健作氏(書砦・梁山泊店主)の「反IT文明論」への反論である。

 その前にもう一度、日本出版学会関西部会での島元氏の話に耳を傾けてみよう。

 島元氏は、産業革命によって近代資本主義が成立したことについて、農民が封建的束縛から逃れて自由になる一方で資本家のところに行って働くしかない不自由さ、つまり賃労働者が生み出された歴史的背景を語った。そして産業革命と対比していわゆるIT革命は情報機器を買う、「バカになった若者」の存在が必要であるのではないかと語った。需要があるからではなく、まず製品開発があって、「バカな若者」から普及していく、というのである。

 この講演で島元氏が会場に配布した資料に池田清彦「加速するバカ化」(『ちくま』2002年9月号、「やぶにらみ科学論」(12))があった。少し長いがどういう文章か引用してみよう。

「この数年、学生たちのバカ化はさらに進んだように思われる。インターネットとケータイの普及に原因の一端はありそうだ。私はインターネットもやらなければ、ケータイももっていない。知的生産に何の役にも立たないことが分かっているからだ。私は見ないので本当は知らないのだが、仄聞するところによると、ネット上の言説には目も当てられないものが少く(ママ)ないと言う。本は一応、編集者というフィルターを通す。ネット上の言説はどんなフィルターも通さない。質が落ちて当然である。小谷野敦の表現を借りれば、バカが意見を言うようになったのである。インターネットは世界につながっているはずなのだが、彼らは狭い世界の中でバカな意見の交換をするのに忙しく、外部の意見を探ろうとする意欲はないようである。意見はけたたましく言うのだけれども、自分の意見の知的水準に対する内省はまるでない。ケータイもまた狭い人間関係の中だけで、情報をやりとりするのに使われるだけで、外部へつながる契機を奪うように機能している。高等教育の機会拡大が若者のバカ化を加速したように、情報に対するアクセス権の拡大は、若者たちに情報の閉域化をもたらしつつあるように思われる。ケータイで一時間毎にやりとりし、下宿に帰ってネット上の『フォーラム』にゴミのような意見を言うだけで一日が終わってしまう。ケータイとインターネットという最新の道具を使っているので、本人たちは何か知的な作業をしていると錯覚しているのかもしれないが。大海を知らないインターネットの中のカエルである。」(31ページ)

 私はこの種の、人を「バカ」呼ばわりする文章がネット上の「フォーラム」ではなく筑摩書房のPR誌『ちくま』に掲載されていることに、むしろ驚く。いつの頃からか「本音トーク」とか「激辛エッセイ」とかいう触れ込みで、人を罵ることに主眼を置いたような本や雑誌が即席で作られ消費されていることこそ、古書店主の島元氏にとって憂うべき事態ではないのだろうか。つい先ごろも石井政之氏が柳美里著『石に泳ぐ魚』の出版差し止め裁判についての文章を書いていると聞いて、私は『まれに見るバカ女』(宝島社)という本を買った。しかし、それは「社民系議員から人権侵害作家、芸なし芸能人まで!」と副題にあるように、女性たちへの罵詈雑言集であった。そういえば池田清彦氏についても柴谷篤弘氏との対談を中心にまとめた『差別ということば』(1992年、明石書店)で、かなり挑発的な発言をする人だなと思ったことがある。

 それはさておき、先ほど引用した部分の前段で池田清彦氏は『新しい生物学の教科書』(新潮社)という本を出版した時に、この本を2割引(著者割引)で学生に売ってあげようとしたのに、たった一人しか買わなかったことに対するうらみつらみを長々と書いている。そして、「難しい本は三流大学の生協ではまず売れない」だとか「はっきり言って、現在の日本の大学生の八割は、大学に来てはいけなかった人たちなのである」とまで論理は飛躍していくのである。もちろんなぜ「八割」なのか、何の根拠も示されてはいない。要するにこれは多分「辛口エッセイ」なのであって、まともに一つひとつ「社会科学的」に考えても意味がないのだが、「山梨大学教授・生物学」と最後に肩書きが記載されているために恐らく権威づけられてしまうであろう。

 「ネット上の『フォーラム』にゴミのような意見を言う」若者を池田氏は「バカ」呼ばわりしている。しかし、筑摩書房のPR誌『ちくま』に「山梨大学教授・生物学」の肩書きで、「大学程度の知的訓練に耐え得るのは、人口の一割程度しかいないという厳然たる事実」などと、またしても何の根拠も示さず「一割程度」と数字を挙げることははたして「賢者」のすることなのだろうか。

 私はこの資料を会場に配布した島元健作氏の意図とは逆に、むしろ池田清彦氏が自身が勤務する山梨大学の学生に苛立って悪態を吐くしかないという「厳然たる事実」に興味を覚える。今日の大学における教授と学生の関係、授業と教科書のあり方、大学生協書籍部における書籍販売の実態など、この文章には池田氏の主観とは別に様々な材料を私たちに与えてくれるのである。(しかし、それにしても勤務する大学を「三流大学」と書き、学生を「バカ」と書く大学教授に学生は教えられたくないだろうなあと私は思う)

 つまり、この文章に表れているのはこれまで当たり前だったことが、次々と変化し、大学という制度そのものが揺らいでいるという現実である。とりわけ、インターネットの急激な普及以降の様々な変化は単に速さや便利さという側面だけでなく、社会的関係性の変化につながっていくことにこそ私は注目したい。

 韓国のキム・デジュン前・大統領が、学歴に関係なくインターネットを使いこなす農業従事者や中小企業やベンチャー企業の経営者などを「新知識人」と呼び、このような「政府が提示した『新知識人』論は、これまで『知識人』とされてきた層から強い批判と反発を受けることなる」とキム・ヤンド(金亮都)氏は指摘している。(キム・ヤンド「社会に変容をもたらす新しいメディア」『別冊本とコンピュータ3・コリアン・ドリーム!』102ページ)

「情報に対するアクセス権の拡大」は、「学生たちのバカ化」進むから良くないのではなく、旧来の「知識人」の足元が揺らぐから嫌悪されているという側面はないのだろうか。

 インターネットやケータイという比較的新しいメディアに対する「知識人」の嫌悪感をもう一度、よく吟味してみる必要があると私は思うのである。