ほろ苦い焼き鳥の味 [北尾トロ 第10回]
1985年になっても代わりばえのしない日々が続いていた。1月、ぼくは27歳になったが、それで気持ちが変化するわけでもない。唯一の趣味であり、かつては生活費稼ぎの手段でもあった競馬は、資金難のため当分封印。週に3日ほど四谷 [...]
1985年になっても代わりばえのしない日々が続いていた。1月、ぼくは27歳になったが、それで気持ちが変化するわけでもない。唯一の趣味であり、かつては生活費稼ぎの手段でもあった競馬は、資金難のため当分封印。週に3日ほど四谷 [...]
最初に買ったワープロは富士通のマイ・オアシス2だった。高見山がテレビコマーシャルをしていた「ザ・文房具」というシリーズのワープロで、こんなに小さいと宣伝していたわけだが、相撲取りのなかでも巨体の高見山が持っているのだから [...]
雑誌『スウィンガー』の編集長である佐々木公明さんが、電話をくれた。
「増田くんも独身でどこで、ちゃんとご飯食べてないんじゃないの? たまにはウチにきなよ」
佐々木さんは新婚で、同じ会社の女性と結婚していた。だから、僕は両 [...]
いたいだけいていいよと言ってくれたからといって、2カ月半は好意に甘え過ぎである。出て行ってくれとパインに言われるのも仕方なかった。新しい住処を見つけなければ。
さりとて引っ越し資金などあるはずもなく、借りるアテは親しかな [...]
広告代理店ハリウッドにいた1984年の夏、僕はけっこう自由にあちらこちらに出歩いていた。
前にも書いたように仕事のひとつは、雑誌編集部を訪れて、オリーブオイルを読者プレゼントのコーナーで取り上げてもらうためだ。
当然なが [...]
僕の原稿が少し時間的に先に進みすぎてしまった。これでは、読者も少しわかりにくいかもしれないので、僕の原稿も少し時計の針を戻そうと思う。
イシノマキでは、本当に多くの人に出逢った。ただ、僕自身はイシノマキにおいて特異な存在 [...]
イシノマキの入っているビルのエレベータでのことだ。
「お前、よかったらウチに来いよ」
そう、北関東訛りでしゃべりかけてきた男がいた。広告代理店ハリウッドの社長、葛飾さんだ。僕がイシノマキでなにもすることがなく、クサってい [...]
この原稿は北尾トロと僕が交互に書いているわけだけど、僕自身、北尾トロの原稿を読むのが楽しみである。あの頃は知らなかった新事実というものが、わかるからだ。
北尾トロの前回の原稿にあったイシノマキでのアルバイト料が月に11万 [...]
編集プロダクション「イシノマキ」に籍は置いたものの、いったい何をどうすればいいかまったくわからなかった。
まあ、事情というのは、あとからわかってくるのだが、これは伊藤秀樹(のちの北尾トロ)がイシノマキを辞めたため、その穴 [...]
1983年の年末から1984年の正月。僕はひとりで中野坂上のフレンドマンションにいた。スーさんは年末から栃木の実家に帰っていたが、僕は山口の実家には帰省しなかった。理由は、単純に金がなく、電車賃が払えなかったからだ。
部 [...]
大阪から東京へ来て、雑誌『スウィンガー』を発行する会社に勤務することになった1983年の春。東京駅から中央線に乗って驚いたのは、窓から見える桜の美しいことだ。飯田橋あたりから四谷にかけての線路脇の土手には、桜の樹が植えら [...]
ポット出版サイトにて、先週から、北尾トロさんと下関マグロさんの新連載「ライターほど気楽な稼業はない」が始まりました。
同じ年(1958年)に生まれ、同じ期間(5年)を大学生として過ごし、同じ時期(26歳)にフリーライター [...]
「せっかく受かったんじゃから、そこへ行きなさい」
母親は、唯一合格した大学に行けと言う。もっともなことだ。僕は、一浪しており、その年に受けた大学もほとんど落ち、たったひとつだけ合格した大学なのだ。しかし、この唯一合格した [...]
●2009.05.28木
北尾トロさん・下関マグロさんとポットサイトでの新連載の打ち合わせ
yaoという近くのカフェで。
昭和時代のふたりのライター稼業のことを連載する事になる。面白そうでしょう。
早くも、女性ロックシン [...]