2009-10-12

放送作家にしてやると騙された [下関マグロ 第10回]

最初に買ったワープロは富士通のマイ・オアシス2だった。高見山がテレビコマーシャルをしていた「ザ・文房具」というシリーズのワープロで、こんなに小さいと宣伝していたわけだが、相撲取りのなかでも巨体の高見山が持っているのだから、そりゃ小さく見える。我が家にやってきたものは、たしかにそれまでのワープロに比べれば価格も安く、小さかったが、それでも机の上を占領していた。時期は1983年の秋くらいだったろうか。中野坂上でスーさんとルームシェアを始めた時期だ。つまり、まだ『スウィンガー』の営業マン時代。

価格は50万円くらいだった。もちろん現金では買えないので、丸井のローンである。

買った理由は、当時流行していたミニコミ誌を自分でも作ってみようと思ったからだ。しかし、新しく買ったワープロは、まったく使いこなせなかったし、ミニコミ誌についてもどういうものを作りたいかというような具体的なものはなかった。ただ漠然と作りたいと思っていただけである。今から思えばなんともアホな話だ。

そのうち、スーさんと一緒に住んでいたフレンドマンションの家賃が支払えなくなり、そこを出たことはすでに書いたが、引っ越した先は、近所にあった3畳の木造アパート。そこは、あまりにも手狭なので、ワープロはオナハマの事務所に置かせてもらうこととした。向こうも、タダで使えるのだから、衣浦社長は大歓迎であった。

で、僕はオナハマからイシノマキへ出向することになり、その両方ともやめ、広告代理店ハリウッドに所属したが、そこもやめてしまった。

そんなわけで、ワープロをオナハマに預けて一年が経過。すっかりワープロのことは忘れていた。たまたま辞めたばかりの広告代理店ハリウッドへ行くと、僕が座っていた席にオナハマの衣浦社長が座っていた。その隣にはオナハマの女性スタッフがいる。このあたりのいきさつは、よくわからないが、オナハマは以前の事務所を引き払って、ハリウッドに間借りしているようだった。

その女性スタッフが使っていたのは見覚えのあるワープロだった。思わず「あ、僕のワープロだ」と声をあげると、衣浦社長は、

「増田くんのワープロはけっこう使わせてもらってるんだよ。もし使わないんだったら、ゆずってくれないかな」

と言われた。残りのローンが30万円近く残っていたが、

「20万円、キャッシュならいいですよ」

と言うと、了解された。その場で20万円をもらい、その足で上野へ向かった。原付バイクを買うためだ。ホンダの三輪バイクの「ジャスト」を買った。色は赤で価格は13万円。

当時の僕にはワープロよりも原付バイクが必要だったのだ。これから後の何年間は、都内のあちらこちらをこの原付バイクで走り回った。

11月17日の土曜日の夜の10時、僕はこの原付バイクで六本木のテレビ朝日へ出かけた。「ミッドナイトin六本木」という深夜番組の観客になる仕事だ。観客になる仕事、最初に聞いたときにそんなのあるんだろうかと思った。この深夜番組は公開放送スタイルだが、客はギャラをもらって客席に座っているのだ。なんていい商売だろう。そう思ったが、すぐにそれは間違いだと思った。テレビ朝日の大きめのスタジオに10時に集合し、あれこれ注意などを聞き、12時過ぎに生放送開始。終わるのは深夜の2時過ぎである。電車はすでにない。ギャラは千円くらいだったと記憶しているが、タクシーを使えば赤字になってしまう。僕のようにバイクで来ている者はいいが、電車の人はつらそうだった。

当時は、フジテレビが「オールナイトフジ」という深夜番組をヒットさせたことで、各局とも似たような番組を土曜日の夜に放送していた。生放送というのがポイントで、お色気などもあるというところが共通していた。

ただ、これは得したなと思ったのは、番組のゲストが伊丹十三だったことだ。ちょうどこの日は「お葬式」という伊丹氏の監督デビュー作品が封切られた日で、宣伝を兼ねての登場だった。生の伊丹十三を初めて見た。背の高い、かっこいい男性だった。話は映画「お葬式」の脚本を書いた万年筆の話だったことを覚えている。

このサクラの観客仕事を誰からどういう経緯で引き受けたのか忘れてしまったのだが、帰り際にギャラをもらった。茶封筒に千円札一枚。それをくれた男が、

「テレビ番組の制作に興味があるなら、今度ウチの事務所に遊びにきてよ」

と名刺を渡してきた。ちょうど僕も無職の時代、翌週、すぐに出かけていった。場所はどこだか忘れてしまったが、六本木か赤坂あたりの雑居ビルの一室だった。狭い事務所に40から50くらい、当時の僕からすると父親くらいの年齢の男性が2名ほどいた。ひとりは先日、名刺をくれた男だ。

「この前のような公開の番組の客集めをやっているんだけど、友達とか呼んでくれないかなぁ。頭数でお金を払うから、そのほうがいいでしょ」

男がそう言う。そのほうがいいというのは、自分が行って千円をもらうだけの仕事よりは、何人か集める方がもっと金になるということだ。たしかひとりあたり300円とかそういう金額だったように記憶している。ちなみにテレビ業界などで、こういうエキストラ的な人を集める仕事を「仕出し」と言う。ここの事務所は仕出し屋さんだったのだ。ただ、そんなことはあとから知ったことであり、当時の僕にはそういうことはよくわからなかった。返事を渋っていると、奥からもうひとりの男が

「放送作家とか興味ない? ウチも制作に関わっているから、もし放送作家になりたいなら、まずはこの仕事から手伝ってよ」

と言われた。放送作家かぁ。そういう仕事もあこがれるよなぁ。よし、じゃやってみるか。というようなことを言うと、

「そう、じゃ今週の『ミッドナイトin六本木』から頼むよ」

と言われた。放送作家になるぞ、そんなことを思いながら、僕はこの仕出し屋の仕事を全力でやった。知り合いに電話をかけまくって、「公開放送見に行かない?」と誘ったのだ。もちろん、伊藤秀樹(北尾トロ)にも声をかけた。

テレビ朝日の番組が中心だったと思うのだが、年末のお笑い特番から、年が明けてもまだ仕出しの仕事はやっていたと思う。

最初のうちは、会社の人がギャラを届けてくれていたのだが、そのうち事務所までいちいち取りに行かなくてはならなくなった。僕に全額が預けられるというわけではなく、エキストラひとりひとりがその会社に行かなくてはならないのだ。前述したようにギャラは千円や多くても千五百円くらいだ。わざわざ交通費と時間をかけて取りにいくのは面倒だということで、行かない人も多くなってきた。

そして、寒い日だったと記憶しているから2月頃だろうか。ギャラを受け取りに会社に行くと、なんだか様子がおかしい。ドアを開けると、なにもないガランとした部屋であった。瞬間、やられたと思った。もぬけの殻である。僕は人集めをしたギャラがすべてパァになり、放送作家になるという夢もここで終了した。まあ、冷静に考えれば、仕出し屋さんの元で働いていて、放送作家になれるはずもない。が、まだ20代も半ばの僕にはそんなことはわからなかったのだ。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった