2009-05-01

スピーチ「先人たちの思いに寄せて」

● 尾辻かな子事務所クロージングセレモニー「希望のバトン〜『ミルク』で語るこれから」でのライブ音源と、スピーチ音源(2009.4.29)

これは、尾辻かな子さんが新宿二丁目に構えていた事務所を閉じるにあたって催されたイベントでの、伏見のスピーチのライブ音源と、スピーチ原稿です。

・ライブ音源

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・スピーチ原稿

新宿二丁目に最初にゲイバーを出したマスターにお話しを伺ったことがあります。そのお店が営業をはじめたのは、昭和26年(1951年)のことでした。とくにゲイバーとして開業したわけではなかったのですが、マスターの友人たちから口コミで情報が広がり、昭和28年に夕刊紙で「男色居酒屋」として取り上げられることで知られるようになりました。そして、その評判を聞きつけて近くにゲイバーが複数開店することになり、新宿の一角にゲイバー街が形成されます。さらに昭和33年に売春防止法が施行され遊郭の灯が消えたことで、ゲイバーは暗くなった現在の二丁目方面に進出していくことになりました。

その二丁目の最初のゲイバーでは、マスターもゲイであることを名乗らず、お客さんも自分の「性癖」、今風にいえばセクシュアリティについて語ることはなかったそうです。そこがそういう場で、そういう人たちが集まっていることは了解し合っていても、あえて同性愛者であることを名乗らない、自分たちをカテゴライズしない振る舞いにおいて、店と客の関係が成り立っていました。現在の二丁目からは想像もつきませんが、昭和20年代から30年代というのは、当事者間であってもセクシュアリティを知られることに疑心暗鬼にならざるをえなかったのです。そのマスターがこう証言していました。「とにかく警察に目をつけられないようにビクビクして店をやっていました」。当時はいまみたいにふつうの人が脱サラをして気軽にゲイバーをはじめられるような時代ではなく、同性愛者向けの店を構えることは、言葉は悪いですが、人生を捨てる覚悟、社会的な死を受け入れなければできないことでした。

私が二丁目デビューを果たした1980年代でさえ、まだゲイバーへの敷居は高く、二丁目も暗い街で、大手を振って歩けるような雰囲気ではありませんでした。店のなかは混雑していても、路上にゲイがたむろしていることほとんどなく、やはり、その街にいるのを人に見られることがはばかられるような空気が漂っていました。日本では、アメリカのようにゲイバーが警察の手入れを受け、ゲイに対して暴力的な攻撃がされることはほとんどありませんでしたが、2009年の今日とは比べ物にならないほどの抑圧感と、自己否定的にならざるをえない社会の規範が存在していました。けれど、そうした状況にもかかわらず、終戦後の欲望の解放によって、ゲイバーも徐々に全国的に増えていき、男性同性愛者向けのミニコミも刊行されるようになりました。そして1971年にはついに商業誌「薔薇族」が創刊されることになります。このことによって、男性同性愛のメディアが市場に流通することになり、欲望のネットワークはさらに大きなものへ成長することとなりました。のちにはじまる日本のセクシュアルマイノリティの動きのすべては、その分母の増加によって可能になったと言えるわけですから、編集長の伊藤文学さんの仕事はまさに画期的でした。
 
アメリカでは1969年のストーンウォール事件を契機に70年代を通じてゲイリブの運動が活発になり、反差別運動としてゲイパワーが勢力を拡大していくことになります。一方、日本でも1971年に東郷健さんが参議院議員選挙に出馬し、世間の注目を集めました。東郷さんの活動というのは、当時の市民感覚からはかなり逸脱していて、表現を換えると、ある意味「ユニーク」すぎたので、その評価が分かれるところです。が、日本で初めてセクシュアルマイノリティとして選挙に出馬したことは、もう少し評価されてもいいことだと思います。また同じ頃、日本のレズビアンもネットワークを広げるようになりました。最古のサークルと言われる「若草の会」が誕生したり、ウーマンリブ運動のなかでレズビアンの声が上げられるようになったのです。ちなみに、さきほど触れた二丁目のゲイバー1号店にもレズビアンは来店していたようで、そのなかには駐留アメリカ軍の女性兵士も含まれていたそうです。

1970年代、アメリカでは同性愛者の運動が盛り上がり、映画「MILK」で昨今注目を集めるハーヴィー・ミルクもその一翼を担いました。その頃の時代状況がどのようなものだったのか、そこでどんな試行錯誤がなされたのかは、映画や本でこの機会に振り返ってもらいたいものです。手前味噌になりますが、私が監修で関わっている『MILK 写真でみるハーヴィー・ミルクの生涯』には、あの時代の熱気や、理想や、行動や、欲望や、痛みが画像とともにそのまま詰まっています。ぜひとも手に取っていただければ幸いです。現在から過去を評価したり、裁断することはあまりにも容易ですが、そこで格闘した人々が何を求め、何と闘い、何につまずき、何を獲得したのかを、その時代の人々の気持ちにできるだけ寄り添って追体験することで、私たちは逆に今という時代、自分たちの立っている場所を確認することができるでしょう。そのことによって初めて、私たちはハーヴィー・ミルクとその時代の人々とつながることができるのだと思います。

さて、その70年代のアメリカのゲイリブの影響は日本にもやってきました。彼らのメッセージを受け止めた日本人がいたのです。私はその動きのことをかつて、「90年代リブ」に対して「70年代リブ」と名付けましたが、その中心にいた人物が大塚隆史さんです。「カミングアウト」という思想を日本に取り入れ、当時メジャーな媒体であったラジオの人気番組「スネークマンショー」で全国のゲイに向かって、自分自身の欲望に肯定的に生きよう!と呼び掛けたことは、同性愛者が自分たちを「変態」ではなく「ふつうの人間」なのだとする宣言でした。そのメッセージは、まだ深く暗い闇のなかに自閉していた多数の同性愛者の共感を得ることはありませんでしたが、一人、また一人と……彼の支持者は増えていき、2009年の今日では、自分のセクシュアリティに肯定的でありたいと思うことは、当事者にとってもはやハードルの高い思想ではなくなりました。

70年代のことは大塚さん自身に語ってもらうのがいちばんいいので、ここでは詳しく触れませんが、大塚隆史という人物は過去から今日まで日本のセクシュアルマイノリティの先駆者として、またモデルケースとして、私たちの前をつねに先んじて歩んで来きました。同性愛を肯定しようというメッセージにはじまり、少し前までならありえないとされていた同性同士のパートナーシップを可能なものだと喧伝し、タックスノットという場で幾人ものゲイのアクティヴィスト、表現者を育て……彼はずっと日本のゲイの生きた思想であり続けました。単に欧米の運動や理論に追従したわけではなく、自分自身の言葉で自分の思想を紡いできた先人です。まさに彼自身がこの国におけるセクシュアルマイノリティの記念碑といえるでしょう。なにか追悼文を読んでいるようで申し訳ないのですが、赤塚不二夫に捧げたタモリの言葉になぞらえれば、もちろん「私、伏見憲明も彼の作品の一つです」。

次に、時代が高度消費社会、成熟社会となる80年代に入ると私たちは、南定四郎さんというとてつもないエネルギーを持った活動家の登場を迎えます。彼はもともとゲイ雑誌「アドン」の編集長でしたが、大塚さんらの70年代ゲイリブが終息してしばらく経った頃、国際的なレズビアン&ゲイの運動、ILGAに呼応した反差別運動をこの国で展開していきます。現在行われているHIVの啓発活動も、映画祭も、パレードもみんな、彼が種をまいたことからはじまるわけですから、南さんの成したことの偉大さは言うまでもありません。大塚さんが「日本のゲイアクティヴィズムの母」なら、南さんは「父」であり、彼の圧倒的なエネルギーによって私たちに多くの可能性が芽生えました。また同時期に女性のフィールドでも、上野千鶴子さんらフェミニズムの運動が活発になり、そこで培われたジェンダー/セクシュアリティの議論が、のちのちセクシュアルマイノリティを肯定するための土壌となったことも見逃せません。

そうした南さんらの地道な活動と、新しい時代の胎動のなかから、90年代が展開していきます。まず、運動団体アカーが提訴した史上初の同性愛者の裁判闘争、「府中青年の家裁判」によって、ゲイやレズビアンは初めて日本社会のなかで被差別者だという認知を得ました。同性愛の問題はやっと、公的領域において語られることになったのです。そして同じ頃さまざまなセクシュアルマイノリティの表現者がメディアに進出し、肯定的なメッセージを発するようになり、多様なセクシュアリティに関する情報は飛躍的に増加します。あるいは、クラブシーンではセクシュアルマイノリティの共同性を盛り上げるイベントが数多く催され、そのことで私たちの自己肯定感の水位は以前とは比べ物にならないほど上昇します。また、新宿二丁目という街も、暗く閉鎖的なゲットーから、明るくオープンリーな空間へと様変わりし、二千年代に入ってからは、二丁目振興会の川口昭美さん(故人)や、福島光生さんらの尽力によって、毎年セクシュアルマイノリティのためのお祭りまで開催されるようになりました。これは最初にこの街にゲイバーを開いた人たちにとっては想像もつかない、奇跡のような光景でしょう。

そんな状況のなかで、さらに時代を押し進める人物が私たちの前に現れました。それが尾辻かな子さんです。「若草の会」に参加したレズビアンたち、れ組スタジオの活動家、日本で最初にマスメディアでカミングアウトした掛札悠子さんや出雲まろうさん、レズビアンの教師としてメッセージを発した池田久美子さん、著名人のカミングアウトの第一号となった笹野みちるさん……と連なるレズビアンの流れのなかで、そして同性愛者の歴史において、公職の立場にある政治家がカミングアウトしたことは初めてでした。それは世間に大きなインパクトを与え、もちろんレズビアンやゲイの当事者たちにもたくさんの勇気を与えてくれました。それ以降の活躍はみなさんもよくご存知の通りですが、尾辻さんの運動によってエンパワーメントされた人は数知れず、彼女の勇気ある行動が、セクシュアルマイノリティに対するこの国の意識に大きな変化をもたらしたことは間違いありません。

残念なことに、07年の参議院議員選挙には落選してしまいましたが、尾辻さんの出馬によって、メディアは同性愛者の存在を無視することはできなくなり、お茶の間にもレズビアン、同性愛者、セクシュアルマイノリティがこの社会に存在することが強く印象づけられました。あの選挙戦で、民主党という大政党のメインの候補者として彼女が全国を回ったことは、どれほど評価されてもし尽くせるものではありません。私たちは彼女を参議院議員にすることはできませんでしたが、尾辻さんの挑戦を否定的に捉える必要はまったくないのです。ただし、あの敗戦から学ぶことも必要でしょう。とくに、セクシュアルマイノリティにとって生きやすい社会を実現しようとする私たちは、現実から多くを受け止めなければなりません。

尾辻選対に深く関わっていた沢辺均さんの分析によりますが、尾辻さんに投票した38229人という数は、政治的な意識の近いLGBTの票さえ取り込めていたとはいえず、当事者の支持が得られた数字ではなかったことが浮き彫りになっています。また、地域別の票の出方を見ると、尾辻さんの親戚筋の多い鹿児島の得票率は高く、保守的な地盤といわれる地域でも、カミングアウトによるマイナス効果は相対的に確認できません。これは、同性愛者であることを明らかにして立候補することが、とくにプラスにもなっていないがマイナスにもなっていない、という事実を表しています。

これらのことが何を意味するのか。私個人は、日本という国の後進性によって尾辻さんに票が入らなかったのだ、とは必ずしも思いません。活動家が抱きがちな、日本という国がセクシュアルマイノリティが暮らすには過酷な環境であるから当事者が声を上げることができないのだ、という世界像にも共感しません。日本のLGBTの意識が欧米に比べて遅れているのだという見方も、一面でしかないと思います。実際は、メディアも政党もLGBTのコミュニティも同性愛者の候補者に好意的だったし、とりたてて尾辻さんに対して攻撃的な勢力も存在しなかったのです。にもかかわらず、当事者の間でも支持が野火のようには広がらなかった。

もし結果が惨敗ではなく惜敗だったとしたら、それは候補者や選対の責任、力量不足とも言えますが、そうではないでしょう。実際、尾辻さんは国政のレベルの選挙においても候補者として魅力的な存在でした。しかしスポットライトの大きさに比べてあそこまで票が出なかった事実を考えると、私はむしろ日本のセクシュアルマイノリティが政治的な主体として層を成していない、成す必要をあまり感じていないのだ、というふうにとらえたほうがいいように考えます。それは差別や抑圧がないということではもちろんなく、また、欧米に比べて政治意識が遅れているからばかりでもないでしょう。

その多くが日々の暮らしのなかでそれなりに苦しさを抱えながらも、それなりに満足もしているという中途半端な状況を生きているといことです。アクティヴィズムはこれまで、その苦しい面、いま傷つき、差別されている痛みにばかり焦点を当ててきましたが、そうした世界像だけでは、ある程度生活に満足もしている当事者の共感を得ることはできません。事実、私の周囲にいるそれなりに政治意識の高い当事者でさえ、選挙戦への関心は高くありませんでした。また若い世代向けの選挙イベントにも人があまり入らず、それは、痛みに、より敏感である若い人にも支持が拡大しなかったことを示しています。

これは、ミルクや大塚さんの格闘した時代のように、この社会が総体としてセクシュアルマイノリティを抑圧し、抹殺しようとしている、という世界像がもう通用しないことを意味しているでしょう。もちろんかつての対抗主義的な運動が効果を持つ局面はまだあります。現在でも差別はそこかしこにありますから、限定的には「この社会はアンチLGBTなのだ」という認識も説得力を持つでしょう。また保守的な勢力からの攻撃があれば、それに対抗する運動戦略も必要だと思います。しかし、尾辻さんの選挙が教えてくれたことは、すでにこの社会はある程度セクシュアルマイノリティのことを受け入れようとしている、ということではないでしょうか。もはや、保守本流の政治家であるところの、あの小沢一郎さんですら、利用できるのなら同性愛者でもなんでも候補者にしようという時代だということです。

いま、私たちは差別/反差別の二元論では割り切れない、グレーで、まだらな社会状況を前提として、自分たちの生きていく環境を向上させていく政治を展開させていかなければなりません。社会を敵と規定するのではなく、自分たちもそこに参加している当事者だという認識を徹底し、支援者を増やしていく努力をしていくべきでしょう。自分たちを自由にする制度をどうやって作り出し、社会に付け加えていくのか。それこそが2009年という時代の私たちに課せられた政治、ムーブメントなのではないでしょうか。つい最近も、同性婚をめぐる法的問題が、石川大我さんらアクティティヴィストの働き掛けによって一歩進みましたが、ああした地道で、具体的な活動の積み重ねこそが重要なのだと思います。

差別や抑圧が相対的に解消されていくと、私たちは同じセクシュアルマイノリティだといっても利害を共有することが困難になっていくはずです。かつてなら、リブに与する人間はおおよそ、憲法改正には反対で、反原発で、反自民で、反天皇で……という五十五年体制的な思想の色分けができましたが、いまやムーブメントにコミットする当事者も実に多様な政治的意識を持っていて、統一的な世界像を抱くことは難しくなっています。支持政党にしても、自民支持もいれば、民主支持もいる、公明や社民、共産党の支持者だっている。そうしたさまざまな立場の当事者をいかにつなぎ、共有する目標を設定できるのか。そしてどんな社会構想をこちらから積極的に提出できるのか。既存の社会の側の至らなさを批判するばかりでなく、自分たちこそが新しい社会のビジョンを提示していくべきなのです。

そして、誰に頼まれたわけでもないが、自分のミッションとしてそのことをやり遂げようとする意志の力を持つこと、それが今日のセクシュアルマイノリティの政治家に求められる資質になるでしょう。矢はむしろ正面よりも背中に向かって飛んで来ます。尾辻さんもそうした当事者サイドの攻撃にずいぶん傷ついたことと想像します。しかしそれでもこの問題にコミットする理想と意志を持った人だけが、政治を可能にするのでしょう。いまや必要とされているのは、「セクシュアルマイノリティの政治家」ではなく、「優れた政治家で、なおかつ、セクシュアルマイノリティの問題を解決できる人物」だということです。

私たちがいま、ハーヴィー・ミルクから学ぶべきことは、セクシュアルマイノリティのゲットーを作ったり、社会を敵と仮定して闘っていく過激さではありません。必要なのは、彼のようにけっしてあきらめずに挑戦していく、政治的な意志の貫徹です。負けても何度でも挑戦する強靭な精神です。また、私たちが大塚隆史さんから教えてもらったことは、絶対に自分を手放さない誠実さと、他者を受け入れることを断念しない寛容さです。こうしたすばらしい先達を前に、私たちが今後どのような選択をし、行動を起こしていけるのか。映画「ミルク」やこの本『MILK 写真で見るハーヴィー・ミルクの生涯』は、ひとりひとりがそれを考える良いテキストになると思います。そして、とりあえず二丁目から事務所を撤退することになった尾辻さんには、今日はあえて「ご苦労様でした」とは申し上げません。誰もできなかった大きな仕事を一つ成したのですから、自分と向き合う時間もいまは必要なのだと思います。そして、私たちは尾辻さんの捲土重来を期待して、それぞれの役割りを果たしながらここで待っていたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

2009.4.29.
伏見憲明