2013-10-08
追悼 飯田真美さん 「癌とともにエイズと闘う」
東京都職員だった飯田真美さんが亡くなられた。享年52歳。
2006年に刊行した雑誌「クィア・ジャパン・リターンズ vol.2」(ポット出版)の「ゲイの肖像」という枠で、(ゲイではないのだけど)彼女を取り上げたのは、HIVの問題に都の行政官として取り組む姿に打たれてのことだった。通り一遍の対応ではなく、自ら二丁目にまで出向いて、そこで人間関係を広げ、本気でゲイたちと付き合いながら、アクティブに仕事を進めていた。そうした仕事ぶりには、彼女が子供の頃から培ってきた能力や資質もあったかもしれないが、ご自身が癌で闘病していることも関係していた。
マイノリティの運動はとかく、「少数派 対 多数派」「弱者 対 行政」などと固定的な図式、世界像にとらわれがちであるが、硬直した思考を超えて、人と人がガチで向かい合うことで社会を変えられると、彼女は確信していたはずだ。私たちは飯田真美という行政官に新しい可能性を見た、のだと思う。そんな飯田さんをもっと知りたくて、多くに紹介したくて、私は7年前に彼女を追ったルポルタージュを企画した。
今回、彼女への追悼の気持ちを込めて、ここにその記事を再掲載したい。何度も足を運んで飯田さんを取材しこのルポルタージュを書き上げてくれた田辺貴久さんと、ポット出版さんのご協力にも改めて感謝申し上げる。
そして、なにより、飯田さん、ありがとうございました。長い闘病でさぞお疲れのことと思います。天国でゆっくり休んでください。すばらしいお仕事を遺していただいて、心より感謝申し上げます!
2013.10
伏見憲明
【癌とともにエイズと闘う】(「クィア・ジャパン・リターンズ vol.2」2006 より転載)
田辺貴久●写真・文
昨年も日本のHIV新規感染報告数は千人を超えた。
そのうちの3分の1以上が、東京都からの報告だった。
歌舞伎町や渋谷センター街、そして新宿二丁目といった、
感染機会の集中する繁華街を抱え、
日々感染者が増え続けている東京都で、
それを必死に食い止めようと、昼夜を問わず奔走する一人の女性がいる。
都のエイズ対策を担当する飯田真美だ。
厳しい現実に向き合いながらも、
いつも明るく、絶えぬ笑顔で仕事をこなす彼女は、
新宿二丁目でも、みんなに愛されている。
しかし、その笑顔の裏側には、自身を襲った「乳ガン」という病と、
ひとり必死に戦い続ける、誰にも見せない顔があった。
飯田真美
いいだ・まみ
昭和36年4月、東京生まれ(平成25年10月没)
共立薬科大学卒業後、同大学分析化学教室助手を経て、
昭和60年に専門職(薬剤師)として、東京都職員となる。
衛生局衛生研究所生活科学部食品研究科、
港区芝保健所・麻布保健所、企画審議室計画部、
東京都三多摩地域廃棄物広域処分組合、知事調整課を担当し、
平成15年からエイズ対策を担当する。
(2006年当時)福祉保健局健康安全室エイズ・新興感染症担当副参事。
とある日曜日の昼下がり、新宿二丁目の仲通りを歩く一人の女性がいた。スパンコールがキラキラと輝く黒いセーターに、じゃらじゃらと揺れるイヤリング。着飾ったゲイたちをさしおいて、一番目立ちながら、ルミエールの横をすぎて交差点へと向かっていく。
彼女の名前は飯田真美(45/2006年当時)。東京都の職員で、3年前から都のエイズ対策を担当している行政マンだ。この日は、月に一度開催されているイベント「Living Together Rounge」に、HIV感染者の手記の朗読者として呼ばれていた。
交差点にさしかかったところで、イベントの関係者を見つけると、飯田は手を振り大きな声で言った。
「ごめんなさーい、今日はハデな格好してくるつもりだったんだけど、職場から来たから地味になっちゃった」。
それを聞いたスタッフと、その場にいた飯田の知り合いは、苦笑いしながら、
「真美ちゃん、十分ハデよ!」といい返す。
「あれっ、そう? あははっ」。
飯田はとぼけた笑顔で笑い声をあげながら、周りの人たちに囲まれて会場へと入っていった。
しばらくしてステージの上には、さっきまでとは打ってかわって、真剣な表情をした飯田の姿があった。
簡単に自己紹介をして椅子に腰掛けると、ひとつひとつの言葉を掬い上げるように、朗読をはじめた。飯田の声がスピーカーを通して響き、ざわざわしていた会場がしずかになっていく。
彼女が朗読したのは、20代と40代の感染者が、それぞれの親に向けて書いた手記だった。HIVであることを受け入れ、抱きしめてくれた親への感謝を綴ったものと、心配をかけたくないから言わずにいようという気持ちを綴ったもの。対照的な、その二つの手記を読み終わる頃、会場からは鼻をすする音が聞こえていた。
イベントが終わり、にぎやかさを取り戻したフロアの片隅で、飯田はひとり、手記をぱらぱらとめくっていた。手にもったビールにもあまり口をつけず、しばらくその冊子を眺めてから、ふっと顔をあげてこうつぶやいた。
「これ読むとね、いっつも励まされるの。あたしも頑張らなくちゃって」。
そういう飯田の目は、うっすらと赤くなっていた。
実は飯田自身もいま、身体を蝕む大きな病気と闘いつづけているのだ。
飯田が都のエイズ担当に着任してから3年。飯田にとってこの3年は、感染が拡がり続けるHIVと闘い、自分自身を襲った病気と闘う日々であった。
●ニ丁目ってどんなところ? 行ってみたい!!
飯田がはじめて二丁目を訪れたのは、2003年の6月。エイズ対策担当に着任してすぐのことだった。
エイズ対策の担当といっても、それまで企画の仕事や、廃棄物処分場の環境対策などを担当してきた彼女は、「エイズとHIVは違うものだ、くらいのことしか知らない」という状態だった。そんな飯田がまっさきにやったことは、感染者の大半を占めるゲイが集まる、新宿二丁目を訪れることだった。もちろん仕事として、という事ではあるのだが、飯田の場合は、それよりも好奇心のほうが強かった。
「どんな人が集まる、どんなところなんだろう。行ってみたい。そう思って、二丁目に行きました。でもどこに行ったらいいのかわからないから、まずはaktaに行って、いろいろ教えてもらったんです」。
当時、二丁目にあるコミュニティスペース「akta」で職員をしていた今井は、はじめて飯田に会ったときの印象をこう話す。
「新しい都の担当者が来るというので、どんな人かと思っていたら、現れたのがアロハシャツに、耳がちぎれそうなくらい大きなイヤリングをしたやたらとにぎやかな人で。なんだかすごい人が来ちゃったなぁと思っていました。でもその場にいた子たちとすぐに仲良くなるし、居ると周りの雰囲気が明るくなるし、面白い人だと思いました」。
飯田は二丁目にちょくちょく足を運んでは、そこに集まるゲイと話をしたり、あちこちのゲイバーをのぞいたりするようになった。明るく、歌とお酒が大好きで、分け隔てない人付き合いをする飯田は、誰とでもすぐにうち解けた。あっというまに、二丁目を歩けば「真美ちゃん」「真美ちゃん」と声がかかるようになった。
ゲイバーにコンドームを配布してまわる「デリヘルボーイ」の一人は、飯田の事を「お母さんみたいな人」だと話す。「飯田さんの家に集まってご飯を食べたとき、『普段食べてないんだから野菜を食べなさい』って、頼んでもいないのにいっぱい取り分けてくれて(笑)。いつも差し入れを持ってきてくれたり、声をかけてくれたり、優しい人だなあって思っています」。
●毎日増える感染者、「ぼんやりなんてしていられないんです」
行政マンとしての飯田のスタンスは、一貫して「現場主義」だ。エイズ対策の前に担当していた、廃棄物処分場の環境調査でも、率先して地域住民の輪の中に入り、彼らと共に、現場で泥だらけになりながら仕事をした。
「現場は大好きです。100枚の書類に目を通すよりも、1回現場に行って、その場所を見たり、そこにいる人と話したほうが、はるかにいい情報が手に入ります。机にいることが多い職員もいますが、わたしは机に向かっているのが嫌いだから、すぐに飛び出して現場に行っちゃいますね」。
エイズ問題を担当するようになってからもその姿勢は変わらず、HIV感染の機会が集中する繁華街にターゲットを絞ると、二丁目のみならず、歌舞伎町や渋谷のセンター街を訪れ、その場に集まる若者たちに目を向けた。また、地域に働きかけて、街頭ビジョンでのCM放送やポスターの掲示などを行い、HIVについての講演やセミナーを要請されれば、どこへでも出かけていった。
生の声を大事にする飯田の姿勢に対しては、現場からの信頼も厚い。「akta」の常駐スタッフである張由紀夫も、これまで飯田と共に仕事をしてきた一人だ。彼は飯田についてこう語った。
「行政の人っていうとあまりいい印象を持たない人もいますが、頑張っておられる人はたくさんいるんですよ。でも飯田さんのように、仕事だからというんじゃなくても二丁目に飲みに来て、遊びに来て、ゲイと仲良くなっていった人は今までいませんでした。仕事でも、飯田さんは僕たちの言葉に真剣に耳を傾けてくれるんです。たとえば、それまでのポスターがいまいちだったので、もっとおしゃれで伝わるメッセージにしたほうがいいと提案すれば、僕たちのアイディアを取り入れるために、内部で動いてくれたりして。相談もしやすいし、協力的だし、とても素敵な人です」。
また、自身もゲイでHIV陽性者であることを公表し、現在日本HIV陽性者ネットワーク「JaNP+」の代表を務める長谷川博史も、飯田の行政マンとしての姿勢を評価している。
「飯田真美は、誰に対してもまったくバイアスを持たずにつきあうことが出来る。そういう人はなかなかいないものです。そういう資質を持って、公平な判断を下せるのだから、とても有能な行政マンですよ」。
飯田の机には、毎日のように新たなHIV感染者を報告する紙が積まれていった。そんなHIVの現状を知るにつれ、飯田の危機感は強くなっていく。毎日仕事は夜中までつづき、土日も関係なく働いた。気を抜いているスタッフを見つけると「ぼーっとしている間にも、感染者が増え続けているんだよ!」と、叱咤することもたびたびだった。危機感は、義務感に近いものだった。
「それが私たちのやるべきことなんですから、そのくらいやるのは当然ですよ。世界では6秒に一人、東京でも1日に一人ふたりが感染しているのに、ぼんやりなんてしていられないんです」。
●居場所のない寂しさに気持ちを寄せる
HIVという話題をきっかけにゲイと話していると、共感を覚える話に出会うことがたびたびあった。親との関係の話だった。
飯田の父は開業医で、母は看護婦だった。大正生まれの父親は厳格で、女たるもの家庭で夫に尽くすべきだという、昔ながらの考え方の持ち主だった。
幼い頃から活発で、家でおままごとをするよりは、男の子と一緒に外を走り回るのが好きだった飯田に向かって、親は「女の子らしくしろ」と繰り返した。勉強にしても「女の子は勉強なんて出来なくたっていいんだ」と言い、その一方で、優秀だった4歳年上の兄をちやほやした。親に悪意はなく、むしろ女性として幸せになってほしい気持ちからのことだったのだが、当時の飯田が感じたのは、自分には居場所がないという寂しさだった。
「私がやりたいことはなんでもダメだと言うんです。可愛がられ、褒められるのはいつも兄。だから私は居場所を感じられなかったんですよ。だんだんと家にいるのがつらくなって、それで余計に、外にばっかり居るようになりました」。
早くから自立したいと思い、親の薦めで入った中高短大一貫のお嬢様学校を、中学で出てしまう。高校は都立に進み、学費が浮いた分、大学は私立に行きたいと申し出た。声楽の道に進みたかったのだ。
「でも、それもダメだと結局は言われてしまいました。私立でも薬学部ならいいということになって、大学に進んだんですが、声楽は続けたかったのでバイト代でレッスンに通っていましたよ。今も教会の聖歌隊で歌っています」。
ゲイの若者の話を聞いてみると、家族のしがらみがめんどうで親元を離れたという話が多かった。ゲイだということを親に言えない。言っても否定されてしまう。おまけにHIVに感染しているなんて言おうものなら、追い出されるかもしれない。それなら一人でいたほうが楽だ。彼らのそんな言葉に、昔抱いた自分の気持ちが揺り起こされた。
「私も同じように考えていたなぁと、あのころの気持ちを思い出しました。彼らのほうが大変ですよ。でも彼らの居場所のない寂しさとか、伝わってくるんです」。
HIVの問題は、ただ病気としてだけの話ではない。飯田にとって、HIVに向き合うことが、自身のライフワークとなっていた。
●「副作用があるから薬が効いている」に涙した日
連日、夜おそくまで精力的に働いていた飯田を、不意に病魔が襲ったのは、2005年の春だった。乳ガンだった。病気がわかるとすぐに入院、手術となった。
病気が発覚しても、そのことをほとんど誰にも告げず、ひとりで手術に向かった。それだけでなく、退院後ふつうなら1週間以上休暇をとるところ、飯田はわずか2日休んだだけで職場に戻った。まだふさがらない傷をかばいながら、それでもすぐに仕事を再開したのは、病気を理由に休むわけにはいかないという執念からだった。
「私が休んでいる間にも感染者は増える。そのことに言い訳は通用しないんです。だから病気が理由でも、仕事に穴を空けたくありませんでした。だって、私より大変な思いをしている人はいっぱいいるんです。自分が病気に負けるわけにはいきませんよ」。
退院後も、通院と投薬による闘病生活をつづけながら、これまでと変わらず仕事をし、友だちづきあいや、飲みにいくことも変えなかった。病気のために、これまで自分が築いてきたものを変えることが許せなかったのだ。
しかしそうはいっても、抗ガン剤の副作用は強く、闘病が長くなるにつれて、体のあちこちに影響をおよぼしはじめる。外では明るく振る舞っていても、家で落ち込むことも少なくなかった。
「私は薬剤師の資格をもっているから、薬にどんな副作用があるかは、人よりもよく解っているんです。でも、ただ知っているのと、自分でそれを体験するのとは全然ちがいました。朝、シャワーを浴びると、水と一緒に自分の髪の毛が流れていくんです。ショックでしたね。『ああ、こんなになっちゃうんだ』って、涙が出ますよね」。
そんな飯田の目に留まり、心の支えになったものがあった。HIV感染者が、ある冊子に書いた一言だった。
「『副作用があるから、薬がちゃんと効いていることを感じられる』という一言でした。それを見つけたとき、ハッとしました。副作用を薬が効いている証拠だと思えれば、がんばれる、そう思わせてくれたんです。このときほど、エイズ対策の仕事をやってきたことに感謝したことは、ないかもしれません」。
いまも闘病は続いているが、外では弱気なところをいっさい見せない。飲み友だちでもある今井に対しても弱音を吐くことはないという。
「だれか弱音を吐く相手でもいればいいんですけどね。僕ができることは一緒に飲みに行って、楽しい時間を一緒に過ごすことだけです。それを彼女が喜んでくれているなら、いいと思ってます」。
●「みんなちがってみんないい」
二丁目で行われた朗読のイベントで、HIV感染者の手記を二つ読んだあと、飯田はこんな話をした。
「世の中には、いろんな考えや悩みをもった、いろんな人がいます。HIVというものひとつとっても、それに対して考えること、行動、悩み、それぞれ違います。わたしも昨年、大きな病気をしまして、そのときに、これまでの生き方だったり、考え方だったり、いろんなことを思いました。
私が小さい頃に聴いた詩の中に、『みんなちがって、みんないい』という一節があります。金子みすゞの『わたしと小鳥とすずと』という詩の一節です。わたしはこの言葉が大好きで、この言葉にずっと支えられてきました。だから、こういう機会があると、いつもこの言葉を紹介しています。
みんなそれぞれ違う人間です。同じである必要なんてありません。だから、ありのままでいればいいんです。誰かの目なんて気にする必要はないんです。これまでのことで、なにかを後悔することはないし、考え方に正解も間違いもありません。どうか、今の自分を受け入れて、そして大事にしてください」。
天井ではミラーボールが回り、フロアをキラキラと輝かせていた。飯田は、照らされた一人ひとりを見つめるように、視線を動かしながら、穏やかな口調で語りかけていた。
マイクを通した声は会場にひろがり、やがて残響となって消えていった。(了)
【2013.10 追記】
7年前、飯田さんを取材させていただき、書かせていただいたルポルタージュのタイトルに
「闘う」という言葉を使いました。
飯田さんはまさしく、常に闘っている方でした。
当時担当していた仕事ではHIVの感染者増加という問題と闘い、
ご自身は病魔と闘い、どちらも、どうしてそんなに、と思うほど真剣でした。
一方で、飯田さんは誰とも闘わない方でした。
もちろん仕事上で誰かとぶつかることはたくさんあったはずですが、
人そのものと闘うことは決してせず、どんな人でも、どんな考えでも受け入れ、
そこに愛情をもって接し、両手を広げて受け入れる方でした。
だから、飯田さんの周りには、
飯田さんを母のように慕う人たちがたくさんいたのだと思います。
原稿の最後は「残響となって消えていった。」という一文で終わらせました。
いま思えば死を予見するような、残酷とも思える締めくくりの文です。
これを書いたとき、飯田さんの余命がきっと長くないことを意識していました。
命を削るように闘いつづけ、そして人を愛し続けた飯田さんを、
真剣に書こうと思えば思うほど、病魔との闘いの先に飯田さんが見ているものから、
僕自身も目をそむけることはできませんでした。
原稿をご確認いただいた際、飯田さんは僕に、
目にうっすら涙を浮かべて一言「ありがとう」と言ってくれました。
このルポルタージュを、改めて飯田真美さんに捧げます。
田辺貴久 たなべ・たかひさ
1982年、千葉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。都内の出版社で会社員をするかたわら、ライターとして活動。『QUEER JAPAN returns』には0号から参加し、ルポルタージュと写真を担当。