当ブログの書き手である石田豊(享年54歳)は、2009年6月20日午前2時30分、逝去いたしました。 生前の皆様の御厚誼を深謝し、謹んでここに報告致します。
(ポット出版)

2009-04-30

[006]初めて泣いた夜

問診のとき、家族に癌にかかった人はいますか? 心臓病は?
という具合に訊かれる。遺伝的な要素があるからだろう。ぼくの場合も無論例外ではない。ぼくの父はぼくが18歳の時に喉頭癌で声帯の除去手術をおこなった。当時、国内ではなんでも数例目とかというリスクの高い手術を幼子かかえる若い父親に課したのは、それ以外では回復する見込みがなかったと判断したからに相違あるまい。

あの頃に我が家を充満していた重く厳しい空気を、ぼくはいまでも皮膚の感覚として、じっとり思い起こすことができる。

ぼくが肺癌になったのも、ある意味、父の子であったからでもある。

父は、その後もずいぶん長く闘病生活を続けた。結局のところ、いつ完全に「なおった」となったのか、ぼくは知らないんだけど、80をすぎる今でも元気(といいきっていいか)に生存している。

ぼく自身、きっと直るぞ、と無根拠に信じているのも、この父の子であるからという背景があるわけだ。

だから、母は、ある意味、癌看病のオーソリティーをもって自認しているところがある。

「そやろ。お父さんの時もそやったもん。苦しいんねてな。戻したり、痛かったりで。そやけどな、癌はだんだん小さくなるえ。ほんで、レントゲンとかでどれくらい小さくなったか、もう、見せてもうたんか?」

などと聞いてくる。

ぼくはそれまでに(いささか遠回し気味であったかもしれないんだけど)、転移した癌細胞は多数である、ということは何度も伝えてきたつもりだ。しかし、不都合な真実は(いつもそうだけど)彼女の耳にはなかなか届かない。

「いや。まだ見てないけど。でも、時間、かかると思うよ」
「そんなことないよ。今は医学も進歩しているし、お前の癌なんか、抗癌剤で一発でなくなってしまう、て」
「そやったらええねんけどな」
「若いねんから、いっそ切ってくれやらへんのかなあ」
「ようけあるからな」
「ぎょうさん、ゆうたかて、切って切れへんわけはないやろ」

「あのな。お母さん。PETって知ってるか」
「知ってるよ。お母さんもこないだしてもおたもん。もし癌があったら、そこがどこか写真に写る機械やろ。保険がきかへんから、ずいぶん高いよ」
「うん。こないだ、ぼくもそのPETの写真、せんせからちらっと見せてもおてん」

ぼくはそこでちょっと逡巡した。が、思い切って一気に言葉を続ける。

「胸からおなか、足のへんまで、ダルメシアンみたいになってたわ」
「だるま……?」

「ぼくらが小さいとき、お母さん、よおディズニーの映画、連れて行ってくれたやん」
「そやな。よう行ったな。ダンボとか白雪姫とか」
「101匹わんちゃんっていうの、あったやろ」
「うん。覚えているよ。ぶち犬が並んで雪の中を逃げる話やったやろか」
「あの犬がダルメシアンや」

彼女のイメージはその瞬間に完成したのだろう。電話口から息を飲む気配が伝わってくる。

「おまえ、なにいうてんの。あんなん、ぶちもぶち。ぶちぶちやないの」
「ああ。ああみたいに見えた。黒いとこが癌なんやて。そんだけあったら、さすがに切れへんやろ」

沈黙が少しだけ。

「かまへん。ウチが直す。お前の癌なんか、ウチが全部直す。お父さんの時かって、ウチがおがんでおがんで直したんや。ウチが直したげるしな。ゆたか。きのう、つとむ(末弟)が車だしてくれたから、狸谷さんにいってきて、護摩木たいてもおてきた。お不動さんはお母さんの守り本尊やし、お前の大日如来さんの別のお顔や。お前もしってるやろ。奥のお不動さんの目が、きらきらっと光ったえ。あの目が光った時は、願いは聞き届けてもらえるんや。前もその話、したやろ」

郵便局へいくまでに途中で一回休憩をしなければ膝が痛いという母が、あの狸谷不動の延々と続く石段を上っていったのだ。オレはいったい何をやっているんだろう。母親を苦しませ、悲しませて、何が嬉しいんだろ。

去年、切除手術の数日前に、ぼくのベッドに並んで腰掛けて、夫婦で泣いた夜があった。これは不安の涙であった。帰還を誓い合って、涙をふいた。それ以降。ぼくは泣いたことがなかった。中森明菜じゃないけど、泣くのとはどこか違うと思っていた。泣いてどうなるわけじゃなし。憐憫は力にならないしな。

今回転移の告知を受けてからも、別段泣こうなんて思いもしなかったし、実際涙も出なかった。

しかし、その時、ぼくはわかった。早く受話器を置かなければならない。そうじゃないとぼくは大声を上げて泣き出してしまう。おふくろの前で泣くわけにはいかない。それだけはしちゃならない。

「あ、誰か来たみたい。ほな、電話切るわ。ありがとうな、お母さん。つとむにもお礼ゆうといて。いそがしのになあ」
「あ、そか。元気出すんやで。お母さんがぜんぶ直したげるからな。お不動さんにも順番ちゅうもんがありますから、なにとぞなにとぞて、お願いしといたから」

這々の体でスイッチをオフにし、携帯をベッドに投げ捨て、ぼくは何年か、あるいは何十年かぶりに大声を挙げて号泣した。いつまでもいつまでも涙はとまらなかった。

病気というのが、または、ぼくの死というのが、何を意味し、何を意味していないのか。ぼくは何にもわかっちゃいなかったのだ。妻が、父が、母が、友人が、何を心配してくれているのか。何を悲しんでいてくれているのか、ぼくは何もわかってはいなかったのだ。

その時、ぼくはうっすらそれがわかったような気がした。