2009-11-12
お部屋1982/「書評で本の表紙を出すことができない」問題
図書館問題の余韻が私の中ではまだくすぶっていたりします。正確には、うっかり観てしまったNHKの「爆笑問題のニッポンの教養」の映像が頭から離れません。観なきゃよかった。これ以上続けるとキリがないので、「1981/図書館の中では見えないこと 10・国会図書館がカバーや箱を捨てている事情」にいっぱい追記しておきました。
図書館の話を書いたところで、敵が増えるばかり、アクセスは減るばかり。新規の読者が入ってくると、本が少しは動いたりするものですが、図書館のシリーズをやっている間、アマゾンで『エロスの原風景』は1冊しか売れていなくて、どんどん順位が落ちてます。図書館に興味がある人たちは本を買わないのです。そんなことはないとしても、図書館に興味のある人たちはエロ嫌いの率が高いかも。
沢辺さんは、図書館シリーズを面白がって、どこか公開で話をする場をセッティングしたいとも言っていますが、私としては書いたこと以上に話すことがないです。「公には話しにくいこんな話ならあるけど」と話した内容を聞いた沢辺さんは「そういう話をしてよ」と言います。
少人数しか聞かない場だったら、話してもいいかなとも思うのですが、図書館をテーマにしてしまうと人が来そうにないです。「エロライターが語る図書館の話」って、最悪の組み合わせでしょう。「国会図書館の長尾館長が語るエロ話」だったらまだいいとして、私が語る図書館の話は「貧乏人が語る利殖法」みたいなもんです。ちょっと違うか。客が少ない方がやりやすいし、ゼニをくれればなんでも話しますけどね。
そんなことより私としては、新刊のプロモーションで、インターネットやYouTubeの話をしたいです。新宿2丁目のaktaで「チンコ展」を開催した際、「インターネットに見るエロ表現」みたいなテーマでイベントをやりましたが、今回の単行本にからめて、もう一回、別のメンツを入れてやろうという話が出ています。
また、ポットはポットで、新刊についても別の企画を立てているので、どっかでイベントをやることになりそうです。
ちなみに新刊の仮題は『クズが世界を豊かにする』です。これになんか適当なサブタイトルがつきます。「modernfreaks」のインタビューでも繰り返しこの考えを語ってますが、もとはと言えば、「マツワル」のシリーズタイトルであり、私のインターネット理解です。出版を含め、「売れる/売れない」「価値がある/ない」で選別される既存メディアに対して、「誰もが存在していい世界」がインターネット。これについてはまたそのうち。
では、書影問題の続きです。「待ちに待った」と言いたいところですが、図書館同様、これもちいとも関心をもたれないテーマです。図書館よりも関心をもたれにくいかも。
関心をもたれない理由は大きくふたつあって、「どうして書評で本の表紙を出すことができないのか」が理解されにくいことがひとつ。もうひとつは、理解したところで、その現状をなんとかしなきゃいけないと思うきっかけがないことです。
「書評で本の表紙を出すことはできない、CD評でCDジャケットを出すことができない」という話を私が知ったのは、今から15年くらい前になりましょうか。
「SPA!」の連載で、村上もとか氏の漫画作品を取りあげることになり、「書影は勝手に出せばいいべ」と私は言ったのですが、編集者は「小学館はうるさいので」と許諾を求めたところ、「内容を見せて欲しい」ということに。見せた結果、NG。つまり内容が気に入らないということです。
「なんで批評をするのに、批評対象からの許諾を得なければならないのか」と思い、著作権についての第一人者である北村行夫弁護士に聞いたら、「書評で本の表紙を出すのは、引用にはならない」と言われてしまいます。
となれば許諾を求めるしかなく、著作者は自分の著作物がどう使われるのかをチェックする権利もあって、法的には小学館も村上氏も何も間違っていません。
このことを「SPA!」で記事にして、以来私は「法改正すべし」と言い続けているのですが、積極的に賛同してくれる人は極端に少なくて、いつも暖簾に腕押しです。現実問題、これによって困ることがないためです。
書影を出したために訴えられたなんて話は聞いたことがありませんから、なあなあで使っている現状に対して、私自身、「なあなあでいいんでねえの」と思いはするのですが、一部の出版社やー著作者がこれを根拠にして内容チェックをやっていることが納得いかない。
しかし、書評で批判的な内容を出すわけではない書き手や出版社にとっては、原稿を差し出してお伺いをたてれば許諾を得られますから、それで問題はなく、そのことをおかしいとさえ思わない。情けないですが、それが出版界の現実です。
また、「SPA!」の記事も十分に理解されたわけではなく、「書影を出せない」ということは理解されたとしても、その原理までを正しく理解した人がどれだけいたかは心もとない。
これまた何度も書いているように、編集者やライターだから、著作権に詳しいと思うのはとんでもない間違いです。著作物を扱う仕事をしているにもかかわらず、怖くなるくらいに無知な編集者が現実に存在しています。標識の意味を知らずに運転しているようなもんです。
先日、ポット出版での打ち合わせで、ポットの編集者が著作権に関するマヌケ発言をしました。内容はポット出版とその編集者の名誉のために伏せますが、私は呆れ、沢辺さんはキレそうになってました。私がいなかったら、沢辺さんは20分くらい説教したかもしれない。
「ブログを始めたことを契機に著作権のことを一通り調べたことのある高校生でも、そのくらい理解しているのはいるぞ」ということなのですが、この編集者に限らず、出版界には同様の勘違いをしているのがなおいるでしょう。
ポットは社長が著作権に厳しいので、他の出版社よりはずっとマシですが、それでもそういうマヌケ発言が出てきてしまいます(沢辺さんが厳しいのは「正しく理解すること」についてであって、運用において厳密であるべきと考えているわけではないです。そこは私と一緒)。
以前も書いたように、著作権を理解することが難しいらしき人たちがいます。何度教えても進展がない。表面的には理解しても、条件が変わると、また理解できなくなる。個別の事例を覚えていくことはできるようなのですが、原理とでも言うべき根本の考え方を理解できないみたい。
頭がいいとか悪いとかとは別の次元で、何かの能力に欠落があるとしか思えず、「無体物の権利」ということ自体が実感としてよくわからないみたいです。おそらく唐沢俊一もそうなんじゃなかろうか。
インターネット上では、出版社との合意のもとで書影を出しているアマゾンを利用することで、一般のブログ等でも画像を合法的に使用できるため、わざわざこれを論じる必要がないこともあって、書評における書影の使用について、正しく説明したものがほとんどありません。
「表紙 著作権」で検索して、片っ端から見ていきましたが、細部においてまで間違いのない説明をしているのはひとつとして見つからない。
ネット上ではその必要がないとは言え、理解しておくに越したことはないので、次回、改めて説明を試みるとしましょう。いくら説明してもわからん人はわからんでしょうが、わかる人も当然いることですし。
忙しくなってしまったので、この続きは明後日以降になります。
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