2009-09-28

無職になり、失業保険をもらうこととなった [下関マグロ 第9回]

雑誌『スウィンガー』の編集長である佐々木公明さんが、電話をくれた。

「増田くんも独身でどこで、ちゃんとご飯食べてないんじゃないの? たまにはウチにきなよ」

佐々木さんは新婚で、同じ会社の女性と結婚していた。だから、僕は両人を知っているのだ。家をきけば、歩いていけるほどの距離ではないか。

約束の日、佐々木さんの家に行くと、スーさんもいた。かつて一緒に暮らしていたスーさんである。彼は今、落合に住んでいると言った。

佐々木さんの奥さんの手料理をいただきながら、スーさんになにをしているのかと聞けば、

「失業保険をもらっているからなにもしてないよ」

という答えだった。

ほっほー、失業保険かぁ。それもいい。以前、僕らがいた小さな出版社は、ちゃんと失業保険を支払ってくれていたのだ。だからそれをもらわない手はないとスーさんは言う。

もっと詳しく知りたくて、僕はスーさんにあれこれと質問した。スーさんは、栃木訛りの早口な言葉で説明してくれる。

「職安では、まず大人数で話を聞き、それから個別の面接があるんだよ」

今はハローワークという名称だが、当時はまだ「職業安定所」であった。通称、「職安」である。失業保険をもらいながら、職をさがすというのがその役割だそうで、そういうこともこのとき初めて知った。

「やりたい仕事を絞るほうがいいみたいだよ。僕の場合は〝編集〟がやりたいと言ったんだけど、そうすると『そういう仕事はこちらに求人がないんで自分で探してください』というわれるんだ」

ほっほー。僕は身を乗り出して聞いた。

「ヘタになんでもやりますなんて言うと、いろんな会社の面接に行かされたりして大変だからね」

なるほど。

「でも、バイトとかできないんでしょ」

「そんなことないよ。たとえば、ちょっと原稿を書いて原稿料をもらったっていうような場合には、それを申告すればいいんだよ」

この言葉に僕は、無職になることを選択するのだ。さらに結果からいえば、この期間があったから、僕はフリーライターになったといってもいい。今から思えば、このときが僕の人生のターニングポイントだった。

さっそく僕がやったのは、家に帰って、失業保険の書類を探すことだった。たしか、会社を辞めるときに経理の人がくれたはず。3畳の部屋のいろいろなものの下に書類はあった。あとはこれを持って職安に行けばいいのだ。

季節は夏だった。僕は広告代理店ハリウッドの葛飾社長に会社を辞めたいと言い、それはすぐに了承された。

最初に職安へ行った日は、1984年の9月26日(水曜日)であった。なぜこんなにくわしい日付がわかるかというと、昔の手帳が出てきて、それを参考にこの原稿を書いているからだ。それによれば、9月25日の欄に給料と書かれている。つまり僕は9月25日に給料をもらって広告代理店ハリウッドをやめ、翌日には職安に行っているのだ。

当時の記憶をたどってみると、職安でのやりとりは、まさにスーさんに聞いた通りだった。大人数で話を聞き、個別で面接をする。最初に行ったときに希望の職種を紙に書かされた。僕はそこに迷わず「編集」と書いた。個別の面接では、係の人から、予想通り、そういう求人はないから自分で探してくれと言われる。最後に書類を提出すると、その期間の失業保険給付の手続きが終わる。保険金は銀行振り込みであった。人にもよるが、僕は3ヶ月ほど失業保険が出たはずだ。金額はよく覚えていないのだが、給料をもらって働くよりは安く、なにもしないでもらえるとしては実においしいという金額で、たぶん月に10万円前後だったのではないかと思う。

職安では正しい申告をしないと大変なことになると脅された。大人数で話を聞くときは、たいてい不正受給の話が中心なのだ。こっそり働き、そのことが発覚すると、もらった保険金の3倍の額を返済しなければならないし、この先10年間は失業保険を得られないという罰則があるのだそうだ。そして、発覚するほとんどのケースがタレコミからだそうだ。

「今日もそういう電話が職安にはたくさんかかってきます」

係の人がそう言ったのを今でも覚えている。だから、たとえば引っ越しの手伝いをしてお金をもらった場合などは、ちゃんと申告するようにと言われた。もちろん、これは当時のことなので、今は規則が変わっているかもしれないが、若い僕にごまかしてはダメだという気持ちを強く植え付けるには充分であった。

僕はこの期間に、ライターか広告代理店の仕事をやって、それでも得た収入はちゃんと申告しようと考えた。ただ具体的に何か仕事が決まっているわけでもなかったので、生活を切り詰め、この3ヶ月で自分の人生の方向を決めようと考えていた。

そのためにも名刺は必要だった。手帳によれば、同じ週の金曜日に名刺を受け取っている。名刺の肩書きは「オフィスたけちゃん」。自分の名前をもじってつけた会社名である。何でも屋、便利屋という意味でこの名刺を作った。僕はさっそくこの名刺の一枚目を広告代理店ハリウッドの葛飾社長に渡した。
「なんだかラーメン屋の名刺みたいだなぁ」 と言われたのを覚えている。

伊藤秀樹やら他の人たちにも名刺を渡したし、とにかく会う人ごと名刺を渡した。時には、あるとき東中野の書店でエロ本を立ち読みしている女性がいた。おもしろそうな人だと思い、その女性が書店を出たところで声をかけ、名刺を渡した。今から考えればワケがわからないが、とにかく新しく作った名刺を人に渡したかったのだ。

そして、1984年の手帳によれば、10月1日の月曜日に伊藤秀樹の引っ越しを手伝った。僕は伏木くんとともに吉祥寺の駅にいた。伏木くんは伊藤秀樹のことを「伊藤さん」と呼ぶ。前述したようにパインから「伊藤ちゃん」でいこうと言われていた僕は少し混乱していた。そこで、僕が選んだ選択肢は「秀樹氏」であった。

とはいえ、この呼び方は僕もあまりしっくりきていなかった。そんなわけで、新居へ行くと、僕や伏木くんなんかが住むところよりはワンランク上の住まいである。風呂があるのだ。やはり、バンバン稼いでいるフリーライターは違うなぁと実感した。とはいえ、引っ越しは赤帽に頼んだとかで、荷物も少なく、すでに部屋に運び込まれ、手伝うことなどほどんどなかった。

僕はオフィスたけチャンの名刺を渡し、冗談めかして失業保険の話をした。

「たとえば、引っ越しの手伝いとかで、お金をもらっても申告すればいいんだから」

伊藤秀樹は苦笑いをしながら、

「金は出せないけど、せっかく来たんだから、蕎麦でも食べてってよ」

と近所の蕎麦屋から蕎麦をとってくれた。天ぷら蕎麦がよかったが、そういうことは言えず、もり蕎麦をすすった。しかし、おもしろいもので、このときに食べた蕎麦というのが、人生でもいちばん旨い蕎麦だった。

この連載が単行本になりました

さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。

昭和が終わる頃、僕たちはライターになった


著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった

電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。


著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]

目次など、詳細は以下をご覧ください。
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった