さて、バリアフリーシアタージャパンにとっての素敵な未来とは、いったいどんな未来でしょうか。
答えは、「映画、演劇という言葉の意味が、今と違っている未来」。
そりゃそうですよね。だって、今、映画を目が不自由な人が見るということは、多分、想像のそとにある、という人が多そうです。ということは、その人々にとって、映画とは、「目に不自由のない人が見るもの」という定義が、その人の中に、確実にあるわけですよね。
だとすると、映画の定義が、「目が不自由な人も見るもの」というふうに、変化する必要があるわけです。演劇も、同じことが言えます。
とすると、そのことで、変わるのは、劇場だけではないのですね。
たとえば、演劇学、映画学。演劇学科や映画学科で教えることの内容も、当然変わりますね。演劇概論、なんていう講義があったとすると、そのテキストを開くと、多分4つ目くらいの項目に、「すべての人が見る演劇デザイン」なんていうのがあるわけです。創り手側の意識が、変わるわけですね。そうすると、創り手側の世界観に、なんらかの影響がでてくると思います。世界観の変化、これは、大変興味深いテーマです。
それから、先日の中教審の教養教育についての答申の中にも、演劇や映画を見るという項目がありました。この答申については、いろいろ考え方もあると思いますが、私としては、すべての人が、教養を身につけることができるように、システム整備をしてほしいものだと思います。
たとえば、今後、ホームレス家庭などというのは、登場するのでしょうか?すでに存在しているのでしょうか?そこのところは、私はよくわからないのですが、ホームレス家庭に育つ子どもにも、ぜひ教養を身につけてほしいものだと思います。
でも、いったい、教養って何なんでしょう??と、気になりますが、まあそれはそれとして、ホームレス家庭の子どもが劇場に行くためには、やはり、空間を共有するわけですから、周囲に違和感を与えないように、お風呂に入って、服を着替えて、出かけてきてほしいです。それは、システムとして、できることですよね。そういうサービスを連結すれば、可能なことです。
それから、当然、観客として来ている人々の意識も変わります。
先日、あるパフォーマンスに、目の不自由な方が招待されたのですが、主催者からは「必ず付き添いの方と来てください」というお願いがあったそうです。その場合は、劇場のスタッフが、いろいろ対応できないという理由で、そうなっていたようです。でも、ほんとだったら、一人で行けるなら、行きたいこともありますよね。
それから、弱視の人が、もっと視力の弱い人、場合によっては全盲の人とを誘導したり、いっしょに行動することも、よくあることです。そういう場合は、劇場まで出かけたり、という移動はできるけれども、たとえば、ロビーの掲示の文字は読めない、ということもあります。そういう観客がたくさん映画館にくるようになって、よく見かけると、当然、人の意識、は変わると思います。
この世界というものに対するイメージも変わるでしょう。
この世界というものは、弱視の人が、全盲の人を誘導して歩き回っている場所なのだと。
今現在も、この世界は、そういう世界なのですが、そのことを、みんながリアルに感じる世界。
これが、素敵な未来です。
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