2009-11-10
お部屋1981/図書館の中では見えないこと 10・国会図書館がカバーや箱を捨てている事情【追記ありあり】
1963/多摩図書館廃棄本問題と「書影使用自由」の表示
1966/廃棄本・里親探しの実情
1967/改めて地域資料を調べてみる
1968/除籍予定本の大半は多摩の資料ではないのでは?
1969/図書館の中では見えないこと 1・図書館はコンビニである
1970/図書館の中では見えないこと 2・こんな図書館があったら
1971/【必読】多摩図書館廃棄本についての正確な情報
1972/図書館の中では見えないこと 3・図書館の本はC級品
1973/図書館の中では見えないこと 4・図書館と税金
1974/情報を訂正するためのツール
1975/図書館の中では見えないこと 5・断裁の現在
1976/図書館の中では見えないこと 6・私設図書館とコレクター
1977/図書館の中では見えないこと 7・本は商品である
1979/図書館の中では見えないこと 8・デジタルとアナログ
1980/図書館の中では見えないこと 9・国会図書館は保存に徹すべし
今回で終わりです。どうせ私ごときが言ったところで、「本を廃棄するな」という人たちは引き続き主張し続けるのでしょうから、これ以上言い続ける意味はないです。最初から意味はなかったんですが、言っておかないとスッキリしないものですから。
どうせ何を言っても無駄と諦めていたテーマであって、成り行きでこうも長くなっただけのこと。このあと当面は図書館については触れないでしょう。デジタル化の問題があるので、それだけは取りあげるかもしれませんが、その辺の話は「マツワル」でやっているので、「黒子の部屋」ではたぶんやらないと思います。
そういえば今月は「マツワル」の募集月間です。そのうち思いつきで始めますので、規約でも見ておいてください。
最初に言っておきますが、今回は長いです。とっとと終わらせたいものですから、一度に出します。
以下、一利用者として電話で問い合わせたものです。ほとんど利用していないくせに。
代表電話から担当部署に回されました。
「国会図書館はカバーも箱も捨てていますよね。それについてお聞きしたいんですが、管理規程みたいな成文化されたものがあるんですか」
「いえ、成文化されたものはないです」
これは驚きです。定めがあるがために、容易には変更できないのだとばかり思ってました。だったら、「せえの」で今日から箱やカバーを保存することが可能なわけです。「どう保存するのか」の検討はあるにせよ、沢辺さんが言っていた方法だったら、すぐにでもできましょう。
「では、どうして捨てているんですか」
「国会図書館の考えとしては、本の中身を保存するということなんですよ」
「だから、外側は捨てていいのだと」
「ただ、すべてを捨てているわけではないです。本のカバーにも本の中身に相当するものがついている場合は残しています」
「文章が印刷されているってことですか」
「単に文章が出ているだけではなくて、今思いつくものとしては、国旗に関する本があって、カバーの裏側に国旗が印刷されているんですよ」
なるほど、本文にはカラーページがなく、色つきの状態はカバーの裏で確認するわけです。カラー印刷かどうかわからないですが、たぶんそうなんでしょう。
「箱も同じで、別冊が箱についているようなものは保存しています」
N式の箱で、フタ部分の裏側に冊子が貼付けられているようなものがうちにも何かあったはずです。
ここで私は思い出しましたが、国会図書館には帙のついた和本があります。
「帙も残してますよね」
「はい、残しています」
和本は腰が弱く、通常は横に重ねて保存するのですが、帙があれば縦に並べられて、取り出しやすい。
「そういうもの以外は捨てていると」
「そうですね」
「管理しやすくするためですか」
「開架式の図書館ほどではないですが、箱はトラブルが起きやすいんですよ」
スペースの問題ではなく、管理上の問題であることは想像できていました。
箱付きの本を貸し出しすると、「箱だけうちに忘れた」ということが起きます。複数の本を借りた場合、中身と箱を入れ間違える人が出てくることも避けられない。開架式だと、わざとイタズラをするのもいましょう。
国会図書館でも、返却の際に、箱と中身を入れ間違える可能性があります。一度書架に戻されたら、あとが大変です。それを避けるためには、いちいち中身と箱を照合しなければいけない。仕事が増大します。
紐でつなげたりしたら、邪魔でしょうがないし、その作業にも手間がかかる。箱を書架に置いたまま、中身だけを利用者に渡すにしても、入れたり出したりで、やはり仕事は増大。
また、どういう方法をとるにしても、利用頻度の高いものは本の出し入れが激しいため、箱が破損しやすく、その補修にも手間がかかります。
「だったら、ない方がいいべ」というのが国会図書館に限らない図書館の考え。現に箱を残しているものもあるのですから、人員の余裕があれば、できないわけではないにしても、効率を考えたら捨てた方がいいということです。
「しかし、少なくともカバーは残してもいいんじゃないですか。一般の図書館ではそうしているんですから」
「そういう図書館ではビニールを貼付けていますね。国会図書館の考えとしては、本は発行された時の状態で保存するということですから、カバーにビニールを貼る発想はないんです」
「だから、捨てていいっておかしくないですか。発行された時の状態で保存することに反していますよ」
「ああ、そうですね」
なんか言わなきゃいけないと思ったのでしょうが、墓穴を掘りました。
そこで私がフォロー。
「勝手な想像なんですけど、昔の方式が残っているだけなんじゃないですか」
「おっしゃる通りです」
では、詳しく説明しておきましょう。
国会図書館の前身である貴族院図書館、衆議院図書館の時代からのやり方がそのまま残っているのだと思います。
明治半ばまでの本には今我々がイメージするようなカバーも箱もありません。時折、この時代のもので、薄茶けた半紙みたいな紙がついているものがあります。たぶん書店では、あの紙がついた状態で売られていたんだと思います。図書館で繰り返し読まれているうちに、あんな紙はどうせとれてしまいますから、保存する発想がなかったのは当然です。
本に箱がつき始めるのは、明治の末期かと思います。この頃から大正初期までの箱はいたってシンプルです。タイトルだけが書かれていて著者名さえない。飾り罫みたいなものない。中には文字が一切ないものもあります(あとでつけられたものなのだと以前は思っていたのですが、たぶん最初からついている箱なのだと思います)。
この頃は本屋でも面出ししていなかったのでしょう。背の文字だけで本を判別する。
時期から考えて、このような箱は輸送用に発達したものだと推測できます。それまで本はそれぞれの地域で発行されていたのですが、長距離を移動することになって、傷みやすくなります。輸送を終えたら存在理由がなくなりますから、購入したら、すぐに箱を捨てることもあったかもしれない。
中には箱とは別にカバーがついたものもありますが、このカバーもペラペラの紙ですので、保存することは難しく、捨てることに抵抗はない。和本の紙カバーみたいなものです。と言っても見たことがない人には想像しにくいでしょうが、ネットで探せばどこかに出ているでしょう。
大正の半ばくらいから、箱にタイトルや絵が印刷された紙を貼付けたものが出てきたり、箱そのものに凝った紙を使うものが出てきて、今までよりも装飾的なものが増えます。
さらに、昭和に入ると、雑誌に続いて本も書店が返本できるようになりますから、版元としては、箱をつけておかないと、本が傷んで再出荷がしにくい。箱をつけておけば、傷んだ箱を交換すればいいだけ。
と同時に箱は単なる機能を超えた表現になっていきます。もちろん、「売るため」という機能はあるわけですが、本の本体にも革を使ったものや、凝った布を使用した本が登場し、美しい本の時代が到来です。
それでもこの頃はなお箱は純粋な防護用でしかなかったことは、通販で販売されたものの中に、郵送用の無地の箱しかついていないものがよくあることでもわかります。ここに住所と名前を書いて郵送します。当時のエロは、好事家用が多いため、ビロード張りだったり、総革装だったり、本体は思い切り凝っているのですが、郵送用の箱しかないのです(そういったものの中にも凝った箱がついているものももちろんありますが)。
こういったものや廉価本、文庫のような小型本や冊子のようなものを除いて、太平洋戦争が始まる頃までは多くの本に箱がつけられるようになります。新書サイズの小型本にも箱がついているものがありますし、10冊なりなんなりをまとめて箱がついていることもあります。
しかし、すでに「箱を捨てる」ということで管理が定着していたため、また、箱があるとやはり邪魔なため、そのまま捨て続けたのでしょう。
戦後になって、国会図書館ができた時は、これを改善する絶好のチャンスだったはずなのですが、昭和20年代は箱もカバーもない時代です。物資がないですから。見直す契機としてはタイミングが悪すぎました。
戦前から帯のついたものはありましたが(うちにあるものに限って言えば、帯は本より雑誌のものだった印象もあります)、広くつけられるようになったのは戦後のことです。
当時の本は箱もカバーもないシンプルな作りです。カラー印刷のものでも、直接表紙に印刷しています。戦前のものに比べると、あまりにチープで殺風景です。そのため、見栄えをよくする飾りとしてのパーツ、また、宣伝用のパーツが欲しい。帯だったら、カバーをつけるよりは安い。帯の紙質がまた悪く、こんなもんは所詮宣伝用ですから、捨てることにためらいはない。宣伝物が不要なら、所詮商行為の産物である本を保存すること自体否定すべきかとも思いますが。
昭和20年代半ばでも、箱つきカバーつきの本はありますが、数は少なく、とくにカバーは紙質が悪いため、現存している本のほとんどが裸本というものもあります。きれいなデザインのものもあるんですが、耐用性の低さを考えると、やはり保存する気にはならなかったでしょう。
昭和30年代以降は箱つきと、カバーだけの本に分かれていき、ここ20年くらいはほとんどがカバーだけ。このカバーも本を守りつつ、改装(再出荷のために本をきれいにすること)を楽にするための工夫です。
流通が違うため、海外では箱があまり見られず、カバーも日本ほどの重きがない。帯のついたものもありますが、決して多くはない。
そもそも海外のソフトカバーはカバーがない。「だからカバーなんて捨ててもいい」ではなくて、委託のために「返本→再出荷」が生じてしまう日本の書籍の特徴であり、日本の出版界が発展した理由がここに凝縮されているとさえ言えるのですから、箱もカバーも帯も残すべきあり、海外のソフトカバーの表紙をわざわざ外すことがあり得ないように、日本の本はカバーを外しては成立しません。裸本は二度と出版社は出荷せず、古本市場でもC級品でしかないことはすでに書いた通り。
なおかつ、箱やカバーはそれ自体が表現であり、時に著作物なのですから、これを軽視するのは、表現の軽視、著作物の軽視に他なりません。
以上の話は、私が以前から考えていたもので、国会図書館公認の話ではないので、誤解なきよう。あっちが言ったのは「おっしゃる通り」だけです(正確な時期などを改めて確認して書いたわけではないので間違いがあるかもしれません。ご指摘いただければ訂正を入れます)。
「でも、昔と今では、カバーの位置づけが全然違いますよね。カバーがあっての本じゃないですか」
本が安価なものになってしまったため、本体を布張りにしたり、革を使用したり、天を金箔にしたり、本文二度刷りにしたりといった工夫ができにくくなった分、カバーで自己主張するしかなくなってきています。
これに対してはあっさりあちらも同意。
「たしかにそうです。今は漫画のように、表紙は真っ白で、何も書かれていないものもありますよね」
「ありますね。漫画以外でもそうです。国会図書館の本の味気なさについては、インターネットでも多くの人たちが指摘してますよ。それについて改善しようという動きはないんですか」
「内部でも、カバーや箱を残すべきではないかという意見はあるんですが、具体的に変更する話にはなっていないです」
「デジタル化が進めば進むほど、国会図書館は本を完全な状態で保存する意義が出てくるし、いずれは閲覧させなくてよくなるかもしれないんですから、今からぜひ改善してください」
と要望を出しておきました。一利用者がそんなこと言っても変わるはずがないですけど。
以上が国会図書館への問い合わせ電話です。場合によっては怒鳴り合いになるかと覚悟していたのですが、大変穏やかな問い合わせでありました。予想できる内容だったので、突っ込むところもあまりありませんでしたし。
ただし、成文化されたルールに基づいたものではなかったことだけは意外でした。なにもこんなところで一世紀も前の伝統を守り続けることはあるまい。
あくまで私の印象では、改善する契機がなかっただけのようです。長年続けてきた作業を変更するのはきっかけがないとなかなかできないものです。今まで自分たちがやってきたことを否定することにもなるわけですから。
自分がやってきたことが無駄だったと思いたくないのは十分わかります。エロ本を集め始めるきっかけが国会図書館にあった私にとって、いまさら国会図書館が「予算をとったので、これからエロ本の収集に力を入れます」と言い出したら、正直いい気持ちはしないです。「おめえんところがやんないので、ワシは何十年もかけて集めてきたのに、今までの時間と労力と金はどうしてくれる」って気分になります。
それでも、箱やカバーを捨ててくれていれば「やっぱりオレがやらなきゃ」と思えますが、その上、完本を保存されては「オレの人生はなんだったんだろう」と死にたくなります。
それでもそうすべきです。「今まで保存してきた本は欠陥品だったのか」との辛さを乗り越え、涙を拭きながら、完本の保存はやって欲しい。私も泣きながら応援します。
そのきっかけは、全国の図書館長が要望書を出せば改善され得る程度のものなのかもしれない。個別にはそういう意見を持つ図書館員はいたでしょうが、現に今もカバーも箱も捨てられ続けていますから、契機になるほどの動きはなかったと言ってよさそうです。
それが日本の図書館なんだと思うんですよ。それでもなお「本をタダで読める場所」としての図書館の機能を私は肯定しているんですけど、図書館関係者が「資料の保存」なんてことを言えば言うほど、「ナニ言ってんの? 国会図書館くらい完本を保存するようにしてからそういうことは言ってくださいよ」という腹立たしさを拭えない。
もちろん、箱や帯やカバーに対する評価については個人差があって、「ブツは表現を定着させ、伝えるために必要だったものであって、そこに価値はない」という考え方もあっていいし、それはそれで理解ができます。電話の回答を見ていただければわかるように、国会図書館もそうだったんだと思います。
こういう人たちは、デジタル保存によって、多数のブツを保存する意義はないと判断するはずです。内容さえ保存できればいいわけで、デジタルの予備として1冊か2冊あればいいだけ。
これに関わって、「本のカバーや箱は流通上発生したもの、あるいはより売るための商業的な工夫に過ぎない」という意識も図書館員の中にはありそうです。しかし、ここまで強調してきたように、ほとんどの本は商品であって、「売れるかどうか」で選別されてきた商業出版の産物でしかないわけです。それを私は全然悪いこととは思っておらず、「本は文化である。対して箱やカバーは商業主義の産物である」という考えかたこそ間違っていて、両者は一体となって商品として成立しています。
あるいは「保存すべきだったが、今まではしょうがなかった」という意見もわかります。カバーだって、今図書館がやっているようにビニールシートをベッタリと貼付けておかないと、利用者で捨てるヤツが出てきたり、自分の本のカバーが傷んだために図書館の本と交換するヤツも出てきます。必要なページを破っていくヤツがいるくらいで、図書館利用者は信用できず、そんな人たちに閲覧させる限り、完本の保存は難しい。
しかし、ここまで書いてきたように、完本保存が可能になる条件が整いつつあるのですから、ここにいたってなお「しょうがない」と言い続ける根拠は薄くなってきています。
早ければ早いほど、今ある国会図書館の蔵書を完本に交換していく手間が省けますから、早急になんとかした方がいいと思う。
しかし、国会図書館はプライドが高そうなので、外からの動きが先行すると、かえって頑になりかねず、自らこっそりと方針を変えてはどうか。なんら成文化されたものがない以上、そうしたってかまうまい。
管理方法を転換したことを公表すると、「だったら、今まで捨ててきたことの責任は誰がとるんだ」と言い出す人たちも出てきそうです。
かといって公表しないわけにもいかないのでしょうから、国会図書館の掲示板に12級くらいの文字で、「これまで箱、カバー、帯などを廃棄してきましたが、本をめぐる環境の変化とデジタル化の進行、および利用者の強い要望により、保存することになりました。よろぴく」と書いたメモ用紙でも貼っておけばよい。
以上。
追記1:たった今、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」(11月10日23時〜)で爆笑問題が国会図書館を訪れて、長尾館長に話を聞くというのをやっているのですが、私が好きな装釘家にして書物研究家である斎藤昌三による蓑虫装、自署の海苔装などの「ゲテ装」を紹介していて、ブチ切れました。本の装釘なんてなんの意味もないと考えて、斎藤昌三の手による箱も捨ててきたのが国会図書館じゃないんか。都合のいい時だけ取り上げやがって。なお、斎藤昌三は、「装釘」は、装丁つまりグラフィックデザインだけではなく、造本を含める言葉と定義していたはずですので、ここでも「装釘」を使用しました。
追記2:長尾館長は「本はブツであって、デジタルとは違う」と言ってますが、そのブツを軽視してきたのが国会図書館じゃないんか。
追記3:爆笑問題は詳しい事情を知らされていないのでしょうが、現在、国会図書館で進んでいるデジタル化ではOCRによるテキストデータ化をしないことになっているため、本文検索ができません。生放送じゃないんですから、あたかもできるかのような誤った情報を流すのをなんで放置するかな。どうしてそんなバカな計画が進行しているのかについては「1979/図書館の中では見えないこと 8・デジタルとアナログ」 に追記しておきました。
追記4:エロに限らず、国会図書館にはすべての本が収蔵されているわけではなく、「1969/図書館の中では見えないこと 1・図書館はコンビニである」に書いたように、うちには全号揃っている戦前の実話誌が、国会図書館には1号もないような例はいくらでもあります。 なのに、どうして「全部の本がある」という爆笑問題の発言を訂正しないかな。「すべての出版物を所蔵する」というのは建前でしかなく、出版物にしっかりランクをつけていることを恥ずかしいとは思っているんでしょうが、事実は事実。
やっぱり信用できねえ、国会図書館。
追記5:ついでに斎藤昌三の本や、斎藤昌三がやっていた書物展望社のものがどのくらい国会図書館入っているのか調べてみました。斎藤昌三の著書については、『明治の時計』など少部数のものや雑誌の付録で出されたようなもので欠けているものがチラホラあるようです。また、書物展望社のものは、どれが抜けているのか探すのが面倒なので特定はしてないですが、数からして、数冊抜けがあるようです。また、国会図書館ですから、当然と言えば当然ですが、異装本をすべて揃えているわけではないです。それでも、だいたい入っていると言ってよさそう。こういうところはしっかりしてます。しかし、書物展望社の本もすべて箱を捨てているのかなあ。だとしたら、信じられないです。
追記6:さて、その翌日。昨日は、テレビの映像がちらついて、ホントに寝られなくなりました。ここまでのムカつきを感じたのは、「図書館の中では見えないこと」を書いてきた私よりも、愛書家としての私かもしれません。
ここまで国会図書館について書いてきながら、愛書家としての視点は極力抑えてました。それは個人が趣味でやればいいことであって、国に求めることではないので。箱やカバーを保存すべきという考えも、価値のある装丁のもののみに制限しているのではなく、くだらないカバーでも保存すべきってことです。
しかし、昨日のテレビを見て、抑えていたもうひとつの視点が出てきてしまって、「斎藤昌三の本まで箱を捨てているのか。表紙にシールを貼っているのか」と思ったら、血管が切れそうになりました。ここでは、橋口五葉でも武井武雄でも誰でもいいんですけど、たまたま斎藤昌三は詳しいもので。
そもそも小島烏水著『書斎の岳人』(蓑虫装)は全集に入っているし、斎藤昌三著『当世豆本の話』(海苔装)もたぶん全集に入っているのではなかろうか。だったら、国会図書館の考え方からすると所蔵する意味などないのではないか。斎藤昌三は図書館とのつながりも強かった人なので、納本したのかもしれないですが、ああいう本だけはせめて箱を残して、箱にシールを貼ればいいんじゃなかろうか。それだと、利用者が中身をすり替えるかもしれないので、見返しに国会図書館の所蔵印(できれば小さくて格調の高いヤツ)でも押せばいい。そこまではありかなと思います。
番組の中で爆笑問題のいずれかが「こうなると、本ではなくて美術品ですね」みたいな発言をしていたと記憶していますが、実際に、表紙に版画がそのまま使用されている本もあります。それにもシールを貼るんでしょうね、国会図書館は。ピカソのエッチングにシールを貼る美術館みたいなもんです。ねえよ、そんな美術館。
これは愛書家の視点。現実には「これは貴重だから」と別扱いはできないのが図書館でしょう。それでいいんですけど、装丁なんてものに価値を置いていないくせに、これみよがしに、ああいう時だけ持ち出すからみっともないことになるのです。
ところで、つい興奮して書いてしまったために間違いがありました。『当世豆本の話』の装丁は内藤政勝ですので、「追記1」をちょっと直しておきました。ただ、海苔のアイデアは斎藤昌三だったようにも記憶していて、内藤政勝はこれを気に入っていないようなことを自著に書いていた記憶があります。すべて曖昧ですいません。内藤政勝の本が出てきたら確認しておきます。
私の美学としては「エロ一筋」「エロバカ」でいた方がいいので、エロ以外にも好きな本がいくらでもあることを公言しないようにしているのですが(公言する機会もないし)、ついつい知識をひけらかしてしまいました。私もみっともなくてすいません。
追記7:TwitterだのHatenaだのの一行コメントに反応してもキリがなく、どうしたって誤読する人はいますから、ほっとけばいいことですが、おそらく他にも正しく読み込めていない人がいると想像できる点があったので、一点、補足しておきます。
「以上の話は、私が以前から考えていたもので、国会図書館公認の話ではないので、誤解なきよう」とあるのは、あくまで「箱やカバーに重きのなかった頃からの管理法がそのまま残ったのだろう」ということについてであって、「箱やカバーは本を輸送することと返本がなされることに伴って発達した」という考え方は私のオリジナルではありません。「本の常識」とまでは言わないまでも、単行本の編集者の間ではだいたい共有されていることかと思いますし、日本の書籍についての歴史を書いたものや造本についての本にも出ているはずです。
雑誌やムックのような短期商品は別にして、長期にわたって返本と再出荷を繰り返す一般の書籍では改装は必須であり、デザイナーが「カバーなしでいきたい」と言っても、たいてい却下されるはずです。編集者がうっかりOKを出しても、営業が反対します。出るとしたら、絵本のような上製本で、かつ傷が目立たないように処理しているものです。色味を濃くしたり、PP処理をしたり。稀に海外のソフトカバーっぽいものも出ますが、返本されて廃棄される率が相当高いことが想像できます。
そうそう、「幸福の科学」なんて創立当時の小サークルから揃えてる・・・・・と思いきや、ごく最近のしか無いんですよね。
2chの統合スレに常駐してる元信者の方が全部持ってるんですよ。一度読んでみたいなぁ・・・・・
取次を通さずに販売されている機関紙や会報の類いは大半が納本されていないと思いますよ。ミニコミだって納本されているのは稀でしょう。だからこそ、どこの図書館にもあるものを重ねて購入するのでなく、そういったものを専門に集める図書館があればいいのにと私は言っているわけです。
現に国会図書館では、そういったものをひとつひとつ納本させたり、タコシェや模索舎で買い集めるほどの予算も人員もないのでしょうから、そこはしょうがないとも思うのですが、「日本で刊行されたものはすべてある」といったデマをどうして流すのかがわからない。
今検索してみたら、「幸福の科学」は創刊号から揃っていますよ。まとめて納本したんじゃないですかね。
>松沢様
え?2008年12月号からしか収蔵がありませんが。
http://opac.ndl.go.jp/Process?MODE_10100001=ON&SEARCH_WINDOW_INFO=01&THN=1&INDEX_POSITION=0&DB_HEAD=01&SORT_ORDER=01&SHRS=RUSR&QUERY_FILE=2143058173_3889262&TA_LIBRARY_DRP=99&DS=0&CID=000009948001&SS=03&SSI=2&SHN=1&SIP=1&LS=2143058173
『ザ・リバティ』だと、途中中断があれど創刊号からあるみたいですけど。
http://opac.ndl.go.jp/Process?MODE_10100001=ON&SEARCH_WINDOW_INFO=01&THN=8&INDEX_POSITION=7&DB_HEAD=01&SORT_ORDER=01&SHRS=RUSR&QUERY_FILE=214328473_3889424&TA_LIBRARY_DRP=99&DS=0&CID=000000096721&SS=03&SSI=2&SHN=8&SIP=8&LS=214328473
すまん、書誌情報を見ていた。
まっ、なんにせよ、取次を通していないものについては、自主納本しない限りは、ないと思った方がよく、国会図書館が金を払って購入しているとしたら、それはそれで腹が立つ。
法律で義務づけられているのに納本しない宗教法人のだらしのなさの問題であって、国会図書館の問題ではないような。
国立国会図書館の現館長の長尾真先生は、理系ですが元大学教授であり、研究者としても立派な業績をお持ちの方です。単なる官僚ではありません。
そして、箱やカバーも保存すべきであるという意見は、研究者としては当然に理解できる考え方であろうかと思います。
ですので、長尾真先生に、直接、「箱やカバーも保存すべきである」と意見をぶつけてみてはどうでしょう?こうゆうのって、やっぱりトップダウンで決まるものだろうと思いますし。
長尾氏が館長だから、デジタル化計画も飛躍的に進んだんだと思っていて、欠陥計画だとしても、ともあれ着手することの方が重要だと判断しています。そこは私も評価はしてます。
実のところ、カバー・箱問題については、ポットの沢辺さんが、あくまで雑談としてではあれ、国会図書館の人に「保存すべき」と伝えています。沢辺さんはデザイナー出身ですから、「ワシらの仕事をなきものにするな」という気持ちもあるでしょう。
あくまで私の印象ですが、あの電話のやりとりからすると、捨てていいわけがないことくらいは誰もがわかっているんだと思います。しかし、長い間図書館で働いていた人たちは、根底から考え方を変更する勇気はないでしょうから、その点でも期待できるのは館長くらいではあります。
ただ、館長だって、そういう意見があることくらいはわかっているんだと思うんですよ。内部にもそういう意見があると言っていたくらいで。わかってはいても、図書館の館長たちが連名で要望を出すとかしない限りはきっかけにならない。一利用者が伝えたところでどうにもならないです。
最初から言っているように、図書館は私にとっては諦めている領域です。ここまで「なぜ図書館に関心を持たないようになったのか」「なぜ図書館には期待することさえできないのか」を説明してきたようなものです。
諦めたからこそ、私はずっと自分が大事だと思うものを自分で集めてきたわけです。今になって考えたことなんて何もなく、前々から感じていたからこそ諦めていたわけで、それを改めて書くことになったのは、ホントにたまたまですから。
[...] 図書館問題の余韻が私の中ではまだくすぶっていたりします。正確には、うっかり観てしまったNHKの「爆笑問題のニッポンの教養」の映像が頭から離れません。観なきゃよかった。キリがないので、「1981/図書館の中では見えないこと 10・国会図書館がカバーや箱を捨てて
[...] 包装紙と違って、本のハードとソフトは商品として一体化していますが、共同著作物ではなくて、表紙は別個の著作物を構成しているわけです。両者を分別することが可能だから、国会図書館は、ソフトの著作権だけを保存すればよく、カバーの著作物を捨てていいと判断しています。そのくせ都合のいい時だけ装丁の面白さを持ち出してくるからムカつくわけです(「1981/図書館の中では見えないこと 10・国会図書館がカバーや箱を捨てて
[...] ここは「国会図書館のカバー・箱廃棄問題」とも通じています。 [...]
[...] も大歓迎です。ぜひご参加下さい。 松沢呉一がブログで書いた図書館論はこちら。 [...]