2010-07-12

田中康夫&亀井静香・演説

●題名のない演説会●
弁士:田中康夫&亀井静香
日時:7月7日14:45~
場所:吉祥寺

yassy

2010-07-11

逢えばHAPPY! 饗庭直道・演説集

AEBA3
AEBA2
AEBA1

2010-07-05

鳩山邦夫・元総務相と邂逅

17:30から渋谷ハチ公前で
幸福実現党の街宣に耳を
傾けていた( ^^) _U~~

「逢えばHappy」あえば直道・候補や
学生・若者の演説を聴く(^u^)

18:50ごろに新党改革のうみじ候補と
鳩山太郎候補と鳩山邦夫・衆院議員が
やってきた(>_<)

鳩山邦夫さんとツーショット写真を
パシャリ(;一_一)
「従兄弟のハトコは坂本龍馬」の
鳩山邦夫さんと邂逅したので、
これで「私の友達の友達は坂本龍馬」???

2010-06-25

ドミニク=ドヴィルパンさんの著書を購入する

畏敬申し上げるフランス共和国のドミニク=ドヴィルパン前首相&元外務相とは交換書簡が昨年11月から始まった。6/19の新党『連帯共和国』結成に寄せて、手紙をしたため、御送り申し上げたところ、昨日、感謝のメールを頂いた。パリのベルトラン=ドラノエ市長とも交換書簡を続けており、今月上旬にパリから御手紙が届いた。

フランス語の勉強と学究を兼ねて、ドミニク=ドヴィルパン師のナポレオン三部作とナポレオンの至言集、シャルル=ドゴールの演説集をまとめてAmazon.frで購入した。

輸送費がもったいないので、半年ほど購入リストに書き添えてきた本を、一気にまとめて、輸入する。私はナポレオン=ボナパルトに最近、ハマッている。

個人的には、ルイ=ナポレオン=ボナパルト(ナポレオンⅢ世)が好きだし、関心があるのだが、邦訳された文献が少ないので、研究は浅い。

書棚からドラッカーのサイン本が見つかる。

書棚を整理していたら、ありし日のピーター=ドラッカーからサインを頂いた「未来への決断」を発見する。『芭蕉-詩的実存』も探しているのだが、見つからない。

とりあえず、なんとか発見したのが大泉実成さん著『麻原彰晃を信じる人びと』だ。こんにちにおいても読みごたえがある。大泉さんは続編を出す予定で、原稿もすべて書き終えていたのだったが、世に出ることはなかった。

2010-06-13

墓場を住まいとする男か、2000匹の豚か。

本日の主日礼拝式@頌栄教会では、福音書朗読の箇所は『マルコによる福音書』5章1節-20節であった。

ゲラサ人の地方のレギオンという男の話である。今日に照らして、示唆に富む内容のように思われた。

レギオンは「汚れた霊にとりつかれ」ていた。家もあり、家族もいる。だが、それ故だろう、「墓場を住まい」とするように追いやられ、ゲラサ人によって「足枷や鎖で縛られた」(4節)状態にあった。イスラエルの墓場というのは当時、ほら穴だったため、その中で暮らすこともできないことはなかったのだそうだ。もっとも、「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼(※レギオン)を縛っておくことはできなかった」(4節)。どうやら、共同体の人たちからも、家族からも疎んじられ、退けられ、遠ざけられていたようだ。

縛りなきレギオンは「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5節)。憤懣やるせない怒りや、孤独故の憂い・哀しみを声に出したのだろうか。自らを石打つ行為は、現代日本で論ぜられることのあるリストカットのような自傷行為に通じるところがあるように思える。周りばかりでなく、自分もが自身を護る味方ではなかった。

レギオンは、ゲラサ人の地方を訪れていた「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」(6-7節)。助けを求めるのでなく、放っておかれることを求めたのである。

しかし、イエスは汚れた霊をその人から解き放った。聖書の箇所を御読みいただきたいが、汚れた霊たちは2000匹ほどの豚の群れに乗り移って、湖になだれ込んでおぼれ死んだ………(つづく)。

2010-06-07

銀河鉄道の夜へ

銀河鉄道の夜へ

先日、イーハトーヴへ里帰りした。
帰郷した折には必ずといってよいほど見学する宮澤賢治記念館に行った。施設も三つに増えて、だいぶ、整備されていた。

宮澤賢治は北上川の“イギリス海岸”の石畳の上に寝そべって、物思いに耽ったという。街灯などほとんどとなく月明かりがたよりになる深夜、河岸に寝そべると、星々が美しく見える。河のせせらぎに耳を澄ましていると、銀河鉄道の汽笛が聞こえてくるようだ。

正統派指向というわけではないが、ワタシは賢治の作品で、『銀河鉄道の夜』がもっとも好きだ。たいてい黙読するのでなく、朗読CDで作品を聴く。なんとなもいえぬ切なさを覚えるのは何故だろうか。わたしよりも先に、天に召された知人・親族・友人の顔が浮かぶ時もある。

嗚呼、カムパネルラよ、ジョバンニよ。

2010-05-29

綿貫民輔「国民新党」最高顧問を早慶戦で御見かけする。

本日は神宮球場で早慶戦を観戦した。
『外苑前』駅A3出口を出ると、「報復実現党」ならぬ『幸福実現党』のドでかい街宣車がとまり、上方より弁士が大音量で演説をしているところだった。
内野席入り口近くのキップ売り場には30分待ちはするであろう長蛇の列ができており、内野席はすべて完売、一般外野席は立ち見と書いてある。私は外野席側の売り場でチケットを買い求めて、多少の空きがあった慶應義塾大学の外野の学生応援席に行った。
球場は「満員御礼」に近い状態であった。
優勝決定戦というよりは、早稲田大学先発の「ハンカチ王子」人気故なのだろう。

わたしはフェンスに限りなく近い席に陣取った。

試合の途中で、ふと 隣の列を見ると、学生に交じって、慶應義塾大学卒の綿貫民輔「国民新党」最高顧問が御夫婦で座っているではないか。慶應・攻撃のときは、応援席の観客は立ち上がるのだが、御高齢ということもあろうか、それともじっくり試合を観戦したいからであろうか、綿貫先生は座って観戦しておられた。

七回の応援歌「若き血」や試合後の「塾歌」斉唱のときは立ち上がり、歌詞カードも見ずに元気よく歌われた。塾歌を三番まで暗唱されるとは「愛塾心」が強いにちがいない。
お偉い席で観戦するのでなく、御忍びっぽく、学生に交じって、観戦している姿には感心させられた。

最終回のピンチを乗り切り、2対1で慶應が勝利した。ハンカチ王子が敗戦投手。

今年のドラフトで注目されているというが、はたして、プロで活躍するのか。
心許なく思われる。

2010-05-04

三島由起夫×美輪明宏×増村保造×若尾文子

 ゴールデンウィークはツレアイと芝居と映画を鑑賞した。

 まず、三島由紀夫・原作、美輪明宏・演出&主演の芝居をル・テアトル銀座で七年ぶりに観た。2003年に観たのは『黒とかげ』、今回は『葵上 卒塔婆小町』。BOX席のチケットがとれたのは幸いだった。二作が終わると、一階席の観客のほとんどは立って拍手喝さい。機会があれば次は美輪様の『椿姫』を観ようと思う。美輪様にBisous.

 池袋の新文芸座では『鬼才・増村保造×若尾文子』特集が催されたので、『妻は告白する』、『清作の妻』、『赤い天使』を観た。1961年につくられた『妻は告白する』は戦後映画史に刻印されてしかるべき傑作だろう。

 この年代の日本映画がゴダールを旗手とするヌーヴェル=ヴァーグに大きな影響を与えた。フランス近代映画史ではよく知られた話だ。2005年のイースターの折、パリ市内で増村保造・特集が催されたが、ワタシはデンマーク・オランダ・ベルギーに出張中で、観そびれてしまった。

 増村保造は鬼才というより天才だらう。

2010-04-08

亀井静香・金融相よ、平成の大塩平八郎たれ

国民新党の亀井静香・代表はエルネスト=チェ=ゲバラと大塩平八郎を「心の師」と仰ぐ。
はたして、亀井静香・金融相は「平成の大塩平八郎」になれるのか?
藤井財務大臣の横やりを「財務大臣は自分の仕事だけをやっていればよい」と一蹴。

静香大臣の大塩評。

「(大塩の乱の)檄文を読むと、身が引き締まります。農民は飢饉にあえいでいるのに、奉公と商人が組んで、米の値段を釣り上げている。不正を犯す『奸者』と暴利をむさぼる『奸人』ということで、『奸者』『奸人』という言葉が出てくるわけですが、これなどいまの時代にもぴったり当てはまるのではないでしょうか。

 奸というのは、正道を犯して悪事をなすことなのです。そういう『奸者』『奸人』のやり方というものは、『万物一体の仁』を忘れた者の所業で、『誅伐』する-罪のある者を討って攻め滅ぼす-のだと、大塩平八郎は檄文に書いています。

 彼自身、幕府の役人であったわけですから、自分たちが少々暴れたぐらいでは、幕府はびくともしないということは、わかっていたのです。わかっているけれども、民が苦しんでいるときに、これだけの米があるのに(奸人が値を上げるために市場に出さなかった)、それをそのままにしておくことなど、到底できないということで、決断したのです。

 大塩平八郎は、乱を起こすことによって、幕府を倒し、国全体を救おうとしましたが、かなわなかった。けれども、一人の人間として、とにかくできることを精一杯やるという生き方をした」

恐れず ひるまず とらわれず
金融を変える 日本を変える
亀井の乱に力を!

2010-04-07

清弘マリア様Ⅱ

で、清弘マリア様とワタシの関係は
同じ教会に通うクリスチャンという
ことだ。

ユニークそうで可愛い子だし、
声もいいし、モデル(mannequine)に
なれるように御恵みと憐れみに富みたまふ
御座い天の父なる神様に主イエス=キリストの
御名を通してお祈りいたします。

♡アーメン♡

ちなみに、こんど、一世を風靡した女優の
小橋めぐみさんにインタビューする。
楽しみだ。

2010-02-19

ドヴィルパン前首相が多国籍軍のアフガン早期撤退と民生支援による復興を提言

フランス共和国のドミニク=ド=ヴィルパン前首相はパリ政治学院で催されたシンポジウムにパネリストとして参加して、「フランスは(多国籍軍の)アフガニスタン撤退においてイニシアティヴをとるべきだ」と発言した。
「アフガニスタンにおける軍事介入はこんにち、それ自身が問題となっている。軍事による平定というのは不可能に近い。駐留軍を増派すればアフガンの安定化につながるというのは幻想にすぎない。私が信念として心掛けてきたことは反対派をある程度の数は(議論や政策過程に)加えることだ。カルザイ政権も幅広い勢力から人材を登用すべきで、現在、アフガン情勢は悪化の一途をたどっている。アフガニスタンの軍事的介入は一刻も早くやめて、経済的・社会的領域で金銭的援助することがアフガン復興に向けた第一歩だ」
 ヴぃルパン前首相はこのように述べ、多国籍軍のアフガン早期撤退を促した。また、
「もしもカルザイ政権が自らの責任・責務を完全に負わなければならないと知るならば、その政治は『和解』に基づく『開かれた』真の政治に必然的になるだろう。現在は各民族・各政治勢力が反目し合っている。それではアフガンに平和は訪れない。タリバンを買収していくという現在の政治のやり方は効果的ではないし、道義やモラルにもとる」
 と述べ、国民的和解なくしてアフガンの復興なし、との見解を示した。
「イランやインド、パキスタン、ロシアの隣国は、アフガニスタンのカオスで国益を失している」「アメリカ合州国だけでアフガンの安定と復興を果たすことはできない。」
 と述べ、アメリカ中心の復興策の限界を指摘し、非軍事的な民生支援をするのが国際社会の責務であり、効果的な政策だと述べた。
 安全保障に詳しいジャーナリストの庭田悟氏はヴィルパン前首相の提言について、
「軍事に依らない民生支援は中村哲・代表の『ペシャワール会』がやってきたこと。日本政府は『ペシャワール会』を人材や財政の面で支援すべきでしょう。先進国は不安定な地域を平定するには軍事力が必要不可欠と考えている。国境なき医師団は『人道的なものは軍事的でなく、軍事的なものは人道的ではないのです』という理念を掲げています。日本政府が率先して民生支援をすることで、非軍事的な行動こそがアフガンの安定化につながるということを世界にアピールすべきです。それが日本国憲法九条を持つ国の責務でしょう。」

2009-10-01

自我作古「彼を知り己を知らば……」 ~中華人民共和国・建国60周年を迎えてⅡ~

 一九九三年11月5日から夏期バカンスを除く毎週末に筑紫哲也さんが欠かさず発表したコラム『自我作古』(『風速計』の場合もあり)を読み返す日々が続く。
 中華人民共和国の民主化について考えるヒントは第371回「彼を知り己を知らば……」にあるように思う。引用する。

☆☆☆☆☆☆

 世界初の大学が建てた平和博物館とされる「立命館大学国際ミュージアム」(京都)がリニューアルされたのを機会に、そこを再訪した。

 もともとよくできた博物館だが、初心者に興味が持てるような工夫(「きっかけ展示」)や、展示だけでなく、さらに詳しく知りたいと思う者への情報を辿る回路を設けるなど、さらに改善が加えられている。

 世界中には、互いに連絡を取り合っている平和博物館がおよそ一〇〇あるが、その半分は日本に在るという。これは誇っていいことだと思うが、「平和ボケ」とか「一国平和主義」とかの罵りことばで「日本特殊」を咎める風潮が強まっている昨今では、「平和」を展示することは容易ではなく、展示の仕方にも工夫が要る。世界中を覆っているのは、兵器を陳列したり、「われ戦えり」と勝ちいくさを強調する戦争博物館や記念建造物(モニュメント)の類である。

 工夫が要るのは、博物館の展示方法だけではない。

 もともと、戦争と平和は表裏一体を成しており、「平和のため」を掲げて行われなかった戦争は滅多にない。しかも博物館や記念碑で象徴されるように、平時においても「戦争文化」は「平和文化」に対して圧倒的に優勢なのである。さらに皮肉なことに、このせめぎ合いのなかでは、「平和(文化)」を守る側も、そのために「戦う」ことが求められる。もちろん、平和的な方法によって、ではあるが---。

 ではどう戦うか。その場合、もっとも心すべきことは何か。

 表題のことばは、戦争文化が全盛のころの日本人ならばだれでも知っていた、孫子のことばで、「百戦殆(あや)うからず」と続く。敵と味方の状況をよく知り、把握して戦うならば、いくら戦っても負けることはない、という意味である。ナポレオンも今の中国を創った毛沢東も「孫子の兵法」の愛読者だったが、彼らはこの有名なことばの次に続くのが何だったかも知っていただろう。

「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」---敵側の実情がわからず、自分の方だけ知って戦う場合は勝敗の確率は五分五分。

「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆(あや)うし」---敵の様子も、自分たちの能力もつかんでいないで戦う場合は勝てる見込みはない全くない。

 「孫子の兵法」は、「戦争文化」が生んだ作品、それも傑作のひとつと呼んでいいものだろう。「平和文化」の側に身を置きたいと願う者がそれを援用する場合には、よほどの用心と咀嚼(そしゃく)力とを備えなくてはいけない。「平和のために戦うぞ」というシュプレヒコールに何の矛盾も感じないような鈍感さであってはならない。

 「戦争文化」の常として、孫子は「敵」(彼)と「見方」(己)を峻別するのだが、それを超えて大事なのは「知る」ということの意味だと思う。「戦争文化」を「彼」、「平和文化」を「己」とする場合、相手の心理過程と実力を「知る」ことも大事だが、「彼」と「己」との距離、相違を「己」のなかで「知る」(確認する)ことはもっと大事だ。貪欲、無知、無関心、強がり、自己陶酔、既成観念や大義への安易な寄りかかり---相手と同じものが「己」のなかにないか。立命館大学で、「平和」に関心のある聴衆を前に、私はあえて「あなた(私たち)の心が戦争を起こす」という話(講演)をした。
【2005.6.3】

☆☆☆☆☆☆

 中国に限った話だけではない。
 官僚(彼)を知らず自分の能力(己)を知らないで戦う場合は、「勝てる見込みは全くない」。前原誠司・国交相や岡田克也・外務相の動向を追いながら「殆(あや)さ」を覚える。
 しかし、「君子(くんし)危うきに近寄らず」という故事に倣って(君子と自分は程遠いが)、静観しよう。いずれは書く。

 最後に、田中康夫「新党日本」代表と筑紫哲也さんのいざこざをあげ、故人を攻撃する文が散見しているので、もの申したい。

 田中康夫さんが「筑紫哲也のNEWS23」をボイコットしていた折にも、筑紫さんはそれを承知で、コラムで康夫さんを応援した。2002年夏のことだ。

 2006年春、フランス共和国から帰国したばかりのころに参加したあるパーティーで、田中康夫・長野県知事(当時)が筑紫さんに丁重にご挨拶され、談笑する二人を見て、微笑ましさとともに、安堵感を覚えた。康夫さんはいまでは、故人の遺志を継ぐ“筑紫ジャーナル”門下生の一人ではあるまいか。ちなみに、康夫さんが加藤周一さんと最後にお会いしたのもその会だ。

 康夫さんが帰られた後の光景が今も目に浮かぶ。

 パーティー会場外にある庭園の椅子に加藤さんと筑紫さんが座られ、春にしては強い陽射しのなかでお二人が話し合う。筑紫さんも加藤さんも真剣な雰囲気だった。談笑とはとても似つかわしくない雰囲気だった。そんな時間が長く続き、筑紫さんが席を立ち、帰途についた。

 筑紫さんと加藤さんが天に召されて以来、わたしはその光景を時折、思い返す。あの日、何を議論(論議)していたのだろうか。

 お二人が亡くなられてもうすぐ一年が経つ。
 そんな意識がわたしには芽生えている。
 上田耕一郎さんの死も忘れてはいない。

 今は身を 水にまかすや 秋の鮎

                        合掌

『私の家は山の向こう』~「中華人民共和国建国60周年」を迎えて~

 『有田芳生 私の取材ノート』(同時代社)に「さようなら、鄧麗君」というテレサ=テンの死を悼む一文が載っている。私にとっては中学3年生の時分(1995年)に買った思い出深い作品だ。

有田さんは書く。

「最後の出会いにとなってしまった仙台で、彼女は、いつものように左手でVサインを示して微笑んでいた。私は鄧麗君に約束したように、彼女の人生を書くこと、そして彼女の思いを一人でも多くの人たちに伝えることで、時分なりの責任を果たしたい。

 一部の週刊誌などが、鄧麗君の死を興味本位に取りざたすることへの怒りを込めて、私は彼女の内面へと一歩でも歩み寄り、もはや本人自らが語ることがかなわない思いをできるだけ綴っていきたい。さようなら鄧麗君。あなたの澄んだ歌声は、私たちの心の中にいつまでも流れ続けている。もういちど、さようなら鄧麗君……。」(95年5月26日記)

 仙台という地名は魯迅が学んだ地であることから、中国人にとってはよく知られている。
 有田芳生さんは10年後の2005年3月30日に『私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実』(文藝春秋)を上梓した。労作を拝読し、1989念5月27日夜に香港のコンサートでテレサ=テンが歌った『私の家は山の向こう』(*原題は前掲著に刻まれている。CDが付いている)を拝聴して、「我愛民主」「民主萬歳」という故人の御意志が叶う日を切に念じ上げる。(つづく)

追伸1:天安門事件で学生には法国・国歌「La Marseillaise」を歌う者もいたという。たしかに、多くの国の民主革命で同曲が歌われた歴史がある。血なまぐさい「革命歌」よりも、美しい歌詞・旋律の『私の家は山の向こう』のほうが民主化を求める象徴に相応しい。

追記2:リヨネル=ジョスパン内閣(1997-2002)に外務相を務めたユベール=ヴェドリーヌ氏の来日講演を今年拝聴した。同氏は民主化を「内的なポテンシャル」に求められた。

2009-09-28

平成の大塩平八郎に「連帯保証人」制度の廃止を望む

亀井静香・金融相の地元秘書と電話で話したが、抗議の電話が多く来ているという。
いわゆる「亀井モラトリアム」「平成の徳政令」に反発は強いようだ。

昨朝のテレビ朝日系列『サンデープロジェクト』でも出演した亀井大臣は財部・榊原英資・田原総一朗から総批判を受けた。不況になると拝顔するリチャード=クーさんのみが擁護された。しかし、袋だたきにあいながらも、一歩も譲らず、まことに心強い。

この際だ。

民衆を苦しめる「連帯保証人」制度を廃止してはどうか!?
民衆は歓喜するであろう。

2009-09-24

ドミニク=ド=ヴィルパン前首相の悲劇

イラク戦争の開戦にフランス共和国外務相として反対して、国際連合や国際連合安全保障理事会などで活躍して、
「フランスの貴公子」として脚光を浴びたドミニク=ド=ヴィルパン前首相&元外務相はニコラ=サルコジ現大統領を
内務相時代に職権を濫用して失脚を謀ったことが主な理由で、刑事被告人の身にある。
わたしは事件当初から「ドヴィルパン冤罪説」「国策捜査説」を旗手鮮明に打ち出している。

歴史家・詩人としても評価されている教養と智性の貴公子・ド=ヴィルパンが不遇の身にあることには
心より同情を禁じ得ない。日本国が亡命先として名乗りをあげ、「外交顧問」に就いてもらっては
どうか……とふと夢想する。

ドミニク=ド=ヴィルパン首相が誕生したとき、当時肩書きのなかった
コリン=パウエル元国務大臣から

「真の友人であり、畏敬するドミニクが首相に就いたことを心から祝福いたします。おめでとう、ドミニク。」

という趣旨の祝電が届き、イラク戦争で二人が烈しくやりことを知っていたので、わたしは
正直、驚いた。ヴィルパン元首相を日本でも応援していけないか、在日フランス人の仲間と
相談している。

HES(同性愛と社会主義)

フランス社会党系列のLGBT団体『HES』(同性愛と社会主義)に
6月に入会した。洗礼を受けていないものの、教会に通い、
キリスト教プロテスタントのカルヴァン派から受けた影響は
否定できないため、イギリスを拠点とする組織だが、
キリスト教徒によるLGBTの団体にも加入した。
背教者と指弾されるかもしれない。

HESの年次総会が9月26日にあり、出席できない
ことと、新執行部を支持する書簡を送った。

ことあるごとに政治家としての手腕を高く評価してきたニコラ=サルコジ・フランス共和国第五共和制第六代大統領は公約で、同性愛者の権利を向上させるため、PACS制度を改正した『Super PACS』の導入を約束した。また、『同性愛者は人類の敵』と国会で演説した国民議会議員を2007年総選挙でサルコジ与党・UMPは公認しないと約束した。

しかし、公認はしないが、対立候補も立てず、地元議員が応援するなど、本質においては公認候補と大差なかった。
同議員が楽勝だったのは御承知の通りだ。
Super PACSも忘却の彼方へ……。

法国に滞在中、サルコジ氏と接する機会を何度か持ったが、同氏からはアジア系に対する嫌悪感とHomophobieを感じられた。

未曾有(みぞう)の経済危機をフランス・ドイツは脱したというのが多くのエコノミストの見方だ。
サルコジ大統領は優秀だ。しかし、“危うさ”も持ちあわせており、私はその点を指摘した。
大統領になってからも、同氏の体質は変わっていない。

新自由主義者だった同氏がリーマンブラザーズ破綻後、ネオ保護主義者に転向したのには驚かされた。
大英王国においては、opportunistと冠されるのか、pragmatistと冠されるのか。
経済政策においては、サルコジ氏は180度、転換したのに、初期から改革者として
変わらずに礼讃している人もいる。

全否定・全肯定でなく、部分否定・部分肯定をモノカキは心せねばならぬと
心に留めながらも、その戒を護れているか問われれば、答えに窮する。

2008-11-06

「梶山静六&亀井静香」と非戦の誓い

ウィキペディアの「梶山静六」元・衆議院議員の項に次のような話が載っている。

【梶山の長兄は太平洋戦争で戦死。長兄の「名誉の戦死」の報が伝えられた時、母は地元の人々とともに万歳三唱。梶山は母の行動を不可思議に感じたが、その後自宅土蔵の陰で号泣する母の姿を見つけ、母の心情を理解する。このような悲劇が二度と起こらぬようにと政治家を志したという。生前折に触れて「長兄の戦死を陰で嘆き悲しむ母の姿が私の政治の原点」と語っていた。この話を梶山から直接聞いた田中康夫は感銘を受け、「東京ペログリ日記」等でたびたび紹介している。】

「今は亡き茨城出身の政治家・梶山静六氏が幾度も僕に語ってくれた」話とことわって紹介するのだが、

「と記すと美談に過ぎぬ、と氏が田中角栄氏の懐刀だった事を知る向きは冷笑するやも知れぬ。
 だが、定見無き日本は、有視界飛行のグライダーであるべき。にも拘らず、数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ近時の若手政治家は、計器飛行のジャンボジェットに似て危うい。と語った氏の警鐘を、今こそ拳々服膺すべきではないのかな。」

と梶山先生の現在的意味を問う(http://spa.fusosha.co.jp/spa0004/ent_573.php)。

「戦士は死ぬ。しかし、思想は生きる」

カストロ議長はそういったが、梶山静六先生の思想を正統に継承されているのが、国会では田中康夫・参院議員だけなのが哀しく、やるせなく、しかし、さすが、ヤッシーだと感心させられる。

康夫さんの意見にまったく賛同である。

亀井静香先生の「戦争の記憶」を伺った時、梶山静六先生の戦争体験と共に、記録されなければなるまい……と思えた。
「戦争を二度と起こさない」。
その誓いは相通じる。梶山先生は「智性・勘性・温性」を持つ康夫さんの真っ当な感覚を信じて、語り手に選んだのだろう。戦争で体験・不条理を康夫さんには頻繁に語られたと聞く。康夫さんは梶山先生の意志を受け継ぎ、現在も、次世代への「遺言」を伝えている。

1945年8月6日、静香先生は7歳で、原爆の閃光を目にした。「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

美談に過ぎぬ、しょせん、『保身を優先する警察庁長官だよ』と亀井先生を揶揄する人もいる。数値を信じて疑わず、人間も現場も知らぬ赤松広隆・衆院議員が「民主党」選対委員長を務めておられる。野中広務「私は闘う」(文藝春秋)では非情の人として刻印するためだろうか、1995年末の社会党の新党結成プレ集会で、赤松広隆・衆院議員が「お前が委員長でいるから新党ができないんだ」と大声でヤジったと記されている(単行本・172頁)。 温厚な村山富市首相が「やれるもんならあんたがやったらいいじゃないか」と赤松を怒鳴りつけた。村山トンチャンが日本社会党委員長であり、赤松は役職もないいサラ議員だった。道理からすれば、赤松が「新党結成のために離党すればよかった」話だ。

亀井先生が赤松選対委員長と会談したエピソードは笑える。

【(8月半ばに)赤松が俺にさ、民主党と国民新党との選挙協力を提案してきたよ。料亭の座敷で交えてね、2人で話をした。あいつはいうんだよ。
「亀井先生、富山と広島ではウチは候補者を立てないから、全面的な御協力をよろしく御願いいたします」
私はこう応えてね。
「富山と広島ならば、どうぞ、おたくから全選挙区で、候補者を立ててみなさいよ。喜んで受けて立ちます。」
キョトンとしていたよ。話にならないと見限って、私は

「女将さん、決して、料理が不味いから箸をつけないのではありません。女将さん、どうか誤解なさらないでください。話が不味いんですよ」

といって、すぐに席を去った。赤松は終始、オロオロしていたよ。
まあ、選挙区調整は俺と小沢一郎で直接交渉することにしたよ。昨日も二人で一時間ばかり会って話をしたんだけれども、とにかくね、軽い気持ちでやったら、政権はとれないという点で一致している。「自公政権」をブッ倒すんです。自民党だけを問うているわけではないということ。国民新党にもね、公明党がすり寄ってきていますよ。よほど、焦っているのかね?民主党と国民新党の協力は俺と小沢でやるからさ。(笑)。まあ、見ていてくれ。】

亀井先生は現在の心中を、自身の短歌に託す。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

「静香」という名は女児につけられる。

「生まれたときに荒川静香さんみたいにさ、かわいくてきれいだったのよ(笑)」
「お袋が『静枝』だからね、その『静』をとって『香』をくっつけちゃったんじゃない」

と口にする(http://www.kamei-shizuka.net/media/2006/060510.html)。
その記事の小見出しには

【静香という美しい名前、好きです
美少女「静香」に会える!期待した兄の友達は駅で私を見て絶句した】

とある。

御本人に取材したからだろう。
「美しい名前」は「おふくろさん」からの最高のプレゼントだ……という夢想が強くなった。

2008-11-05

山本モナさんと原爆 ~愛に雪、恋を白~

亀井静香・衆院議員と山本モナさんの共通点は、広島県出身ということだ。
静香先生を被曝1世とするならば、モナさんは被曝3世にあたる。

フランソワ=ミッテラン師の最晩年について以前、書いた(http://www.pot.co.jp/oikenparis/mitterrand-2.html/)。

女性が愛に生きることを何で咎められようか……。

2008-11-02

「亀井静香&保坂展人」の絆 ~原爆と死刑廃止~

社民党・公認、国民新党・推薦。異色の組み合わせである。保革共存だ。

保坂のぶと(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/)さんの応援者として6人が写真入りで名を連ねている。

・小沢一郎(民主党・代表)
・土井たか子(社民党・名誉党首)
・菅直人(民主党・代表代行)
・亀井静香(国民新党・代表代行)
・福島みずほ(社民党・党首)
・山口文江(東京・生活者ネットワーク・代表)

亀井先生が名を連ねているので目を引いた。

保坂さんは次の総選挙では杉並区(東京8区)から出馬する。
対立候補は現職の石原伸晃「自民党」幹事長代理だ。
石原慎太郎・都知事が御寵愛する御長男である。
自分でも「親バカ」とおっしゃるほどだ。

慎太郎知事と亀井先生は入会に血判が必要とされた「青嵐会」以来の親友・同志である。慎太郎知事が自民党総裁選に出馬した時には清和会(三塚派)の決定に反して亀井先生は助太刀した。その結果、派閥を除名された。派閥より友情を大切にしたのだろう。

慎太郎知事が1995年に衆院議員在職25年を記念した演説で引退表明するのを事前に知っていたから、用があって退席しようとした野中広務先生を

「おい、ちょっと待ってくれ。彼の演説を聴いてやってからにしてくれ」

と亀井先生は引き留めたそうな。野中先生「私は闘う」に載っている逸話だ。

慎太郎知事の演説は実に見事だ。下野した自民党の政策提言『二十一世紀への橋』のほとんどを、慎太郎知事が1人で執筆されたんだとか。(同氏の御著書として『わが人生の時の時』 (新潮社)を私は推薦したい。)

都知事に就任された後、3人は定期的に料亭で会食するようになった。

大切に護ってきた御長男の対抗馬を推せば、御父上はお怒りになろう。

保坂さんと亀井先生は「死刑廃止を推進する議員連盟」を通じて知り合った。議連会長を亀井先生に要請したのがはじまりと聞く。

「死刑廃止を推進する議員連盟」では亀井先生が会長を務めて、保坂氏が事務局長として支えている。バリバリの改憲派と頑固な護憲派。ミスマッチに思える組み合わせだ。だが、2人は密かに敬い、絆を固くしてきた。

会長が自民党を追われても、亀井派から誰もついてこなかった。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

そんなやるせなさを抱いたのではないか。

「志帥会」会長の座にあった亀井先生は、「死刑廃止議連の会長が前面に立っているように思えますが……」という質問へ応答して、体育会系のノリで呼び捨てなのだろう、

「俺1人の力じゃないよ。保坂は真面目なヤツで、熱心に活動しているよ」

と語られた。2003年総選挙で保坂さんが落選する憂き目にあった折、
「次は亀井派から自由民主党公認で出ましょう」
と勝連太郎さんは笑い飛ばした。最高のユーモアだった。

亀井先生は事務所で油絵を描くことに時間を費やす。どちらかといえば、論理よりも、情の人だろう。ユーモアに溢れる親分だ。

保坂さんは資料マニアと呼ばれるほどに書類や本を多く読む。どちらかといえば、論理の人だ。真面目だ。真剣すぎる。実直の方だ。

亀井先生から今夏、お話を伺う機会を得られた。

師の根底には「人間へのやさしさ」がある。永遠のヒューマニストだ。

1945年8月6日が原点にあるように思えてならない。
静香先生は7歳で、広島にて原爆の閃光を見た。

「原体験」を次のように語る。

「私は小学生でした。広島県比婆郡山内北村という片田舎で、食料がなかったから、児童みんなで校庭に芋畑をつくるために、芋を植えていました。夏休みなのに、学校に行って、芋作りするために、校庭にたまたまいたんですよ。

山の向こうからピカーっと空に鮮烈な光が見え、キノコ雲が上がって、とてつもない地響きが伝わってきました。大変なことが起きたんだ……と幼心でも感じられました。

数日後、服も着ずに肌が焼け爛れ、逃げてこられた人が多くおられたのを現在(いま)も記憶しています。」

遺言と以下の通り伺った。

「親戚も被曝しました。私の姉貴が爆撃地近くの三次高等女学校にいたんですね。自分も被爆したとは知らなかったのでしょう。援助のため多くの女学生と一緒に爆心地へ通い続け、第二次被曝に苦しみました。

姉貴を亡くしたのは後年です。姉のクラスメートは原爆訴訟を起こしました。

出井知恵子さんは私と同じような体験を語っています。」

後日、知ったのだが、俳誌「茜」を主宰した俳人の出井知恵子氏は亀井先生の実姉だ。86年に白血病で逝去という。静香先生は姉2人、兄1人を持つ末っ子だ。生家には知恵子様が詠んだ

「白血球 測る晩夏の 渇きかな」

という句碑がある。

「まあ、原爆だけじゃなくてさ、東京大空襲や戦地で命を落とされた人を思うと、『一人殺そうが十万人殺そうが同じ』という戦争は永久に放棄されなければならない……と戒められる。神様が命令して、殺し合いをやらせているんじゃないよ。人間同士が利害衝突する中で戦争は起きる。」

亀井先生はこう語る。次の総選挙を「最後の決戦」と位置づける。

「何故に 心を魅かるる 桜花 咲くを惜しまず 散るを惜しまず」

現在の心中を自身の短歌に託す。

「キューバ革命」の指導者・チェ=ゲバラを「心の師」として仰ぎ、事務所に肖像写真を飾り、東京大学経済学部生の頃は「マルクスの亀井」と呼ばれることもあった静香先生が、ガチンコで「革命」を起こそうとしている。

次の衆議院解散を「亀井静香なる解散」と呼びたい。