2009-11-09

お部屋1980/図書館の中では見えないこと 9・国会図書館は保存に徹すべし

1963/多摩図書館廃棄本問題と「書影使用自由」の表示
1966/廃棄本・里親探しの実情
1967/改めて地域資料を調べてみる
1968/除籍予定本の大半は多摩の資料ではないのでは?
1969/図書館の中では見えないこと 1・図書館はコンビニである
1970/図書館の中では見えないこと 2・こんな図書館があったら
1971/【必読】多摩図書館廃棄本についての正確な情報
1972/図書館の中では見えないこと 3・図書館の本はC級品
1973/図書館の中では見えないこと 4・図書館と税金
1974/情報を訂正するためのツール
1975/図書館の中では見えないこと 5・断裁の現実
1976/図書館の中では見えないこと 6・私設図書館とコレクター
1977/図書館の中では見えないこと 7・本は商品である
1979/図書館の中では見えないこと 8・デジタルとアナログ
  
 
『図書館界』という雑誌に「国立国会図書館におけるポルノグラフィの納本状況」という論文が発表されたらしい。

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 本稿では,Amazon.co.jpが扱う図書がNDL-OPACでヒットするかを調べる形で国立国会図書館における納本状況を調査し,ポルノグラフィのほとんどが納本されていない現状を明らかにする。
 また,ポルノグラフィを刊行している出版社の納本状況を調査し,一般出版物は納本しているにもかかわらずポルノグラフィだけは納本していないといった結果も提示する。
 さらに国立国会図書館,取次,出版社に聞き取り調査を行い,日本の現行納本制度の運用上における諸問題を考察する。

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「エロでもなんでも保存しろ」という立場ながら、今現在のものについては微妙な点がいくつかあるので、ここはおおっぴらに踏み込まないで欲しいと思ったりもして。全部納本させた上で、あえて未整理のままにして、検索にひっかからないようにするのが理想です。その事情にも私は踏み込まず、とっとと本題。

私が国会図書館を信用できないのは、東京国際ブックフェアで語ったように、国会図書館は保存に徹しておらず、なおかつ完本を保存する発想がないことです。

気をもたせてしまったわりに、今回の話はその蒸し返しでしかないのですが、エロ本について語ったインタビューなんぞ読みたくもない人たちのために、改めて書いておくとします。

どうして、図書館関係者は、国会図書館の所蔵品が館外に持ち出されることを認めてしまっているのでしょうか。また、どうして完本を保存していないことをおかしく思わないのでしょうか。

今更説明するまでもないですが、本には大きくふたつの側面があります。ひとつは本に印刷された著作物などのソフトです。もうひとつは、本そのものです。ハードと呼ぶのは違和感がありますが、便宜上、ハードとしておきます。

また、図書館にはふたつの役割があります。(利用者や諸機関への)「提供」と「保存」です。前者を優先すると、そうなるのはやむを得ないとも言えるのですが、図書館は、ハード面に関心があまりないように見えます。だから、古書的に言えばほとんどがC級品でしかない。

下手に図書館に本が入れられたら、箱を捨てられ、帯を捨てられ、時にはカバーや月報も捨てられ、カバーを残してもビニールシートやシールをベッタリ貼られ、スタンプを押されてしてしまって、本の価値は下落します。

一般の図書館はそれでいいとして、国会図書館だけは完本を保存すべきだと思うのですが、国会図書館は、帯や箱はおろか、カバーまで捨てていますから、図書館の中でも最悪の状態で本を保存していると言っていいでしょう。

国立国会図書館法では「最良版の完全なもの一部」を納本することが義務づけられているのですが、まだ商品になるものはもったいないので、返本されてボロボロになったものを納品すればいいべさ。どうせ欠陥品にされるんだから。

同法には、保存なんて文言はどこにもなくて、他の図書館に貸し出しすることも法的に言えばなんの問題もなく、それどころか利用者に直接貸し出しをしても国立国会図書館法では違法にならないようです。おそらく管理規程のような内規で定められているのでしょう。

合法であっても、すでに書いたように、利用者の求めに応じて他の図書館に貸し出しをやっていることや、箱やカバーを捨てていることに対しては怒りに近い感情があります。なんてことをやっているんだ、おい。

ハードにもカメラマン、イラストレーター、デザイナー、編集者、造本家(今はほとんどクラフィックデザイナーと製本所の役割になってますが)、製本所、印刷所、紙屋の智恵がこめられているのに、なきものにされています。帯やカバーや箱にしかない著者や推薦者の文章だってあるんですけどね。

以前製本会社に聞いた話によると、箱にも技術があって、ゆるくなく、きつくない適切なサイズにするのは難しいそうです。10年後、20年後のことも考えて本は作られなければならないわけですが、時間が経つとともに、箱が縮むのか、本が湿気を吸って膨らむのか、箱から出にくくなる本があったりします。箱に使用する紙の方向や糊にも関係しているかもしれない。

昨今、箱つきの本がなくなってきているために若手は実践で経験ができず、そういった技術の伝承を製本会社の内部でやっていると言ってました(箱だけでなく、手作業の箔だったり、和綴じだったりの技術全般です)。私企業である製本会社でも、こういうことをやっているというのに、図書館ときたら、その成果を無視ですから。

仮に、ある装丁家の仕事を調べようと思っても現物を十分には確認できない。これが国会図書館であり、この国の図書館の考え方なのだろうと思います。

ハード面を軽視していいとする発想で言えば、ソフトをデジタル保存さえすればいいってことでしょう。表紙や箱のヴィジュアルだって保存可能です。だったら、その方がまだまし。いい時代になったと皆さん大歓迎していることでしょう。

デジタル化自体は歓迎しつつ、本が出なくなっていく時代だからこそ、国会図書館は、ハードの保存もすべきだろうと私は思います。箱やカバーを捨てているのは閲覧のためでしょうから、閲覧させなければ、効率を求めたところで保存は可能です。そのためには、国会図書館の所蔵品はデジタルで閲覧させるようにして、現物は書架から動かさない。そのように法改正しましょうよ。

5年後ということはないにしても、今後図書館は、デジタル化されたソフトを見る無料ネットカフェと、「かつて本というものがあった」という遺産を残す博物館のようなものになっていくのですから、後者の意味での図書館が本を完全な状態で残さなくてどうするって話です。

その時に、これまでの欠陥本をどうするかという難題が生じますが、少しずつ完本に交換していくしかないでしょうね。ここ10年くらいのものであれば、出版社が改装用の箱、カバー、帯を保存している可能性が大ですので、それを提供してもらえばいい。今後納本数が減っていくはずですから、そこで浮いた人員を完本との交換作業に回せばよい。

ポットの沢辺さんとこのことを話した時に、沢辺さんは「箱は潰してもいいので、カバーと一緒に段ボール箱に突っ込んで保管しておけばいい」と言ってました。たしかに。箱に日付さえ書いておけば、100年後に探すこともできるでしょう。あるいは、完本を保存する時代を見据えて、今から別に保存しておいてもいい。今は箱つきの本が減ってますから、箱を潰さずに保存したところで、さほど場所はとらない。これをやっておけば、完本保存ということになった時に交換する無駄も避けられます。こんなん、法改正せずに、今すぐにでもできることです。

そのためにも国会図書館はデジタル保存を早め、本の現物は閲覧させないようにすべきです。他の図書館への貸し出しも、すべてデジタルにした方がいい。現物を見せるとしたら、展示室で展示するだけ。あるいは、これも国際東京ブックフェアで語ったように、利用者を制限してもいい。これまた法改正しなければいけませんが、閲覧は有料にするのもいいでしょう。本という文化を次世代に伝えるために、国民はそのくらいの負担はすべきです。

デジタル化が進めば、他の図書館でも無駄に本を保存する必要はなくなって、パソコンとそれによるソフトの提供、需要のある本の貸し出しだけやっていけます。あるいは国会図書館でさえ保存していないもの、ここまで書いてきたような例で言えば、引札などの刷り物、政治団体の機関紙なんてものを各図書館ごとの特性を出して集めればよい。エロまでやれとは言うまい。やるんだったら協力するけど。今のものはともあれ、古いものであれば、大衆雑誌という大きな枠にしておけばごまかしようがあるでしょう。

デジタル化を踏まえて、国会図書館は保存に重きを置く方向で事は進んでいるようにも見えていて、皆さん、この動きを肯定しているのだとばかり私は思っていました。「よかった、やっと保存専門の図書館が実現するぞ」と。個人の郷愁を図書館に求める人たちはいるにせよ。あるいは、図書館で培ってきたノウハウを使えなくなることを恐れる図書館員たちの反発はあるにせよ。

だとするなら、多摩図書館の廃棄本は、都立中央図書館になかったとしても、国会図書館にさえあればいいってことだと思います。1部では不安なので、2部保存した方がよりよいですが、そうもいかないので、他の図書館に保存してもいいし、国会図書館で容易に閲覧ができなくなった時に、どうしても現物を見たい人のため、どこかにあった方がいいとしても、都立図書館に複数ある必要はないでしょう。

「廃棄してもいい。しかし、デジタル保存されていることを確認してからにしろ」という声はあってもいいとして、「全部残せ」というのは、図書館のこれからのありようを考えると、あまりに非現実的だと感じますし、今まで図書館がやってきたハードの軽視を考えても理解しにくい。今までずーっと捨ててきた箱やカバーのように容赦なく捨てればいいべ。

国会図書館は本をそのまま保存すべきと思っている私が「ブツを保存せよ」と主張するのなら整合性がまだしもあるかもしれないのですが、ハードをおろそかにしている現実を容認してきた人たちが、デジタル化が進む時代に「本を保存しろ」と主張するのはチグハグにも感じます。

私が「捨てていいだろ」と言ってきたことに対して、おそらく図書館員から、「効率で考えていいのか」という意見がどこかに出てましたが、いいに決まっているじゃないですか。税金の使い道を効率で考えなくてどうする。してみると、図書館員はこれまで効率を考えて来なかったんか。悔い改めていただきたい。

ハード面を軽視してきたのは、閲覧を前提にした効率を優先させた結果であって、効率を考えないなら、今までだって、完本を保存すればよかっただけです。箱があると本の管理は大変ですよ、そりゃ。だから、効率を優先して捨ててきた。効率至上の図書館をよしとしてきた人たちが「いまさらなにを」って話です。

しかし、ここではたと思うわけです。私ごときが考えられることは、多くの人たちが考えられることに違いなく、私が想像できていないだけで、閲覧のための効率以外に、カバーや箱を破棄している事情があるのではなかろうか。あるいは、それを改善しようとしても、困難な障害があるのではなかろうか。

管理規程を改正するのが容易ではないということかもしれません。国立国会図書館法の第五条に「館長は、事前に、時宜によつては事後に、両議院の議院運営委員会の承認を経て図書館管理上必要な諸規程を定める。」という一文があって、ポットの沢辺さんの言う方法でさえも、館長の一存では決められないのかもしれない。

それにしたって、「そのくらい改正しろ」と思うのですが、この程度でも新たな予算を必要とするなど、何か面倒な事情があるのでしょうか。気になる。

気になったら聞けばいいだけです。この事情はすでに国会図書館に聞いてあります。

次回、最終回。

このエントリへの反応

  1. [...] 次からが本題です。 [...]

  2. [...] 1979/図書館の中では見えないこと 8・デジタルとアナログ 1980/図書館の中では見えないこと 9・国会図書館は保存に徹すべし     [...]

  3. [...] 本にはハードとソフトのふたつの面があると「1980/図書館の中では見えないこと 9・国会図書館は保存に徹すべし 」 で書きました。書評が批評する対象は本のソフトです。その批評に、ハードの写真を出す必然性はないわけです。 [...]