当ブログの書き手である石田豊(享年54歳)は、2009年6月20日午前2時30分、逝去いたしました。 生前の皆様の御厚誼を深謝し、謹んでここに報告致します。
(ポット出版)

2009-05-05

[008]Googleブック検索に警戒は必要ないのだろうか

理由はわからないけれど、脳の能力が著しく減退している。要は、入院の期間中アホになります、というモードに入っている。もしかすると、院内で処方されているクスリに、多少なりともそっち方向に脳をボケーとさせるクスリが入っているのかもしれない、と思わせるほどだ。

「逆かもしれないよ」
ベッドサイドの椅子でリンゴの皮を剥きながら妻はいう。
「アホになっちゃったんじゃなく、今まで気がつかなかった秘められた事実が、ようやく認識できた、ということなのかもしれないよね」

ま、ずっと苦労をかけてきた相手からの重い感想である。

ともあれ、しっかりモノを考えられない状況にあることに、ぼくはいま、かなり大きな焦燥を感じている。もしかすると、いま、ぼくたちの社会、日本の社会はとてつもなく大きな危機に静かに直面しているのではないか、と思えてならないからだ。

それはGoogleブック検索である。

それは何か。それこそこの語をググっていただけばガイダンス程度の情報はすぐにでも入手できる。要するに、世界中の本をスキャンして公開しちまおう、という計画である。いままでからも、「著作権の切れた本を電子化する」というプロジェクト・グーテンブルグなどの動きがあったわけだけど、今回のGoogleの作戦は、著作権だとか何だとかをいっさいぶっ飛ばす勢いで構想されている点が異なっている。

著作権が切れている本をどうしようと、そりゃこっちの勝手でしょう(青空文庫だってやってんだしね)、著作権(やその周辺の権利)が残っているものについては、無料では一部しか公開しないし、また、出版社や権利者にお金も払う、というように、権利の衝突を回避するように設計されている。

最初、このニュースは、対象の書籍が「大英図書館収蔵の全書籍」ということであった。個人的には、おそらく生涯、利用することなく終わってしまうかもしれないとは思いつつも、なんだか、胸いっぱいの感動のようなものを感じた。ここまで来たんだね。待ってたよ。

VIVA GOOGLE!

それが、対象の書籍の範囲がガシガシ増えていき、今では日本国内で発売されている本をも(出版社が希望すれば)、Googleが無料でスキャン、PDF化してくれ、一部をGoogleサイトの「Googleブック検索」というサービスで無償公開されている。

Googleの著作権者(元著作者や出版社)への気の使いようは、丁寧かつ慎重であるように見える(この件に関わらず、この会社の態度は、どこか資本主義的じゃないっていうか、宗教みたいな感じがするとか、いずれにしても、なんだか不可思議な雰囲気である。これについては、今後ゆっくり考えていきたい)。ただ、まずわれわれの枠組みに参加してくれ、参加した上で反対してくれ、というのは、論理としてヘンかもと感じるが、アホなので、じっくり追いきれない。

それに対して、日本の「日本文芸家協会」は米国で交わされた、著作権者団体とGoogle間での合意に抗議をしたりして、なんだか「反対」の姿勢を見せている。理由は、ありていに言えば、そんなことされりゃ、オレラ、儲からんやん、ということであるようで(そのあたりも、院内性突発アホ化症候群のぼくにはよく掴みきれていない)、そもそも著作権とは何なんだろうか、著作周辺権(たとえば出版権)とは何なんだろうか、それに対する課金の根拠とは何なんだろうか、みたいなラジカルな部分にはいっさい踏み込まないままの文句(ギロンじゃなくってね)であるような感じがする。

誠実に経緯をワッチしているわけではないので、無責任な岡目八目にすぎないが、幕末にペリーやハリスに交渉事への返事の要請に対し、あ、いえいえ、昨日には返事のための使者を差し向けたのでござるが、折も悪しくも、品川で夕立に遭い申して、引っ返したのでござる、みたいなにゅるにゅる外交の恥辱の歴史を想起してしまう。

にゅるにゅる外交でその日暮らしの交渉をつみあげてでっちあげた不完全な近代国家が、80ほどもたたぬうちに、当の相手国とどのような関係を持たなくならなくてはいけなかったか、なんて大袈裟なことも思い浮かべてしまう。

大袈裟っていうけど、ホントにそうだろうか。アホであっても、これはもしかしたら、そんな単純な問題じゃないんじゃないか、との危惧はヒシヒシと感じる。

文献資料とは何なのだろうか。著作権とは何なのだろうか。著作周辺権とは? 出版権とは?

著作権でお金がもらえるという権利が生じることはわかった。では義務、というものはないのか。著作として世に問うたものを、散逸しないように保護していく、保存していくという義務というものは存在しないのか? もしそれがあるなら、それを担うのは誰なんだ。

いろんなことが頭のなかを渦巻く。

少なくとも、この交渉の当事者が「日本文芸家協会」であるのが適切なのかどうか。それがそもそもの疑問であるし、いっぱんの新聞やテレビなどのニュースでほとんど言及されないところも不気味である。

とにかく、人類が延々と蓄積してきた文献データの膨大なアーカイブを、Googleという野心的な米国企業がデジタル化に着手し、営々とその作業を継続し続けている。Googleは、日本の出版社に対し、あんたらも自分でやったら、と提案している。Googleサイドの作業は出来上がった印刷物をスキャナで取り込み、それを逆にOCRで文字原稿に戻すという流れである。

いっぽう、大元の本を作った出版社には、OCRにかける必要のない、文字データから出発したスジのいいデータがある。ちゃんと時代の潮流に敏感な制作手法を身につけてさえいれば、Googleが提供しているデータくらい「別名で保存」コマンド一発で出来てしまったりする。

つまり、元版元が自分でPDF化するほうが、Googleにやってもらうより安くすむ。しかも、自分でやれば、それは自分のものだ。今後、他人にその使用方法をごちゃごちゃ言われにくくてすむ。しかし、それすら嫌という出版社が多いそうだ。

先日、平凡社が久しぶりに百科事典の改訂版をを発行した。しかし、そのデジタル版の発売はない。なぜなら、電子化の権利は日立が買い取ってしまっており、日立は(おそらく)百科事典の電子化という商売に、何の魅力も感じていないからだ。

それと同じかどうかわからない。100年後。世界の文献データのすべてが、Googleーバベル図書館ーサーバにどど〜んと収蔵されており、世界各国には、その図書館に納入することだけを業務にしている出版社がショボショボと散在している。

そんな時代が来るのか、来ないのか。

考えが沸騰しないままで、いらだちがつのる。ともあれ、文明的な視点からいえば、かつてのベルリンの壁の崩壊を上回る変革の瞬間に、いま、ぼくたちが立ち会っているんではないか、という実感はある。

どうする。ご同輩。