2009-05-14
[009]はじめて泣いた夜(2)
体調がこちょこちょ変わったり、ヘンな話だけど、軽い錯乱みたいのがあったりしたので、更新が間遠になり、順序がおかしくなりました。申し訳なし。傷病兵のことゆえ、何卒許されたい(と例によっての居直)。
母の電話でぼくが泣かなければならなかったのは、その主原因は驚き、であったからかもしれない。こう来る、とは思わなかったからである。しかし、その予想を用意していなかったのは、ぼくが何もわかっちゃいないからだけのことだ。
母が電話口でぼくにぶつけてきたのは、慰めでも同情でもなかった。励ましでも嘆きでもなかった。ロジックでもなかったし、もしかしたら、意味ですらなかったかもしれない。それは熱くて大きくて単純な感情のかたまりに過ぎなかった。愛。しかもむき出しの愛のかたまりだった。受け取った瞬間に、ぼくにもそれは理解できた。低く早口でぼくにむけて発射さtれたコトバの数々には、ほぼ意味がなく、それは気持ちを運ぶための搬送路にすぎなかった。
ぼくは泣きながら、こういう受け取り方をしたのは生まれて初めてだと思ったりもした。しかし、おそらくそれは違うだろう。何度も何度もこの手の愛は回りから程度の差こそあれ、何度も受け取っていたのに違いない。ただ、受け取っているということに気がつかなかっただけだ。そういうこともその時同時にわかった。50をすぎるまで、こんな基本的なことすら気がつかないで、自分ひとりで生きているような顔をして暮らしてきていたに違いない。愚かだった。それがはっきりわかった。
去年の切除手術、そして1年後の再発。ぼくは付き合いの極端に狭い人間なので、それを知っている人はとても少ない。かれらは、電話をかけてきたり、のそ、と突然病室にあらわれて、少し話をして帰っていく。ぼくには大きな慰安になったし、タイクツしがちな病院生活のアクセントにもなって、ありがたかった。
彼らはおしなべて寡黙だった。ぼそぼそとゆっくりしゃべり、静かに笑った。そしてその後ろで光る目でぼくをじっと見つめていてくれた。ツマも同じだし、義兄も。電話でしか話していないが、父や弟、遠方の友なども、おそらく同じ瞳をしていたのだろうと思う。
みなそれは同じだったのだろう。そりゃ母のそれに比べれば、むくつけさ・むき出しさに違いがあったかもしれないが、それも愛でありココロであった。それにもはじめて気がついた。なんという愚かさ。
考えてみれば、ぼくのほうからこういう気持ちを発信したことはあろうかと思う。もっと稚拙なやり方であったかもしれないが。だから、人がそのような気持ちを他者に示し、そしてそのことで両方は深くわかり合えるといいうことは知っていてしかるべきことだった。しかし、受信感度があまりに悪すぎる。なんだんだ。オレってやつは。
それやこれやに、あのとき、一気に気がついた。とにかく電話のスイッチをOFFにすることだけに表面上はむかっていったが、一瞬でわかってはいたのだ。なにか、大きな光の固まりがカラダの真ん中で爆発したような熱を感じた。ぼくは涙をこぼしながら「おそらく6かける10の23乗個の癌細胞が雲散霧消したな」とつぶやいたりした。
ぼくはこのときはじめて、心の底からなおりたいと思ったし、直る、とも確信した。なんとしても直さなきゃ。
病気は何も疫災だけをもたらすわけではない。(この項、続く)
ここに書いても仕方ないのかもしれないけど、迂闊にも今日知りました。ご冥福をお祈りします。配達かたがた拙宅に遊びに来られて、野鳥の話をしたことが思い出されます。合掌。ちょっときつい。