2004-11-11
メール添付と自由と相互依存
メールへの添付という習慣が相変わらず多いような気がする。
で、添付って、いちいち開くのが面倒だ(あ、ウィンドウズや、アウトルックなんか使ってると自動的に開いてくれるのかな? そうだとしたら、ウィルスなんかにやられやすくなるよな)。
メール添付が必要な理由は、
(1)メール本文では表現できないものを送りたい。画像なんかそうですよね。ワードで、タイトルをでっかくしたり太くしたりフォントを買えたり、箇条書きのアタマの部分を字下げしたり、はワードじゃないとただしく表現できなかったりするんで、ワードファイルの状態で送りたい。
(2) 長い文章だと、ダウンロードするかしないを、メール文章をよんでから判断したい。
みたいなことじゃないかなと思う。
(2)は、通信スピードが遅かった時代の「習慣」なんじゃないかな。
ほら、前はメールタイトルのはじめに「長文注意」とか「長文です」とかわざわざつけてたよね。
まず、タイトルだけダウンロードして、それから本文をダウンロードするかどうか一通ずつ決めてた。だけど、 ここまで全体のスピードが上がってきたんで、メール本文が長文だって問題ないと思う。
(1)については、画像なら添付するしか方法がないんだからいいんだけど、ワードとかはチラシみたいなデザイン保持が大切なものは別にして、太くしたりしない表現方法でテキスト形式で書けばいいのに。本文にあればメールソフトで全文検索もできるしね。
で、昨日出版業界の[偉いさん]たちとの打合せのときに、「その原稿の回覧は、添付じゃなくてメールに貼付けてくださいよ」みたいなこと言ったら、「それはどうやってやるの?」ってツコッマレタ。
あ、そうだ、知らず知らずに、あるいはなんとなく添付を利用してるんだ、。
それって、「こうすることもできますよ」とか「こうしたほうがいいんじゃないかな」って、教えあうこと、「自慢」しあうことがない、ってことなんじゃないかなって思ったんです。時間がないとか面倒ってことがあると思うけど、「出しゃばっちゃいけない」とか「人の行為に介入することは、その人の自由をおかす」みたいな感覚が大きな理由になっているんじゃないかな?
一人ひとりは自由だ、ということを徹底的に押し進めた先に、いい感じの「相互依存」があるんじゃないかな、と思えてならない。
または、一人ひとりの自由と、相互依存は共存できるんじゃなかなって。
ポットの社内でも、他のメンバーのパソコンの操作とかみて「え、そんなやり方があったのか?」ってあるもんね。
社内の洗濯物を干すときに話してると、その人なりのルールがあったりして面白かったりするし。