2003-02-23

新しいメディアに対する批判と書物の権威

 書砦・梁山泊店主の島元健作氏が「IT革命」を「バカになった若者」を必要しているように言うのに対して、そういう見方は皮相にすぎるのではないかと私は考えている。なぜなら、まずインターネットやケータイというメディアを仔細に調べ、その新しいメディアが社会の変化とどのように関係しているのかを考えてみる必要があると思うからである。

 インターネットやケータイに対する批判というのは、新しいメディアが現れるたびに繰り返し行われている違和感や嫌悪感の表明に過ぎないのではないのだろうか。

 例えばテレビに対する批判を思い起こしてみよう。今年2月1日はテレビ誕生50年ということでNHKでは16時間生放送で記念番組を放映していた。 1953年2月1日、NHKが日本初のテレビ放送を東京で開始し、8月28日に日本テレビが開局したのである。そして、テレビの功罪ということで言えば大宅壮一氏の「1億総白痴化」発言があまりにも有名である。

 1956年11月3日放送の日本テレビの視聴者参加番組『何でもやりまショウ』において、早慶戦で早大の応援席で慶応の応援をした出演者が早大応援団につまみ出される騒ぎとなった。これを評して、評論家の大宅壮一氏が1957年2月2日号の『週刊東京』で「テレビにいたっては、紙芝居同様、いや、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと並んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、”一億白痴化”運動が展開されているといってよい」と書いたのである。(日本放送協会編『20世紀放送史』(上)403ページ、2001年、日本放送出版協会)

 テレビが出現してまもない時期にこのような批判が現れていることに注目したい。そして、テレビの契約件数が100万を超える1958年ごろを一つのピークとしてこのような「テレビ功罪論」が語られていたのである。

 『20世紀放送史』(上)の先ほど引用した後には次のように書かれている。

 「大阪の朝日放送の広報誌『放送朝日』は、57年8月号で『テレビジョン・エイジの開幕にあたってテレビに望む』という特集を企画、識者の談話を集めた。ここで作家の松本清張は『かくて将来、日本人1億が総白痴となりかねない』と述べている。
こうした経緯を経て、テレビ批判のシンボル的な表現としての”一億総白痴化”が定着していった。」(403ページ)

 このように大宅壮一氏や松本清張氏など当時の知識人たちは当時のテレビを低俗なものと批判した。そして、その背景には書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと思われるのである。

 島元氏は『文藝春秋』1957年2月号に掲載された「本はバスに乗って~奥多摩の移動図書館」のグラビア記事をみて「本も読書も生き生きとしていた良き時代の情景です」と書いたが、その雑誌が発売されたちょうど同じ時期に「一億総白痴化」という言葉が流行し、テレビの低俗化批判が湧き起こっていたのである。たしかにテレビの登場は書物の権威が次第に落ちていくきっかけの一つであったに違いない。

 今日において、島元氏は池田清彦氏の「加速するバカ化」(『ちくま』2002年9月号)に共感し、インターネットやケータイが流行するのはバカになった若者のせいであるという論の立て方をした。しかし、少し冷静に考えれば分かることだが、テレビを見れば一億の国民が「白痴化」するとか、インターネットやケータイをすれば若者が「バカ化」しているといった言説はあまりに単純すぎる。もっと具体的に何が問題なのかを論議する必要があるだろう。

 島元氏は日本出版学会関西部会の講演会の会場に「IT革命なるものへの反革命的遁辞」という島元氏の文章を配布した。その中に次のような箇所がある。

 「『デジタル時代の出版メディア』(ポット出版)で著者は、デジタル社会のなかでの読書環境の変化について無知であるのは、精神の退廃を招くと言い切っている。電子出版やインターネット書店等について、この本から多くのものを教えられた。しかし、読書環境の進化のように見えるその変化が、読書主体を退化させ、あるいは解体させるかもしれない危機に思いを巡らせず、技術論だけを精緻に展開させるのも、精神の退廃とならないだろうか。実は、著者の湯浅俊彦氏とは、終電車の時間も忘れて飲みかつ論じ合うアナログ的おつき合いをしている仲だ。片や売れない古本屋のおやじ、方や大型新刊書店の少数労組の反骨委員長を結びつけているのは、情報交換の利便なぞではなく、本好きという心根の共有以外にない。」(『彷書月報』2001年1月号・31ページ)

 じつは飲んで話すたびになかなかお互い譲らぬ頑固者になり、次第に激論となってゆく島元氏と私なのである。

 すでにこの連載でも第4回「IT革命と社会的関係性の変化」のところで書いたようにIT革命におけるデジタル・デバイド(情報格差)と同様の問題が書物というメディアにも起こっていたことを私はいつも島元氏に強調するのであった。黒崎政男氏が言うところの「情報の独占と情報のタイムラグによって成り立つ学者や教師という専門家の権威」と比べ、インターネット情報の「開放性」と「同時性」は社会のあり方を変えてゆく可能性をもっていると私は思う。だからこそ、私がインターネットやケータイについて論じようとする時、それはあくまで社会的な視点からアプローチしようとしているのであり、決して技術論の立場からではない。出版メディアを考える上でもCD-ROMやオンライン出版などのいわゆる電子本が出現したために、紙の本の特性がますます明らかになってきたのである。そして、電子本の誕生は社会的な関係性の変化にもつながっていく可能性のあるものである。「進化」という言い方を私はしないが、少なくとも「相対化」されたと断言できるのである。

 そして、それは書物が絶対的な権威であった時代よりもずっといいと私は思っているのである。