2010-06-21
スキー田舎紀行 [下関マグロ 第27回]
1986年の2月のことだった。
「ちょっといいかな?」
いつもの学研「ボブ・スキー」編集部で、ライターの細島くんに呼び止められた。
同年代の細島くんは、いつもスポーツタイプの自転車で編集部へやって来る、細マッチョで色黒な男だった。彼はライターでもあるが、「ボブ・スキー」では編集もやっていた。
編集部には社員の席以外にフリーのスタッフが座るデスクがいくつかあった。その日はフリーのデスクの一角に、細島くんだけが座っていた。僕が細島くんの前の席に座ると、彼はすかさずA4用紙を僕によこした。それは「スキー田舎紀行」と題された企画書であった。
「ボブ・スキー」はシーズン月刊誌で、年に7冊発行される。その頃は最初のシーズンが終わり、皆が次のシーズンに向けての企画をあれこれ考えていた時期だった。
「まっさんは、知らない人の家とか泊まるの好きでしょ」
「おお、そういうの好きだなぁ」
「なら、これやってよ」
僕の斜め読みによるとそれは、町営などの小規模でマイナーなスキー場へ行き、その周辺の民家にアポなしで泊めてもらうという2ページのシーズン連載だった。おもしろそうだったので、二つ返事で引き受けることにした。
細島くんは、もう一枚、企画書をよこした。そこには「滑雪人民月報」というタイトルがつけられていた。同じく2ページの企画で、こちらは今までやっていた読者ページのスタイルを変えた物だった。
こうして僕の次のシーズンのレギュラーページは決まった。どちらかというと、僕が楽しみなのは「スキー田舎紀行」のほうで、うきうきとその準備に取りかかった。
この企画のおもしろさは、ほかのスキー雑誌が取り上げないような小さなスキー場を紹介する点と、僕が見知らぬ人の家に泊まるという点にある。
今ならテレビでタレントがやってるような企画であるが、まだその当時は、ほかの雑誌でもそういうのをやっているのは見たことがなかった。
まずは新潟県から東北にかけ、各県ごとに小さなスキー場をピックアップし、その地元の観光協会などに電話をして取材を申し込んだ。
普通のスキー場取材は、カメラマン・ライター・編集者などのチームで、車に乗って出かける。しかしこの企画では、僕が一人でカメラを抱えて電車に乗って、各スキー場を巡ることになった。スキー場取材に電車やバスを乗り継いで行くというのは、珍しかったというか、あり得ないことだった。
泊めてくれるお宅への謝礼は図書券1万円分だった。学研から7万円分の図書券を貰い、バッグに詰めながら、これをなくしたら大変だぞと思った。そして大量のモノクロフィルムとカメラを抱えて取材旅行に出たのが3月の半ばのことである。
僕がまわったのは、新潟県松之山町の「松之山温泉スキー場」、新潟県笹神村「五頭高原スキー場」、山形県白鷹町「白鷹町営スキー場」、山形県戸沢村「国設最上川スキー場」、山形県八幡町「升田スキー場」、秋田県皆瀬村の「子安温泉スキー場」、岩手県湯田町「町営湯田スキー場」の全部で7箇所。これらはいずれも当時の名前で、現在では閉鎖されているスキー場もあれば、経営母体の村や町そのものがなくなっていたりもする。
ひとりきりの気ままな取材旅行は実に楽しかった。10日間で宿泊しながらスキー場を7箇所まわるというタイトなスケジュールだったので、一箇所の取材が終わるとすぐに、次のスキー場へ移動した。事前に得ていた情報はほとんどなく、すべて現地で歩きながらの取材だった。目につくものはどんどんカメラで撮って、あれこれメモをした。
泊めてもらう家探しには、意外と困らなかった。その土地の名士のような家に泊まれたこともあれば、観光協会の人が仕方なしに自分の家に泊めてくれたりもした。
ある村では、同年代の男性の家に泊まった。そこへ友人たちがやってきて、ギターを引きながら大声でフォークソングを歌った。こんな夜中に大丈夫なのかと聞けば、「なぁに隣の家は1キロ先だから大丈夫だぁ」なんて言われた。
またある村で泊まった家は古く大きな家で、小学生の男の子供が2人いた。たった一晩泊まっただけなのに、僕は子供たちとすっかり仲良しになった。翌日、朝ご飯を食べたあとも、近くのバス停まで見送ってくれた。バスが動き出すと、その子たちは、こちらが見えなくなるまで走って追いかけて手を振ってくれた。このときは、なんだか泣けて泣けてどうしようもなかった。
ちなみに僕はこの企画で「高杉マグロ」という名前を使っていた。そのペンネームのおかげで、ある家では、「こいつはマグロが好きなんだろう」と気を遣われ、わざわざ近所のスーパーで刺身のマグロを買って出してもらった。しかし、人口の少ない山間部の小さな店で売られているマグロである。鮮度も悪く、おいしくなかった。
しかし、心づくしのもてなしなのだ。食べられないと言うわけにもいかず、全部平らげた。その味が忘れられず、僕はそれから長いこと、マグロを口に出来なかった。
取材旅行の前半は、主に謝礼の図書券をなくさないようにと神経を使っていた。しかし後半になるにつれ、さまざまな出会いの思い出とともに、取材メモとフィルムのほうが重要になった。
すべての取材を終え、越後湯沢駅のホームの公衆電話から、「取材を終えたので、これから帰ります」と編集部に報告した。
一仕事が終わり、ホッとした気持ちで新幹線に乗り込んだ。 が、そのとき、自分が取材メモを持っていないことに気がついた。
さっきのホームの公衆電話に忘れてきたんだ。青くなり、すぐに次の駅で降りて、越後湯沢駅に戻った。
幸い公衆電話でメモを発見したが、その日の東京行きの新幹線はすでに終わっていたので越後湯沢で一泊した。
翌日やっと東京に戻ると、すぐに学研へ行き、撮影した大事なフィルムを編集部に渡した。部員のひとりが、「何本か電話がありましたよ」と笑いながら言う。
「お宅の会社から取材にきたという人物がうちにいるのですが、本物ですか?」というものだったらしい。無理もない話しだが、僕は苦笑いした。
記事を良いものにするため、編集と相談し、個人的に好きだったイラストレーターの町支哲義さんに、僕のキャラクターを描いてもらうことにした。
おかげでとても良いページになったと思う。この仕事で僕はまた少し、ライターとしてきちんと仕事をやっていけるという自信をもらったような気がする。
この連載が単行本になりました
さまざまな加筆・修正に加えて、当時の写真・雑誌の誌面も掲載!
紙でも、電子でも、読むことができます。
昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
著●北尾トロ、下関マグロ
定価●1,800円+税
ISBN978-4-7808-0159-0 C0095
四六判 / 320ページ /並製
[2011年04月14日刊行]
目次など、詳細は以下をご覧ください。
◎昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
電子書籍版『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』も、電子書籍販売サイト「Voyager Store」で発売予定です。
著●北尾トロ、下関マグロ
希望小売価格●950円+税
ISBN978-4-7808-5050-5 C0095
[2011年04月15日発売]
目次など、詳細は以下をご覧ください。
◎【電子書籍版】昭和が終わる頃、僕たちはライターになった
[...]
[...] 1987(昭和62)年、4月1日に国鉄が民営化され、JRグループとなった。<スキー田舎紀行>の取材をした3月はまだ国鉄だったが、原稿を書くときには「JR」と表記したのを覚えている。 [...]
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[...] 秋が深まり、『ボブ・スキー』の仕事が忙しくなってきていた。ある日、編集長の福岡さんに呼ばれて学研へ行くと、スキー小説をシーズン連載しないかという。 [...]