当ブログの書き手である石田豊(享年54歳)は、2009年6月20日午前2時30分、逝去いたしました。 生前の皆様の御厚誼を深謝し、謹んでここに報告致します。
(ポット出版)

2009-05-14

[009]はじめて泣いた夜(2)

体調がこちょこちょ変わったり、ヘンな話だけど、軽い錯乱みたいのがあったりしたので、更新が間遠になり、順序がおかしくなりました。申し訳なし。傷病兵のことゆえ、何卒許されたい(と例によっての居直)。

母の電話でぼくが泣かなければならなかったのは、その主原因は驚き、であったからかもしれない。こう来る、とは思わなかったからである。しかし、その予想を用意していなかったのは、ぼくが何もわかっちゃいないからだけのことだ。

母が電話口でぼくにぶつけてきたのは、慰めでも同情でもなかった。励ましでも嘆きでもなかった。ロジックでもなかったし、もしかしたら、意味ですらなかったかもしれない。それは熱くて大きくて単純な感情のかたまりに過ぎなかった。愛。しかもむき出しの愛のかたまりだった。受け取った瞬間に、ぼくにもそれは理解できた。低く早口でぼくにむけて発射さtれたコトバの数々には、ほぼ意味がなく、それは気持ちを運ぶための搬送路にすぎなかった。

ぼくは泣きながら、こういう受け取り方をしたのは生まれて初めてだと思ったりもした。しかし、おそらくそれは違うだろう。何度も何度もこの手の愛は回りから程度の差こそあれ、何度も受け取っていたのに違いない。ただ、受け取っているということに気がつかなかっただけだ。そういうこともその時同時にわかった。50をすぎるまで、こんな基本的なことすら気がつかないで、自分ひとりで生きているような顔をして暮らしてきていたに違いない。愚かだった。それがはっきりわかった。

去年の切除手術、そして1年後の再発。ぼくは付き合いの極端に狭い人間なので、それを知っている人はとても少ない。かれらは、電話をかけてきたり、のそ、と突然病室にあらわれて、少し話をして帰っていく。ぼくには大きな慰安になったし、タイクツしがちな病院生活のアクセントにもなって、ありがたかった。

彼らはおしなべて寡黙だった。ぼそぼそとゆっくりしゃべり、静かに笑った。そしてその後ろで光る目でぼくをじっと見つめていてくれた。ツマも同じだし、義兄も。電話でしか話していないが、父や弟、遠方の友なども、おそらく同じ瞳をしていたのだろうと思う。

みなそれは同じだったのだろう。そりゃ母のそれに比べれば、むくつけさ・むき出しさに違いがあったかもしれないが、それも愛でありココロであった。それにもはじめて気がついた。なんという愚かさ。

考えてみれば、ぼくのほうからこういう気持ちを発信したことはあろうかと思う。もっと稚拙なやり方であったかもしれないが。だから、人がそのような気持ちを他者に示し、そしてそのことで両方は深くわかり合えるといいうことは知っていてしかるべきことだった。しかし、受信感度があまりに悪すぎる。なんだんだ。オレってやつは。

それやこれやに、あのとき、一気に気がついた。とにかく電話のスイッチをOFFにすることだけに表面上はむかっていったが、一瞬でわかってはいたのだ。なにか、大きな光の固まりがカラダの真ん中で爆発したような熱を感じた。ぼくは涙をこぼしながら「おそらく6かける10の23乗個の癌細胞が雲散霧消したな」とつぶやいたりした。

ぼくはこのときはじめて、心の底からなおりたいと思ったし、直る、とも確信した。なんとしても直さなきゃ。

病気は何も疫災だけをもたらすわけではない。(この項、続く)


2009-05-05

[008]Googleブック検索に警戒は必要ないのだろうか

理由はわからないけれど、脳の能力が著しく減退している。要は、入院の期間中アホになります、というモードに入っている。もしかすると、院内で処方されているクスリに、多少なりともそっち方向に脳をボケーとさせるクスリが入っているのかもしれない、と思わせるほどだ。

「逆かもしれないよ」
ベッドサイドの椅子でリンゴの皮を剥きながら妻はいう。
「アホになっちゃったんじゃなく、今まで気がつかなかった秘められた事実が、ようやく認識できた、ということなのかもしれないよね」

ま、ずっと苦労をかけてきた相手からの重い感想である。
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2009-05-03

[007]車椅子を買った

車椅子を買った。

無謀とお思いでしょう。自分でもそう思わなくもない。

前にも言ったと思うが、現在、ぼくの「症状」としては、肥大した患部のあっちこっちが神経を圧迫したりするもので、そこが痛い、ということがある(というか、それしか自覚症状はない)。

もちろんこの痛みの原因になっているものにたいして、現在戦いを繰り広げているわけだから、早晩、個々の痛みは消えていくはずだ。そうなってもらわないと困る。

従って、これからのぼくと痛みの関係は、場所を替え出現する新たな痛み部位を叩き続けていく、ということになるのだろう。

痛みそのものに関しては、痛み止めが進化しているために、うまくやると、ほぼ日常生活に影響がない程度まで押さえ込める。しかし、タイミングによっては、かなり痛い時間を、どうしても耐えなければならないはめに陥る。

痛みの部位はいくつもあるし、その順位は入れ替わったりするんだけど、今現在の時点でのポールポジションの常連は、右臀部から太ももにかけて、である。じっとしていると薬の影響もあって、どってことないのだが、5分も歩くと、かなりの激痛にうずいてしまうことがある(あくまでも「ことがある」なんだよね。痛くないときもある)。であるから、なるべく動くのを控えてしまう。それが運動不足を引き起こし、痛みを増やす方向に悪循環しているんじゃないか、と思うのだ。これは想定外であった。

散歩に出たい。買い物にも行きたい。

短時間なら、ほとんどはなんてことなく楽しめる。しかし、時によっては例の痛みが突然やってくることがある。それはあらかじめ想定できない。イキナリ、なのだ。歩いていると、いきなりケツが痛くなってくる。不機嫌になって、痛みに耐えながら、ほうほうのていでベッドに戻ってこなければならない。そこで痛い部分をあたためてじっとしていると、通常に戻る。こういうケースがあると、ついつい外出にためらうことになる。それはずいぶん残念なことだった。

先日、思いついて病院の車椅子を借りて散歩にでかけた。万一少しでも痛くなったら、椅子に座って体重をかけないようにして戻ってこようという作戦である。うまくいきましたねえ。ばっちり。なにより、準備万端整っているゾ。どっからでもかかってきやがれ、と、自信満々でいられるところがうれしい。

車椅子購入には、このような前提があった。

しかし、そうだからといって、ほんとに買うの? って話でもある。

だって、現在の臀部の痛みはいつまでも続かないであろう。そのために治療しているわけだし、続いてもらうと困る。たとえば、中枢神経がどうこうとか、で、運動系に回復不可能な障害があるわけではない。いま、車椅子があればいいなあと思うのは、あくまでも実に一時的な話なのである。

でも。先日の車椅子散歩は甘美であった。

いいなあ。車椅子。

で、いったいぜんたい、車椅子っていくらくらいするんだ? 調べてみて驚いた。2万円でお釣りがくるのだ。安いよ。感覚的には「1回でモトが取れる」とまで心の中で口走ったほどである。

マンション暮らしなどで収納スペースがない場合は別にして、ガレージがあるとか、ちょっと無駄な場所があるような住まいに暮らしているなら(つまりウチね)、こういうのは買っておいてもいいのではないか。そう思った。もちろんぼくは早晩回復する。そうなっても、年々年はとるわけだし、遊びにきた誰かがあやまって足に怪我してしまう、なんてことがおこらないとも限らないから、備えておいて、ソンはない。

いろんなタイプを比較検討した。条件として重視したのが、背が折れることにより、折りたたみが小さくなり、タクシーのトランクに入るように設計されていることと、介助者(押してくれるだれか)が持つハンドルにもブレーキがついている(最安価のものはついていない)、の2点。これで税送料込みで21,280円。

さっそく外出許可をもらって試してみたが、とても快適。正直いって、いささかヤスモノくさい動きをする(全体がタイトじゃない)が、気になるほどでもない。ぼくの場合、あくまでも非常用なのだ。べつに自力で立ち上がれるし、歩きもできる。これくらいで十分。

大げさな言い方になるかもしれないが、呪詛から解き放たれたプロメテウス! って感じ。イイゾ。

2009-04-30

[006]初めて泣いた夜

問診のとき、家族に癌にかかった人はいますか? 心臓病は?
という具合に訊かれる。遺伝的な要素があるからだろう。ぼくの場合も無論例外ではない。ぼくの父はぼくが18歳の時に喉頭癌で声帯の除去手術をおこなった。当時、国内ではなんでも数例目とかというリスクの高い手術を幼子かかえる若い父親に課したのは、それ以外では回復する見込みがなかったと判断したからに相違あるまい。

あの頃に我が家を充満していた重く厳しい空気を、ぼくはいまでも皮膚の感覚として、じっとり思い起こすことができる。

ぼくが肺癌になったのも、ある意味、父の子であったからでもある。

父は、その後もずいぶん長く闘病生活を続けた。結局のところ、いつ完全に「なおった」となったのか、ぼくは知らないんだけど、80をすぎる今でも元気(といいきっていいか)に生存している。

ぼく自身、きっと直るぞ、と無根拠に信じているのも、この父の子であるからという背景があるわけだ。

だから、母は、ある意味、癌看病のオーソリティーをもって自認しているところがある。 続きを読む…

[005] 病室名主の権力構造(2)

入院はしたことなくても、見舞いには行ったことくらいおありだろう。どちらもない? なんだか友達になりたくないなあ。兼好法師もそんなこと、言っておりました。

ともあれ、複数人部屋の病室の各ベッドは単色のカーテンに四周を囲まれていることはご存知であろう。このカーテン、ホントは逆Uの字型になっていれば、各人が各人で独自にコントロールできるのであるが、資材の節約なのかそれともほかの理由があるのか、いわばワの字型になっている。ベッドが並んでいると、通路側から、ワワワそして窓、という並びである。最初のワの左側のオサエは病室の壁が代用している。

で、このカーテンの取り扱いだが、病室のマニュアルによると、たいていの病院では、昼間は明るさを確保するためにも、できるだけあけておきましょう、などと書かれているが、実際問題、たいていの部屋では、各人がカーテンを閉め切って、疑似蛸壺をこしらえて逼塞しているのである。これはジツにうっとうしい。しかし、こういうのは社会生活であるので、こっちの一存だけでは何ともならないのだ。

先日の一時退院までの4日間ほど、ぼくはフクダさんという人と2人部屋で一緒だった。いささか強引なおっさんで、とにかくウットウシイでしょ、という理由で、常時カーテンを全開にしたがる。ぼくも思想的に通低するとこがあるので、望むところである。いや、この4日はさっぱりして気持ちよかった。ただ、かれは就寝時も開けっ放しであるのだが、これはぼくには抵抗がある。なんだかむき身感がしみ出してきて、どこか不安な気持ちになる。

このフクダさんには、ぼくにとって積年の課題であった「腹巻き問題」の最終解決になりうる「晒の巻きかた」の奥義を伝授していただいた。まだまだぐずぐずのやわやわだが、日に日に技術的向上が自分でもわかる。ぼくの鯔背な晒姿に陶然となさるご婦人の出現も遠い日の話ではない、と思うほどだ。とにもかくにもキモチいい。

話を戻す。

さきほどのワワワ窓というカーテンの構造を再度思い返しながら、これを自由にするためのキーはどこにあるか、を考えてみればよい。すぐにわかると思うけど、自分のカーテンを自分でどのように取り扱っても誰にもめいわくをかけないのは、唯一窓際の病室名主だけなのである。

たとえば、通路側の人が、うっとうしいとて自分のカーテンを全開にしてしまうと、次の人の正面の部分を無許可ではぎとってしまうことになる。2番手にとっては、暴力的な壁の崩壊である。窓際が2番手にお伺いをたてれば(多くの場合)あ、いいですよ。どうぞどうぞ。うっとうしいですもんね。なんて同意を得たりするかもしれないが、ふつー、おとなは、そんな罠には乗らないものである。

こんど、お見舞いにでも行かれた際にご確認になるといいと思うのだが、複数部屋の奥の人だけが、カーテンを全開にしている部屋がけっこう多いことに気がつくことだろう。だって、カーテンを開けるほうがルール云々以前に、とても気持ちいいのである。唯一気になるのは廊下からの無遠慮な視線くらいだろうが、それも、手前のカーテン群によって、適度に遮蔽されているわけだ。

カーテンひとつをとっても、同じ料金をふんだくられていても、これほどの差がある。

これって、ほんと、むちゃなことして金儲けしてはなりませんという法律にひっかかると思うのだ。

[004] 病室名主の権力構造(1)

あ、忘れないうちに書いておきますが、ぼこぼこ状態にされている漢字能力検定協会の件ですが、おそらく遺漏はなかろうとは思うけど、新聞記者のみなさまは、この協会と文科省からの天下りで不適切な関係は、いちおう調べてみたけど、なかったよ、とコメントされておかれるほうがよろしいのでは、と。天下り受け入れをキョヒっていじめられているとしたら。なんてこと、あるわけないか。

いわゆるところの「差額ベッド」についてのアレコレに関しては、20年前から言いたいことはヤマほどあって、黙っていろといわれても、そのうち書かせていただきます。

で、その件についてはひとまず措いておきながら、入院病棟には、基本的に大部屋と1人部屋、2人部屋〜が存在している。大部屋というのは(よく知らないんだけどね)6人部屋がキホンであるようで、それ以下の部屋も1人用以外はシンメトリー構造になっているのが普通みたい(みたいみたいの連続で、信頼性のかける文章である)だから結局のところ、部屋のタイプは1人、2人、4人、6人ということになる。

いつのまにか、1人部屋をのぞき、すべてのタイプの部屋への入院を経験したことになる。

未知の1人部屋は別にして、ほかのタイプの定員は必ず偶数になっており、ベッドのレイアウトは、入り口からマドまでまっすぐ通路、左右に「非」の字型にベッドを配置、というふうになっている。いや、2人部屋は違ったな。足側に通路、奥がマドで平行にベッド2台だった。

6人部屋は通称大部屋であって、ここでは追い銭はとられない(あたりまえだ)。残る2人部屋、4人部屋は無茶苦茶な料金設定の追加料金をふんだくられるようになっている。

そもそも入院は個室がキホンだとぼくは思う。加療しているのに、夜な夜な40cmほど歯科はなれていないベッドでずっとうなり声をあげ続ける患者の苦行につきあわされていなければならないんだ。日本の経済関係の法律のどっかには「むちゃなことをして金をとってはダメだ」という規定があるはずで(なければ我が国は野蛮である)、その法律からしても、現行システムは無茶苦茶だ。

冒頭に宣言したように、それはまた別途考察する。本日はひとまず冷静に……。

つまり、なにが言いたいか、といえば、ひとくちに2人部屋、あるいは4人部屋といっても、ベッドの配置によって、2or4人部屋/窓際、2or4人部屋/通路側という「亜種」が存在することになる。いうまでもないが、両者の間に料金設定に差はない。

同じ金をふんだくられながら(払っている、わけでは絶対にない)、どちらのタイプのベッドをあてがわれるかは、まったくの偶然によって支配されている。ルールは(トロいプレーヤーが介在していない限り)、新入りが通路側、なのである。

風呂敷まとめて夫婦で彼らは病室にやってくる(たいてい老年だからね)。はーい。大川さん(仮名)、ここが大川さんのベッドです。あちらが山本さん(仮名)、田中さん、河野さん(以下同)。「あ、よろしくおねがいします…」ぺこぺこ、というプロトコルである。

大川さんとしては、同じカネはらっているのに、なんでぼくがこっちなんや、と主張することはできない。だって、奥に鎮座している田中さんと河野さんは、もう1週間も前から服役して、ようやく出世を遂げた「ベッド名主」様であるからである。そんなことを新入りの分際で口に出そうものなら、サンピン。100年早いや。と凄まれてしまうのである。

大川さんにとっては、入院そのものもショックであろうが、通路側のベッドという屈辱と不利益にも耐えなければならない日々が続く。しかし、安心なさるがよい。ぼくもよく知らぬが(またかよ)、最近の病院は長くは逗留させていただけない仕組みになっており、病棟などによっても違うだろうが、名主のかたがたは、早晩ご退院召されるのである。

退院は午前中。新規入院は午後。というふうに決まっている。これはホテル業と同じで、やはり、病院といえども「宿泊業界」というククリのなかでの仕組みには従わざるをえないのだ。大川さんとしては、田中さんが退院され、新しい患者が午後にやってくる前に、ナースに「奥へ直りたい」旨の申し立てを行う。

すると、存外軽い感じで、「ん? 奥へ移りますか。いいわよ。じゃあ、ロッカーの中の荷物をベッドに上にでも出してくれる」なんて感じでそく行動に移ったりする。病院のベッドやテレビセットは移動が楽にできるように作ってあるので、作り付けのロッカーの中さえ空にすれば、幌馬車隊のようにどこまでも簡単に転がっていけるのである。

病室の窓は大きい。この大きな窓から外を見ながらベッドに腰を下ろしているだけでも、病は少しは癒えていくような気すらする。それに窓際の幅50cm程度の「共有地」は、だれも入ってくることができないため、実質的には窓際名主の支配下に組み入れられる。

病院の立地がいかに悪かろうとも、窓から外がいつも見えている明るい窓際ベッドと、四周をへんなカーテンで取り囲まれている入り口側ベッド。その違いはもう筆舌に尽くしがたい。

いや、実は、窓際の権力の源泉は、この「単純にきもちいい」ということにはとどまらない。その真実は「窓際だけが、カーテンのコントロール権を掌握できる」というところにこそ、あるのである。

2009-04-28

[003]明示的には禁止だが

せっかく編集部に復活の処理をしていただいたのにもかかわらず、のっけから空白の日々が続いてしまった。実は病院でつかっているマックの具合が悪くなってにっちもさっちもいかなくなってしまっていた。

病室では明示的にはPCならびに携帯電話の使用は禁止されている。というより「あらゆる電化製品の使用」が原則禁止になっているとみなせるようなマニュアルになっている。が、現実には、多くのベッドにノートPCがあるし、ほとんどの入院患者が携帯電話をマナーモードで電源ONにしている。現実的にこういう機器の電源が入っていることのリスクは病棟によって大きく変わってくるのだろう。循環器関連の病棟ではケータイはどうも……ということになっているのかもしれない。ぼくのいる呼吸器外科病棟では、看護士長が病床にLANケーブルが配備されてるべきでしょうな、キョウビなどと小声で言っているくらいである。

ぼくは、そういう時代の潮流を利用させてもらって、マックをベッドに持ち込み、最低限の仕事のチェックを毎日行っていた。通信に使っているのはサルのマークのEモバイルだが、速度は遅いけど、実用上、今のところ不満はない。

先日、どうしてもWindows環境を使わねばならぬことになり、じゃあ、いっそのこと、デュアルブートで両方とも起動しちゃえるようにしようと、いうことになった。ここでぼくにはひとつの誤解があった。ぼくの使っているMacBookは購入時点でのOSは10.4だと思っていた(だから10.5のディスクは後から購入したものだ、と)。しかし、それは別のマシンのことであって、ぼくのは買ったときから10.5であったのだ(だからOSのディスクは製品についていたもの)。そのところを完全に誤解していた。だからアップデートのためには、パッケージ判のOSセットを持参してきてあった(バンドル判はぼくの書斎のどこかにあって、ぼく自身が退院して探索しないことには発見はほぼ絶望視されている)。

マックからデータをTimeMachine(バックアップソフト名)を使ってバックアップし、データを消してOSをインスト。その順番を考えていたのだが、何の必然があってか、どう考えてもわからないのだが、ぼくのマックでパッケージ判のOS DVDを使おうとすると、不適切なディスクであるなんて吠えて、どうしても先へすすめない。OSを消しちゃった時点(役立たず)で、前にも後ろにも進めなくなってしまったのである。バンドル判のものを自宅からピックアップしてくるのは退院が前提となり、現実的ではない。そこで、しかたがないからスタッフに渋谷のApple Storeに行って、対策を聞いてきてもらった。

イシダさんらっきーです。3,4日で使えるDVDを郵送で送ってくれるんですって。しかもお値段たったのセンエン。ま、3日なら、ビョーキというシチュエーションの中では、十二分に待てる期間である。ちょうど週末はさみでもあることだし、PCレスでこれからの方針をじっくり考えようか……、なんてことを思ったりした。しかし、クチではホンマに4日で来るんか? アップルが言ってることだぞ。と報告者に軽くイアツをかけておいた。

彼女はイアツが気になったんでしょう。週明けの今日、念のためにアップルに確認の電話を入れたという。そしたらやっぱり、DVDがウチに届くまでの日数は2~3週間(デイじゃなくウィークよ)!!

「金曜日は4日とおっしゃってたじゃない」「あ、それはそう言ったものの間違いですね」
「なんでそんなにかかるの」「なにしろ海外からの発送になりますから」

ぼくはマックが好きだ。1985年にはじめて触って以来20年余。正直に告白すると、ずっと好きであり続けてきたし、ずっと使い続けてきた。ライターとして書いた、このコンピュータを礼賛する記事、使い方を説明する記事の量はハンパじゃない。ユーザとして背中に藻が生えてしまってきているので、昔みたいに礼賛を篤くブチあげたりすることはないが、愛する気持ちに根本的な変化はない。すきやねん。

だからこそ言うのであるが、トラブル解消まで、あいや、20日間、お待ちくだされ! これって、要するに「頼むからウチの製品を使わないでくれ。お願いだからWindowsで何とかしてはくれまいか」との懇願でしかない。

わざわざ海外から消耗品を発送するというロジスティックスをとり続けるのも、顧客の利益なんか考慮に値しないと見なしているからで、Mac購入時にシツコクシツコク毎回個人情報を入力させてるわけだから、こんなものは電話1本で翌日届けるなんてことは決して難しいことでもなんでもないのである。

実に不愉快である。

で。思い返してみると、この「感じ」は今はじまったものじゃなく、この25年間、折に触れて気になっていたことでもある。コンピュータとして見れば、贔屓目なしにMacはたいへん優れていると思う。にもかかわらず、シェアをジリジリ落とし続けている理由は、ぼくはこのあたりにあるのではないか、とずっと思ってきた。同じようなことを言う人も決して少なくない。ブツそのものや、製品の本質はすばらしいのだが、こうした周辺の「どうでもいいこと」がことごとく不愉快のタネになる。しかも、それをかれらは「どっかエバった」対応で処理しようとするのである。

なんだかモッタイナイなあ。

製品の本筋がダメなら、その修復には多大なコストもかかるだろう(そもそもムリかもしんない)。でもそうじゃないわけだ。その昔の江本の言い草を借りるなら、選手はちゃんとやっているのに、フロントがアホやから野球ができない、という状態だ。

こういうのって、どうすればいいのだろうか。いや、何もアップルの経営について論考したい訳でもなんでもない。我が社の問題である。

再発、入院前後から、不思議なことに弊社の売り上げが急速に落ち込んでいる。月によっては昨年対比50%減なんてびっくりの成績である。

ここでつい先日告白するまで、対外的にはぼくが病気になったことも、またそれにともなって必然的に戦力が落ちていることも、ほとんど公表していない。ウチは通販業者で、この期間の商品数の増減もなかったから、表面的にはぼくの不在とか、それにともなう戦力のダウン、心配事の増大なんてことは糊塗されているように思うのだが、違うんだな。お客様にはなぜか見通されているのである(だって、そういうことでしょ)。

ここのところ、ずっとその理由が知りたいと思い続けている。願わくば、われわれのビジネスの本筋じゃないところでの齟齬であればいいのだが……

2009-04-22

[002]歯ぎしりして、はじめて自分がゴマメであることに気がつくのだ

病気というのは肺癌の転移・再発である。

昨年(2008年)1月ぼくは肺癌の手術をした。人間の右の肺は3つのパートの別れているんだそうだ(左は2つ)。知ってた? ぼくはこの年になるまでこの呼吸を司っている臓器がそんな構造をしているなんて、全く持って知らなかった。もちろんそれ以上に知らなかったのは、右の上葉にちいさな癌細胞がいつのまにかできてしまっていたことだった。 続きを読む…

2009-04-21

[001]病床からですが、状況に距離をもちつつ

またぞろ病気になってしまった。

たちまち生命がどうこうというさしせまった状況に陥っているわけではないが、そうかといって、定期車検さ、とうそぶけるほど楽観的な見通しの中にいるわけでもなさそうだ。

ぼくとしては、由々しき状態だし、困ってもいるし、正直、心配や不安で、夜中なんかにときおり「窓を開けておおーって大声で叫んでやろうか」と思うことすらある。ま、やりませんけどね。いまのところ。

闘病記、とでもいうのだろうか。病気と、それに向き合う自分というのをテーマに、何かを書いていく、ということはアリなのかもしれない。同病を戦う人にとっても役立つ情報発信が、もしかしたら可能かもしれまないし、なにより、それを書くことで、自分自身の対・病気戦略になにがしかのプラスを産み出しうるかもしれない。それはわかりつつ、ぼく個人は、あまりそのことに魅力を(現時点では)感じていない。そうでなくても、病気って、自分の中で大きすぎるテーマになりがちなのに、毎日それについて主体的に何か発言しなければというギムなんかを課したとしたら、ま、へんないいかたになるが、「おれは今以上、ビョーキにまみれてしまう」。

そんな気がする。だから、ちょっとくらいは(見栄はってでも)距離のある付き合いをしたい。

じゃあ、なぜ、ずいぶん長い間放置しておいたこの場所を、もいっかいほじくりだして、いそいそと何を書き出そうとしているんだい?

うん。そこですよね。病気そのものじゃないんですけど、ぼくが病気になってみて、こんなことがあった、とか、仕事との関係でこんなことが困った、とかということが、ぞろぞろ出てきたんですね。いささか驚き。

ぼくだけかもしれないけど、面白いと感じたし、また、いままであまり聞いたことのないような話でもあるので、できればボチボチでも書き綴っていきたい、と考えた次第。

しかし、なにぶん極悪インベーダーの侵略にさらされ、それに対抗すべく、地球防衛軍がABC兵器を駆使して奮戦している戦場がオレ、てなむちゃくちゃな環境にいるわけなんで(これがエラく体力を使うんだな)、なかなか思うように、アタマもカラダも働かず、おいおいちょっとタルいぞ、とお叱りを受けるかもしれんのですが、そこは何卒(と、こういうトコだけ病人面して居直っておく)。