対談

『欲望問題』をめぐるスペシャル対談◎西研[哲学者]vs菅野仁[社会学者]

人の欲望の声を聞き取る共感力をどう育てるか

西●『欲望問題』はとても面白かった。まず第1章で伏見さんは、簡単に言うと社会の問題を個々の欲望の調整の問題だと考えよう、と提案していますね。これを自分自身の経験から語っているので、非常にリアリティがある。最初伏見さんは、ゲイを認めようとしないマジョリティ社会は悪だ、マイノリティである我々に正義があるんだという感覚からスタートした。硬直化しないようなスタイルに工夫しようとしてはいたけれども、正直に言えばやっぱりそういった感覚があったと言ってますね。ところがある転機となる事件があった。それが、確か『週刊金曜日』の事件ですよね?

沢辺●『週刊金曜日』に掲載された東郷健さんのルポタージュのタイトル「伝説のオカマ」をめぐっての事件ですね。

西●そう。オカマという言葉を使うとは何ごとかと、あるゲイのグループが『週刊金曜日』の編集部に噛みついた。抗議を受けた『週刊金曜日』の編集部は、大変申し訳ないと謝ったわけです。でも東郷さん自身は「オカマ」という言葉をルポタージュの中で使うことを許していたし、むしろ「オカマ」という言葉をある種の自負も込めて使っていたようです。つまり、東郷さん本人は傷ついていないのに、他のゲイが「傷つけられた」と言った。

ここには、「傷ついた」と言う人がいたことをもってそのまま悪だと言えるか、という問題かあるわけです。傷つくのは嫌だということは私の欲望だけれども、また別の人間からすれば(その言葉を使いたいという)別の欲望があるかもしれない。まずはお互いの欲望のありかをよく見てとって、それがどうやって調整できるか、そうやって社会の問題を考えたほうがいいということですね。

同じようなことを実は僕も考えてきました。哲学者の竹田青嗣さんもまた、近代の市民社会の論理について「自由の相互承認」というキーワードを使って論じています。それぞれの人間が自由な存在であり、お互いの好みややりたいことを持っている。そのことを相互に認めあうことが市民的な関係における一番基本のルールである、と。つまり、自由の相互承認ということがこれから我々が育てていく社会の基底になっていくべきだというものです。この考えは実はルソーとかカントとか、そのあたりからずっと系譜があるんです。

沢辺●そのことでひとつ質問させてもらっていいですか? 西さんのおっしゃる通りで、伏見さんが言う欲望を調整する社会のありようというのは、アイデアとしては竹田さんがまとめている自由の相互承認という考えと同じだし、西さんや竹田さんが言われた通り、ルソーなど先人たちもよくよく読んでみればそういうふうに言っているらしい。なので、伏見さんが言う欲望を調整する社会のありようというのは、とりたてて新しい、画期的なことではないと思うんですよ。しかし、この『欲望問題』には、竹田さんが言っていたのとはまた違う、伏見さんが言ったからこそすごいぞという点がどこかにあるような気がするんです。それはなぜですか?

西●そこが僕がおもしろかったところでもありますね。自由な人格の相互承認という市民社会としてのモデルを提示し、これが我々の倫理の一番基底になっていくべきだ、という言い方ではなく──もちろん、竹田さんの言い方はそう単純ではないですが──ゲイの問題をくぐり抜けてきた人が、理念ではなく実体験のなかで「相互承認ということの必要性」をつかみ取ってきた、ここにこの本の第一のおもしろさがあると思います。

自分達が苦しめられ、世の中から疎外された存在だということを反転するために「我にこそ正義あり」を掲げる。これは多くの運動では自然な心象、当然の出発点だと思うんですよ。しかし、その正義は他の人に承認されたり、対等な人間同士がお互いの声を聞き合って出来上がったものではない。だから、その正義が逆に他の人をすごく抑圧したり、また正義を唱える人たちの内部でもしんどいことが起こりやすい。社会の他の人々はどうかというと、その種の正義を唱える人は恐いので寄って来ないし、当然相互理解も進まない。

「自分たちこそ正義」になってしまうのは最初は自然なことだが、そのままでは絶対先に進めない。そのことを伏見さんははっきりと自分の経験のなかでつかんだ。それが『欲望問題』の書きぶりにあらわれていると思う。

そして、伏見さんのこの書きぶりは、「いまを生きる私たちがどうやって社会の問題とつきあっていけばいいのか」という、現代の本質的な問題に対して大きな示唆を与えていると感じるのです。これがぼくが感じたこの本のおもしろさの二番目の点ですね。

自分が苦しいと、自分だけが穴ぼこに入った感じになって、世界はみんな敵に思えてくる。たとえば突然リストラされたら、「何で俺だけが、何で私だけがこうなのか」という感じに思えてくる。人を支えている共同体の厚みは、都会になればなるほど解体されてきているので、調子がいい時はそれなりに生きていけるんだけど、穴ぼこに突然入ると、社会全体が巨大な悪意として見えてくる。

私たちは、個々人それぞれの境遇のちがいによっても、またその人の境遇の変化によっても、かなり異なった社会感受をもって生きていると思います。そういう時代のなか、「よい仕方で」つまり、他者とキャッチボールできる仕方で社会を批判したり問題を指摘したりすることが難しい。まったく連帯できずに個人的に悪意をためるか、連帯できたとしても、社会全体(マジョリティ)=悪、抑圧される私たちマイノリティ=正義、という図式になりやすい。

しかし──自分のしんどさを受けとめてくれる他者に出会えることがまずは大切だと思うのですが──だんだん他者に対して気持ちが開けてくると、自分以外の人間もいろいろ事情を持ち、それぞれ欲望を持って生きているんだなあとわかってくる。

このように、市民社会のモデルを理念として提示するというのではなくて、一人ひとりが生きている場所に対する「共感力」のようなものの重要性を、伏見さんは提示していると思うのです。伏見さんじしん、そうした共感力を新鮮なかたちで持っている方だと読みながら感じました。自分も苦しいけれども他の人間もまた別の苦しさなり状況なりのなかで生きている、そうした感覚が基盤になって「欲望問題」、つまり「欲望を調整するものとしての社会」という像が出てきている。

この共感にもとづく対等性の感覚とでもいうべきものが、竹田さんのいう「自由の相互承認」の基礎になる。これをいかにしてぼくらは育てられるか。伏見さんの本を読みながら、あらためてそういう問題を考えました。欲望を調整しつつルールを作るためには、互いの異なった感覚を聞き取れる「耳」が必要ですし、また自分の感覚を他者たちに伝えられる「言葉」も必要です。そういった耳や言葉が育たないと、人々はバラバラになってしまって、異なった他者たちとともに生きている、という基礎感覚じたいが育たない。この基礎感覚こそが、欲望の調整を可能にする作業の大前提となるものだと思うのです。

伏見さんはセクシャルマイノリティの特権性を放棄した!

菅野●今の西さんのコメントを私なりにまとめると、欲望ゲームあるいは相互承認ゲームの基本前提は、対等な人格性、対等な条件です。対等な条件でどういうふうに調整するか、なんです。伏見さんがなぜ説得力があるかというと、この対等性を獲得しているからだと思うのです。

セクシュアルマイノリティとして、差別される側であった人間が反差別運動を展開していく。そういうなかで確かに存在そのものとしてはあくまでマイノリティなんだけれども、差別される側、マイノリティとしての特権性というのがやっぱり出てくる。「(ゲイでない)お前たちは知らない、お前たちにはわからない」といった形で「私たちはゲイなんだから」という強者になる場面が出てくる。しかし、セクシュアルマイノリティとしての特権性というのをいわば放棄しないと、ルールゲームには参加できないわけです。

伏見さんはこの『欲望問題』で、いままで持っていたプライオリティや優越性、特権性をいったん放り投げてフラットな現場に立つんだという覚悟をした。そこが非常に共感性を呼ぶんですよね。

西●確かにそれはパンクだよね!

菅野●セクシャルマイノリティの立場にとどまれば、それなりのことを言えたり、それなりにおいしいところを取ったりする可能性があるわけですよ。全く一方的に差別されて小さく縮こまっているわけではないですから、今のセクシュアルマイノリティは。そういう状況のなかで、伏見さんは対等性をあえて選択して、欲望ゲームあるいは相互承認的なところに立った。その説得力、言葉の重みがある。

西●もうひとつ、フェミニズムの人たちと仲良くしてきて、そこから刺激を受けながら、自分の思想を作ってきた人が、ある意味でフェミニズムを含めた過去の自己批判をしている。これはとても勇気のいることだったと思うんです。自分に関してはいいのでしょうが、これを出版するということはフェミニズムの人たちに三行半を突きつけられ、さらには「伏見バッシング」が起こるかもしれない。いままでフェミニズムの人たちと共同歩調をとり勢いももらったことへの感謝も忘れていないし、フェミニストに対して悪口をいう感じもまったくない。しかしこの考え方のままだと先に行けないよ、とハッキリ言った。これはすごく覚悟と勇気のいることだったと思う。

菅野●僕からもう一点、第1章に関して言うべきことがあるとすれば、僕は異性愛者だから、伏見さんが書いている男同士の恋愛などいろんな意味で本当はわかっていない可能性も高いのですが、しかしとてもよくわかったという感覚がある。この本はやはりゲイの人だけじゃなくて異性愛者だろうが、普遍的に帯びている欲望のあり方をとらえなおした欲望ゲーム論としての深い射程を持っているからだと思う。

セクシュアリティのことでいうと非常に大事な観点としては、セクシュアリティの多様性の問題を、逸脱の文脈じゃなくてライフスタイルの文脈でとらえ直すということが初期の同性愛の解放運動の目標であり、その転換がかなりの程度達成できたということは、やはり画期的なことだったのだなあと改めて考えさせられました。同性愛を「病気」だ、「あいつらヘンタイだ」っていう見方から、ライフスタイルの問題へと運動の成果として転換できたということですよね。それがあってからこそ欲望ゲームという問題の立て方に到達できたって思う。

『欲望問題』の11ページに、それぞれひとが性的に魅かれる具体例として「フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって……」という文章があり、これはもちろん異性愛者も対象に入ってるわけですが、要は生活実感のなかでは性的欲望って伏見さんの指摘のように「選択的なものじゃなくて自然にそうなってしまった、としかいいようがない。生物学的な作用であろうが、社会の刷り込みであろうが、本人にとっては偶然の産物であることは間違いない」ということなんですよね。これは私たちが自分たちの意志や理性による選択ではどうにもならないところで同性愛的傾向を持ったり年上好きになったりロリコンになったりする可能性(と危険性)を上手に言い当てていると思う。ここに普遍性を僕は感じます。セクシュアリティの本質を一言で表現すれば、「なぜかは自分でもわからないままそれに絡め取られてしまっている」ということなのではないかと僕はいつも思っているのですが、そういう感覚を持っている人間が読むと、この『欲望問題』では、ゲイの世界だけの話ではない、性的な欲望の基本形がきちんと取り出されているなと思えるのです。

ゲイの問題に関心がある人だろうがない人であろうが、なんで俺は年下が好きなんだろうか、モー娘くらいじゃないとなんでダメなんだろうか、逆になんで俺は年上の女性にひかれるんだろうといった問題と重なりが見えてくる。性的趣向というものは、本当に多様化し、現代社会ではどれがノーマルか、標準だということが見えなくなっている。しかしその中でも悩んでいる人はいる。男女の場合であれば、女の人が男よりひと回り年上となるとやっぱりまだいろいろあったりするわけですよね、差別的なまなざしが。こういう問題をも包含する射程の広さを『欲望問題』は獲得している。

先ほど西さんがまとめてくれた欲望論的なゲームの場というか、欲望の相互承認というような観点、つまり正義が一方的に自分にあるのではなくて、共通了解の中で何が正しいのか、自分にとって心地よいことをお互いに認めてぶつかりあわない限りには、それぞれの心地良さを尊重できる多元的な価値につながらない。そういった観点を、セクシュアルマイノリティの特権性を放棄した人間が示した(笑)。ここが伏見さんの存在的な強みであるし、そこを考え抜いている覚悟があるなと伝わってきます。

社会や人間に肯定感をもてるかもてないかが分岐点

沢辺●先ほど西さんが言われたんですが、フェミニズムに足場を置いてきてそれを批判するのはすごい、と思いますね。僕は、現在のフェミニストは思想的な退廃に陥っていると思う。逆に言うと、なぜ思想は更新できないんでしょう? 2007年になってみたら、これまでフェミニズムで言ってきたことが社会で通用していなくなった。それを伏見さんのように「ごめん、だめだった! あの辺が」というふうに、学問的な領域でできないのはなぜなのか?

また、運動的な領域でも、例えば部落解放同盟も全然できていないと思う。伏見さんが登場してないんですよ、部落解放運動の中には。87年に『同和はこわい考』(阿吽社)で藤田敬一さんは、「差別のジャッジをするのは被差別者だけが持つべきじゃない」と書きました。言っていることは伏見さんと同じです。でも、藤田さんは当事者ではなかったし、解放運動全体はこれを無視してしまったと思う。思想の更新が運動的にも学問的にもできないのはなぜなのか、ちょっとご意見があれば聞きたいんですが。

菅野●社会学関連で言えば、だいぶ前に吉澤夏子さんが『女であることの希望』(勁草書房、1997)を書いた時にこれまでのフェミニズムとは違う観点からの思想がでてきたと思ったのですが、思いのほかそれに対する周りの反応が冷たかった。上野さんなんかもちょっと批判的なコメントをしていたと思うし、吉澤さんがあそこで出した問題提起が、フェミニズムの内部ではうまくつながっていかないような状況があったように僕は思ってたんです。それはなぜなのかなあと考えると、一つはやっぱり今回のジェンダーフリーバッシングのような右派による巻き返しみたいな言論的状況が常にあるわけですね。それに対抗するために、対抗のロジックを保ち続けなければならない。正義は我にあり、つまり差別されている私たちこそが正義だというポジションを安易には手放せない、思想なんだけど運動論的政治的判断というのがどうしてもフェミニズムにはついてまわる。

吉澤さんがちょっと批判的に言われた時は、彼女の思想そのものへの原理的な批判というよりは、「そういうことを今あえて言う状況ではないのでは」「今ここでそういうことを言っちゃあ、せっかく盛り上がってきた運動に水を差すんじゃないか」といった状況論的な批判の傾向が強かったような気がします。

でも思想というのは、運動論的な状況作りとは別の次元で原理的なつかみ方を作っていかなきゃならないんですよね。そこに状況論的な政治性みたいなものをあまり露骨に持ちこんでしまうと、思想は必ず「濁る」。純粋さをなかなか保てないことになる。またこれは僕もわかるんだけど、アカデミズムの世界には独特のしがらみとか、「こういうところから物事を喋りましょう」といった暗黙の前提みたいなのがある。

いま西さんと僕がちくま新書ですすめている本でも、そういうものを崩したいと思ってはじめたんです。たとえば、社会学は社会を考えるのは当たり前だということころから出発する。人間が社会的存在だってことを当たり前というふうなところから制度とかシステムとか社会全体を客観的にとらえるということが暗黙の了解になっているような気がしていたので、そこから疑わなければだめなんじゃないの、と。そういう思いで仕事をしたのが『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス、2003)なんですけど、そこに立つのはなかなか勇気がいるし大変だった。

西●わかります。いま、菅野さんと西とでつくっているのは『社会学にできること』というタイトルの社会学入門の本なのですが、菅野さんとぼくに共通するのは、一人ひとりが生きることにとって「社会」を考えることにどういう意義があるのか、という問いですね。客観的認識のまえに、まずは、自分と世界とを了解しなおし、自分と世界とをどのように関係づけるか、という課題──どんな人にとってもじつは切実な課題──がある。こうした、いちばん「底」の問題からスタートしたい、という感度が二人に共通のものだと思っています。そして、このぼくらのスタンスと『欲望問題』のスタンスとは深く通じていると感じています。

話をもとに戻しますが、フェミニズムの場合は、確かに運動とくっついているという難しさがある。さらに、社会に対する批判的なスタンスをどこかで持てないと、自分自身の存在の根拠を失ってしまうという人がフェミニストにはいる。とくに男性のフェミニストにはそういうタイプが多いように感じます。

あらためて言うと、80年代初頭のニューアカデミズムの時代にマルクス主義が最終的に信じられなくなって、その党派性や倫理性がハッキリと指摘された。そのとき、「では社会の問題にどういうスタンスをとればいいんだろう」「そもそも社会批判とはどのような仕方で可能なのか」という問題が起こってきた。ぼくもそのころこの問題にぶつかって、ずいぶん考えて、ホッブズやルソーやヘーゲルなんぞをあらためて読み直したりしたわけです。

フェニズムは、そうしたなか、この社会を根底的に誤っているとみなし、この誤った社会を批判し続けるというスタンスを保ち続けることができた。男性でも、ともかく社会を批判し続けたい人たちの幾分かが、フェミズムのほうに行った。でも現実社会を生きていく人たちの場合、「反社会」のスタンスを取って生きるのはかなり難しい。でも研究者はそこに安住できますね、食えるから。だから研究者というのは退廃しやすいわけ。

困難が多くの人々に伝わってそこから合意が生まれ、新たなルールがつくられる。そうなることで、社会を少しでもいい方向に進めることができたという「実感」が人々のなかに生き続ける。社会を批判し続けることでも、最終的な理想社会の実現でもなく、こうした、前に進めるという「実感」こそが重要だと僕は思っています。

社会やマジョリティに対するまったくの反感や敵意からは、こうした実感が育っていかない。そういう意味での、社会に対する「肯定性」は大切なんですね。そして、そこからはじめて「調整型」の社会像が育ってくる。

菅野さんとの対談で言っているんですけど、〈社会〉という概念は客観的な認識の問題である以前に、すごく薄められていても、「われわれ性」というものを含んでいる。たとえば僕は四国には一度も行ったことないんだけど、そこで社会制度のせいで故なく苦しんでいる人がいたとすれば、なんとかせねばいかんじゃないの?と思っちゃうかもしれない。それが「われわれ性」なわけです。「われわれ性」を潰さないで持ち続けることが重要で、それをなくすと、社会は砂漠のようになる。この「われわれ性」を生かしていくためには、苦しんでる人間に唯一正義があるんじゃなくて、互いに欲望を出し合いつつ調整していくという調整型の発想にならざるを得ない。そういう仕方で「少しでも前に進めていけるよね」という社会に対する感覚がもてることが重要なんです。それがなければ社会問題というのは誰も関心がなくなって、自分と自分の親しい人間の幸福しか望まなく(望めなく)なる。

菅野●この本のジェンダー論に結び付けると、社会あるいは人間関係、男女関係において希望とか可能性に向かうベクトルを持つか持たないかが、社会や人間に対する語り口の決定的な分岐点だと思います。伏見さんの言い方にはそういうものがあるし、西さんや僕もこうした方向性を志向している。

それを考えるとフェミニズムにおいて男女のあり方の「可能性を語ることができる」言説がほとんど蓄積されていない。男と女の関係は、権力関係であり非対称的な関係であるという告発型の言説がほとんどですね。先日も、私のところに卒論の相談に来た女子学生が言っていたのですが、「先生、素敵なジェンダー、幸せなジェンダーっていう考え方はどこにもないんですね」と。これは非常に大きな問題だなと思います。ゲイの問題でも男女間の問題でも、性的欲望の問題、つまり欲望の問題としてとらまえた時には、ある種の可能性をどう見出すかとか、どこに問題があってどこが良いのかという区分けの問題が大変重要であるという段階にもはや来ているのに、ここを上手に語れる社会理論や社会思想はなかなか無いのが現状なんです。

ほとんどが批判的言説のみで、男女関係のここに可能性の萌芽が見えているといった語り口がほとんど見当たらない。80年代からこの二十年、三十年間の間に男女のあり方は随分大きく変わったはずなのに、「こういうふうによくなった」という言い方はほとんど見当たらずに、「一見表面的には良くなったように見えるけれども本質は何も変わらない」、そういう言い方が依然として支配的なようですね。

沢辺●あるいは一定の女性たちが気持ちいいと思っていることも「あんたそれは気持ちいいと思っちゃだめなのよ、間違っているのよ」という、「悪く思いなさい」というベクトルに働くと。

菅野●それはちょっとしたことのような気がするけど、本質的な問題を決めているなと思うんです。僕と西さんがやっている対談でも、僕らの共通了解として、社会の本質は次の三つと言っているんです。一つは「超越的性格」。自分たちを超えたものとして社会というのはある(存在する)。何か広がっている、自分を超えたルールとか、見えない制度とか、我々が縛られたり制限されている超越性。
もう一つはさっき西さんが言った「われわれ的性格」。もう一つは「変容可能性」、変わりうるという感覚。同じような日々の繰り返しのように思え、一見すると社会は変わらないように見えるけれども、十年、二十年ぐらいすると変わっていることがはっきりわかる。

『三丁目の夕日』という昭和30年代を描いた映画が一時話題になりましたね。ビジュアルで見せられると、この四、五十年くらいでこんなに社会も風景も変わったんだな、とあらためて驚かされるんですよね。変わりうるという感覚──もちろん良く変わることもあるし悪く変わることもありうるのかもしれないけど、俺らがいくら何かしたって社会は永遠に変わらない硬直化したシステムであるというふうにとらえるのか、そうではなく、日々少しずつ変わりうる人間関係の網の目としてとらえるのかということの違いは決定的なことなんです。

また先ほど西さんから、「われわれ性」の話が出ていましたが、どんなに薄められた形でも「われわれ性」というものをそこに見ているか見てないかということではまた違う。一人ひとり生活する人間が漠然とでも社会イメージを持っているのだけれども、社会にはどんな可能性があるかということを、思想というものがわかりやすい言葉できちんと語り、そのイメージでもって人びとの日常の感覚にちょっと揺らぎを与えてみる。そこで考えるヒントをつかんでもらったり、情緒の変容なんかの経験も含めて、こんな感じで社会が新しくイメージできるんだということがわかると、少し自分の身の回り、あるいは自分の見聞きするメディアを通した世界情勢までを含めた社会イメージのつかみ方が変わるんじゃないか。そんな希望を持って、現在僕は仕事を進めているんです。

秘めたラディカリズムと大きな希望をもつ『欲望問題』

沢辺●最後にこれはちょっと言っておきたいことがあれば。

西●久しぶりに社会の問題を考える意欲が出ましたよね。大学の仕事が忙しかったんで(笑)、そうなると社会の問題が遠くなるのね。『欲望問題』は、問題を自分なりにつきつめて、こういうふうにしていけばちゃんと考えていけるじゃん、欲望の問題としてとらえていけば一緒にゲイの問題や、いろいろな問題を考えていけるよ、と言ってくれている。これは希望なんですよ、すごく大きい希望。これを読んで久しぶりに世の中の問題を一緒に考えている気持ちになったし、世の中の問題がまた自分に戻ってきましたよね。

菅野●印象に残ったところはいくつもあるんですけど、具体的なページを上げると122ページの「ジェンダー関係をより良くしていく方法としては、折衷案としてではなく個々の現場でより快のある関係を作っていくことや、自分の求める性のありようを表現していくしかないと考えます。そして必要ならば、新たに社会制度を作ることもあるかもしれない。そうした一つひとつの試みの積み重ねこそ、人々にとって望ましい変化を引き起こすのだと思います」という箇所がとりわけ印象に残っていますね。社会を語る時にこういう感度を持っている思想家がなかなか少ないんです。この感度があらためてきちんと言葉になって表現されているということに非常に大事なものを感じます。

そして数行あとに「倫理的な禁止をいくらいったところで、事態はそれほど変わらないはずです。それよりは「こっちの水は甘いよ」といった感じで、楽しさや気持ちよさが高まるような、何かのプレゼンテーションをしていくことが、もっとも有効だと考えます。それは実際に、ここ数十年の男女関係の変化が証明しているのではないのでしょうか」とある。この箇所からも、伏見さんの優れた感度がはっきり看て取れる、と僕は思っています。

ある種の肯定的な言い方をすると、すぐ保守的だとか、守りに走ったとかそういう言い方をする人たちが往々にして多いんですけど、伏見さんの場合は決してそういうもんじゃない。ものすごく秘めたラディカリズム──ラディカリズムを大上段に振りかざして「俺はラディカルだ」と言ってる人間ほどろくなもんじゃない、ということがこのところよくわかってきたのですが(笑)──「秘めたラディカリズム」を感じさせる本であるということで話を終わりにしたいと思います。

西研◎にし・けん
1957年、鹿児島生まれ。哲学者。京都精華大学人文学部教員を経て、2007年より和光大学現代人間学部教員。
【著作】
いまのこの国で大人になるということ(苅谷剛彦、菅野仁らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
哲学的思考/ちくま学芸文庫/2005.10/¥1,200
考えあう技術(苅谷剛彦との共著)/ちくま新書/2005.3/¥780
よみがえれ、哲学(竹田青嗣との共著)/NHKブックス/2004.6/¥1,120
不美人論(藤野美奈子との共著)/径書房/2004.3/¥1,500
哲学は何の役に立つのか(佐藤幹夫との共著)/洋泉社新書y/2004.1/¥740
大人のための哲学授業/大和書房/2002.9/¥2,200
哲学的思考/筑摩書房/2001.6/¥2,500
哲学の味わい方(竹田青嗣との共著)/現代書館/1999.3/¥2,000
はじめての哲学史(竹田青嗣との共編著)/有斐閣/1998.6/¥1,900
哲学の練習問題/日本放送出版協会/1998.1/¥1,500
「考える」ための小論文(森下育彦との共著)/1997.5/¥720
哲学のモノサシ/日本放送出版協会/1996.5/¥1,456
実存からの冒険/ちくま学芸文庫/1995.12/¥840
ヘーゲル・大人のなりかた/NHKブックス/1995.1/¥970
実存からの冒険/毎日新聞社/1989.11/¥1,456

菅野仁◎かんの・ひとし
1960年、宮城県生まれ。社会学者。宮城教育大学教授。専門は社会学思想史・コミュニケーション論。
【著作】
いまのこの国で大人になるということ(苅谷剛彦、西研らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
愛の本/PHPエディターズ・グループ/2004.12/¥1,500
ジンメル・つながりの哲学/NHKブックス/2003.4/¥970
はじめての哲学史(竹田青嗣、西研らとの共著)/有斐閣/1998.6/¥1,900
現代社会学とマルクス(細谷昂らとの共著)/アカデミア出版会/1997.6/¥15,750
「近代」と社会の理論(堀田泉らとの共著)/有信堂/1996.6/¥2,835
行為と時代認識の社会学(小林一穂らとの共著)/創風社/1995.9/¥1,575
社会学史の展開(山岸健、船津衛らとの共著)/北樹出版/1994.4/¥2,730

野口勝三vs沢辺均ロング対談・最終回

最後に
『欲望問題』を勧める理由

沢辺●さて長い時間話して来たんですが、いままで議論したことの他に『欲望問題』をめぐって野口さんから言っておきたいことってありますか?

野口●繰り返しになりますが、自分自身の信念や理念が社会、他者との関係の中でおかしいんじゃないかと気付いた時に、人はどうやってそのことを自分の生き方の中に繰り込んで、考え方を紡ぎ、自分に還元していくのか、また他者との共生を可能にしていくのか、その普遍的なプロセスを探求した問題としてこの本を受け取って欲しいと思っています。

沢辺●すごく偏った見方かもしれないけど、長い間、反差別運動を僕は僕なりに興味をもって見てきて、89年の藤田敬一さんの『同和は怖い考』では、部落解放運動を巡って、当事者だけがそれが差別かどうかのジャッジをするという考え方は間違っている、被差別者の不利益は全て差別が原因だと言うのはおかしい、という主張がなされ、その視点がかなり衝撃的だった。

その次に小浜逸郎の『弱者とは何か』という本が出て、これも僕にとっては差別問題をきちんと考え直していく流れきっかけになった。今回の伏見さんの本はその流れの中にあり、いろんな意味でそれらを越えていると思う。

まさに被差別の当事者として、理論的な意味での差別運動のオピニオンリーダーというポジションから、さらに差別の問題から欲望の問題として物事を転換していくという新たな視点を示したと思う。日本の差別問題を巡る言説の中でこの本は重要な転換点に位置づけられると思ってるんです。

野口●反差別運動というのは往々にして運動自体を自己目的化しやすいんですね。とりわけ抑圧が強かった人、ルサンチマンを強く抱いている人は、差別問題という枠組みに乗ることでメタに立とうとする傾向が強くなる。その枠に乗れば社会を否定し、抑圧の対象を否認することができ、マジョリティより優位に立てますから、ある意味楽というか快感になるんです。

そうした状態を一旦全てリセットして作り直すというのは最初にも言ったように、そんなに簡単なことではない。この本で伏見さんはそれを実行した。これは反差別運動の成熟形態と言えます。

今後の反差別運動、社会運動はこの本で提示された視点を繰り込んで成熟していく必要があると思います。先に述べたように反差別運動は「正義の純化」が起こりやすいので、そういう領域で、フロントランナーであった人が成熟形態に移行していく道筋を提示したのは画期的だと思います。

差別の問題、社会問題に関心がある人、特に若い世代の人にぜひ読んでほしい。きっと、何か受け取れるものがあるのではないかと思います。

「命がけで書いたから命がけで読んでほしい」と書いてありますが、むろん伏見さんも読者が命がけで読んだりしないことは十分分かっているわけです。面白いと思うのも思わないのも、またどのように読むかのかも読者の自由であるということは当然で、そんなことは十分分かっているんですね。

ただ、人は表現をする場合、他者へ何らかのメッセージを伝えたい、受け取ってほしいという思いを抱いている。ある場合その思いは軽いものかもしれないし、楽しんでもらおうというものかもしれない。

しかしこの本において、伏見さんが他者へ受け取ってほしい気持ちはこうした言葉でしか表せなかったのだと思います。このような言葉でしか表現できない思いを込めた本を書かざるをえないときがあるということなんですね。この言葉は、伏見さんのそうした「倫理性」の表明と考えたらよいと思います。

そして、こうした本では読み手もどう生きてきたのかが問われてしまうんですね。自身の信念を補強することに終始していたり、捉え返すことをやってこなかった人は、面白くないでしょうし、ともすれば感情的な反応しかできないかもしれない。

しかし、自分の生き方を考えざるを得なかった人や、自身を一から作り直さなければならないような経験をした人には伝わるかもしれない。その意味で読み手の「倫理性」もまた問われてしまうのだと思います。

沢辺●ありがとうございました。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第七話

共同性の意味をもう一度再考してみよう
━━『欲望問題』第三章「X-men」のエピソードから

沢辺●振り返って考えると僕はいま50歳だけど、10歳代から「家族帝国主義」という言葉も含めて、家族や共同性にからめとられるのにすごく反発してきた。しかしもう一回戻って、いまや配偶者がうちにいないと、俺一人に成ったらどうなるんだろうという不安感を如実に感じると、人がいてほしい、自分以外の他者といっしょに何かをしたいという欲求はかなり強烈にある。やはり共同体は必要なんですよ。

ただ、従来の共同体の負の面、いやなところをできるだけ薄めて共同体のよさを生かすという視点が、この年齢になって出てきた。共同体そのものを否定するのではなく、その在り方を改善したほうがいいんだというふうに気持ちが変わった。その自分の気持ちと、伏見さんが『欲望問題』の第3章で取り上げた「x-men」のエピソードが深くリンクして感動したんですね。

野口●いま言われた共同性の意味をもう一度再考することが重要ではないかという指摘は重要だと思います。近代社会は個人の自由がだんだんと確保されていく社会ですが、その自由は、経済的な自由、財産権や私的所有権を確保するということからはじまり、貧しさからの解放や政治的自由の獲得、生き方の自由の確保という方向へと向かっていきます。

つまり与えられた役割にしたがって生きなければならない社会から、多様な生き方を選べるような社会を少しずつ作っていくようになる。

そのときに自分にとって重要だと考える共同性を生きる場として選ぶことが当然ある。そうすると、沢辺さんがいうように、どういう共同性なら正当化されうるのか、またよりよい共同性の形とはどういうものかを考える必要が出てくるんですね。家族という共同性もそうだし、ゲイという共同性もそうした選択した共同性だといえます。

ゲイに関しては、自分がゲイだという確信は、向こうから疑いようのないかたちでやってくるという点では、非選択的なものですが、それを生き方として選ぶかどうかというのは本人次第ですから、その意味ではゲイも選択的な共同性なんですね。さまざまな共同性は、人々の生きる意味を供給するという形で社会の中に存在しており、さまざまな共同性の意味をもう一度考えなければならないのだと思います。

一方、共同性があるから対立や争いが生じる。だから共同性自体を解体していかなければならない、という論議がある。クィア理論なんかもその一つですね。同性愛というカテゴリーは近代の産物で、近代ヨーロッパという特殊な歴史的・社会的条件のなかで生まれたものであり、異性愛/同性愛という対立枠組みができることで同性愛者差別が生じてきた。

だから同性愛者として異性愛中心の社会に異議を唱えるということは必要なことだけれども、同時に同性愛/異性愛の二項対立的枠組みを作り上げている社会システム自体を解体しないと差別はなくならないというわけです。この考え方は理路としては、性別二元制が男女差別の源泉だというのと同じですね。男女というカテゴリーを作り上げる性別二元制という土台を解体しないと男女差別はなくならないというのと同じ論理構成といえる。このような理路は「論理的」には「正しい」。

同性愛差別にしろ女性差別にしろ、同性愛/異性愛や男/女のような対立する土台自体を解体すればなくなるのはまちがいない。カテゴリー自体がなくなるわけですから、カテゴリーを前提にして初めて存在することになる差別という現象は当然なくなる。

しかし「論理的」に「正しい」ことが、人間にとって「正しい」とは必ずしもいえない。なぜなら、先に述べたように共同性は人に生きる意味を供給するための不可欠なアイテムだからです。人間は実存の基底に不安を抱えているために、さまざまなかたちで何らかの共同性を必要としています。人類の歴史から共同性がなくなったことがないのはそのためです。

ですから、人が差別をなくすために共同性自体の解体を選択するかといえば、そんなことはしないんですね。自身の欲望の条件のなかから差別の解決をはかっていくというのが、人間の一般的なありようですから。人がそうした共同性を必要としなくなって初めて、その共同性を解体する条件が整うわけです。先の二項対立の土台自体を解体するという理路は、人の欲望の条件を満たさない場合、問題を「論理的」に「解消」しているだけで、「解決」するものでないんですね。

沢辺●本質的なものごとのとらえ方として異論はないんだけど、一方で、僕は懐疑的なところがあって、気分として共同性に対する嫌悪感って意外にない?

野口●共同性を嫌だと思っている人があんまりいないということ?

沢辺●いやいやいっぱいいるということ。現実にはゲイという共同性がベースにあるからこそ、ハッテン場とか含めて十二分に楽しんでる面はあるんだけど、同時に家族や会社、組織に縛られたくないっていう気分が多くの人に同居しているような気もする。

マルクス主義的なものの見方の残像みたいなものも結構あって、雇われている人だと、会社にうまく利用されないよう気をつけたりと、会社も共同体の一つとすれば利用もするし利用されることもあって、自分の自由と折り合いをつけていくための問題解決の場として考えていかないと決してその場をうまく生きられない感じがするんだけど、なんか突然アプリオリに空気として共同体嫌悪があるような気もする。

ただしそのことは徐々に減っていくのかなという気もしていて、そんなに心配もしていないところもあるんだけどね。もちろん本質的には、野口さんがいったようにみんな共同性をそこそこ楽しんでいるわけですよね。親の嫌なところはあるにしても、切り捨てるなんていうピュアな生き方なんかしないで、いい歳こいても親に金出してもらって利用もする。僕はそれを悪いことだと思っているわけじゃないんです。

野口●なるほど、何らかの共同性による拘束を嫌がる人が増えてきているのではないのかということですね。それについては僕はこんなふうに考えています。

人間は実存上不安を抱えた存在なので何らかの共同性を必要としてきたのですが、一方で近代社会は人間の自由を推し進めることで共同性からの解放を実現してきたわけです。その結果、現在の人間は、共同性の希求と共同性からの解放という相反する欲望を抱え込まざるをえなくなっているんですね。

特に日本は独身でも生きやすい社会的条件が整ってきている社会だと思います。夜の一人歩きも大きな危険が伴うわけではなく、24時間開店しているコンビニのネットワークが整備されてきているように、独身者でも不自由を感じない社会になってきた。

すると不安や不自由を強く感じるようになるまでは、できるだけひとりで生活したいという気持ちを持つ人が増えてくるんですね。ですから不安や不自由を感じなくなるような社会的条件が整えば、さらに一人で生きたいという人も増えてくるかもしれない。

ですが、これは年齢とも相関性があるでしょうね。年を経て自分だけの欲望の追及よりも、我慢するコストを払っても関係の欲望を選択するかもしれない。

雇用に関して言えば単位時間当たりの労働者一人の生産性が非常に高くなり、組織に所属しなくても安定的な収入を得ることができるようになれば、一人でやっていけるようになるかもしれない。ただこれは今のところ一部の特殊な職業でしか実現していませんね。

いずれにせよ共同性の拘束と自由の希求をどのように調停するか、その社会的条件が何なのかをさまざまな共同性にクラス分けして考えていく必要があると思います。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第六話

それは社会に承認される可能性を持った主張か
━━これからの社会運動の命題

野口●僕の感じでいうと、人が社会性を獲得していくための前提条件は、沢辺さんが言われたように、自分の考えや意見を受け止めてもらえて、違和感も含めて率直に意見をやり取りでき、お互いの考えを鍛えていけるような場面をもてるようになることだと思うんですね。もう一つは、多くの人がある状態をおかしいと思ったときに、例えば、一票を投じたら政治が変わりうるような、自分たちの考えが社会政策として反映されうる条件が実現してくることだと思います。そうすれば、その感度は広がっていくはずなんです。

多くの人は社会を動かしがたいと思っていて、人々がそうした実感をもつのには必然的な理由があるわけなんだけど、思想の課題はその理由をはっきりさせることと、どのような条件が整えば人々が社会とのつながりを実感できるようになるのかを明らかにすることです。

沢辺●そのときに大切なのは、正しさということを先におかないということ。これも竹田青嗣さんのパクリですけどね(笑)。

野口●「これを私は正しいと思う」という投げかけはいいんですね。大切なのは、互いの意見をすり合わせること。批判されたときにキチンと受け止め、納得がいくようなものなら、対話の過程で変えるのをいとわないことです。「正しさ」はそのような形で成立するものなんですね。

ルソーは『社会契約論』で統治権力の正当性の根拠を一般意志とよびます。一般意志とは何かというと、ルソーは変な言い方をするんだけど、要するに各人の共通の利益ということを意味していると考えればよいと思います。共通の利益が実現するように権力が行使されずに、一部の利益だけが確保されるような事態に対して批判を差し向けることができるというんですね。つまり、統治権力において特殊意志が一般意志を僭称するとき、その権力は批判され、一般意志を実現していくときにのみ正当化できるわけです。

ルソーのこの考えは社会批判の正当性の根拠を明らかにしたものだと考えることができます。つまり、近代社会では各人は対等の権利を持って存在しているために、そこでは特定の誰かの利害を先験的に優先することができず、各人の共通の利益のみが「正しさ」の根拠になるということを意味しているわけです。これは非常によく考え抜かれた論理です。

たしかに私たちは社会政策や制度に対する批判を、暗黙の内に想定した万人の共通の利益を基準にして展開しています。その政策や制度が万人の利するものではなく、一部の人間だけの特殊利益になっているという根拠によって批判できると考えているんですね。もちろん一般意志とは実体としては存在しない、概念として想定されるものですが、この想定によって制度批判が可能になるわけです。逆に、このような概念を想定しないと、万人が対等な権利を持った社会において制度批判を行うことはできないんですね。

では一般意志が実現するための条件は何なのか。ルソーはそれを特殊意志をもった強大で巨大な集団が存在しないことだとします。別の言い方をすると、特殊意志が一般意志を僭称するようになる条件は、強大で巨大な特殊利害を持った集団が社会のなかにいくつか存在していることだといってもよいでしょう。これもよく考えられた原理です。

もし特殊意志をもった集団が巨大で強力な力を持っていた場合、その組織の統治権力への影響力が大きくなるので、特殊利害が統治権力の権力行使に強く反映されるようになるわけです。そうなってしまうと一般意志の名を借りて特殊意志が追求されるようになってしまうんですね。

では次にそうした特殊意志を持った巨大で強力な集団が存在しないための条件は何かを考えてみると、これもいくつか取り出せます。統治権力との係わり合いで言えば、政権交代が可能な二つ以上の政党が存在することが重要になります。もし一つの政党だけが統治権力に関わるようになり、特殊意志をもった集団がその政党との結びつきを強めれば、集団の影響力が強まりますから一般意志が実現しにくくなってしまう。

ですから、つねに政権交代が可能になるような二つの政党が存在していることで、政権与党と特殊意志をもった集団の結びつきを緩めたり、特殊意志を持った集団の強大化を防ぐようにしなければならないんです。

例えばアメリカの二大政党制の場合、共和党、民主党の支持母体に強大な力を持った利害集団が存在して、それぞれの政党と密接に結びついているわけですが、日本の場合、政党の思想やイデオロギーと集団の思想が純化した理念で結びつきにくい社会なので、政権が交代すれば特殊意志を持った集団は、今まで支えていた政党を鞍替えして新たな政権与党を支えるようになりやすいと思います。そうすると特殊意志をもった集団の力は相対的に低下するんですね。

このように思想としては一般意志を実現していくための条件を一つずつ確定していくことが重要で、その上に立って個々の具体的な政策内容や手段を決定していく必要があると思います。これからの社会運動も単に反体制・反社会的立場に立てばよいというものではなく、自分たちの主張が社会に承認される可能性を持ったものか、一般意志にかなっているのかを考えて行動していかなければならない。それがまた実践を支える理論を鍛えるための場になるわけです。

沢辺●さっきも言ったけど、かつて公務員をやっていたこともあって、公務員の友達も多いんです。この4、5年、俺がつき合っている数少ない公務員の中にも、「給料さげてもいいよ」という公務員がいるんだよね。不景気なときに公務員の給料がなかなか下がらないから、相対的に突出するわけですよね。僕も「おめえら高いよ」と言うわけで、社会もそういうトーンになるでしょ。こうした例は[公務員である自分の給料は一般意思に適応してるのか]を気にしてるってことだと思う。

また、人間は自分の目に見える直接的な利害だけで生きているわけじゃなくて、他者からの承認も求めちゃうもんだと思うんだよね。例えば医者だからといってともかくいっぱいお金もうけましょう、という人ばかりじゃないよね。承認を得るためにがんばる人がいるんだと思う。

野口●自分たちの利害が政策に直接反映できるようになると、利害の追求に求心化されていくんですね。最近大阪市で明らかになってきた同和行政の問題もその表れだといえますし、医師会や郵政団体のような政権与党を支える集団の問題もその一つですね。

人は自分たちの生活条件を少しでもよくしたいという思いがあるので、もし自分たちの利益が簡単に実現するようになれば、常識を欠いた利益でも保持して手放さないようになる。特殊利益を実現するルートが確保されれば、自分たちの主張が妥当なものかどうか問い直すことがなくなるんです。

重要なのは、そうならないための社会条件は一体何なのかを一つ一つ考えて、一般意志を実現するためのグランドデザインを描いていくことです。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第五話

相互の「自由」を実現させるには?
━━『欲望問題』のその先にあるもの

沢辺●それ、大変だよね。相互の自由をうまく調和させましょう、折り合わせましょうというところに立つこと自体がけっこう大変だよね。

野口●具体的に政治の決定システムの中に入っていくのはなかなか難しいところは確かにあるとは思うんだけど、例えば現在同性愛者に対し、その存在を全否定して、殺してしまえばいいと主張する政治家はいない。一般の人でもそんな人はほとんどいないわけですよね。そうすると、普通の感覚で生きている人を説得できるプランを実現していく可能性はあると思う。

沢辺●ただね、僕は会社をつくって仕事をしているわけですけど、そこにはもれなく不測の事態というのは年がら年中おこるわけです(笑)。

例えば今日6時から彼女とデートを設定していても、トラブルが起こってどうしても仕事を残ってやらなければならないということがおこる。だけどみんな自由だよね、ということを前提にすると、まだ「僕の自由だからトラブル放っておいて帰ります。それが僕の自由でしょ」そういう程度の自由観が多数なんじゃないかな、と。

野口●そういう意味か(笑)。公共性を作り上げていく志向性があんまりないんじゃないかということですね。各自の自由に対する感度はあがってきたけれども一緒にコストを払っていくという感覚が。

沢辺●ひとたび仕事で稼ぐということであればそのトラブルに対処しなければいけないわけだよね。例えば担当者が僕と野口さんの二人だったとします。「じゃあ野口さん、今日の彼女はどうしても落としたいから今日は頼むよ。今度は僕がやるからさ」と僕がいう。野口さんは野口さんで誰かと飲む約束していたりして、そうやってお互いの自由がぶつかるわけだよね。

そうやって二人の自由は両立しえないということがある。もちろんそこには原因であるトラブルを減らすという解決策もあるけれども、それは明日からのことで今からはできないよね。あるいはその仕事を断念する。客には売らなくてもいいとする。それも自由ではあるよね。

野口●自由についていえば、最初から絶対的な自由というものがあるわけでなく、各人がお互いを認め合うことではじめて自由な存在になることができるわけで。

沢辺●そうそう。ところがその自由という感覚はお互いの自由を調和させてうまく実現させていかない限り、自分の自由すら実現できない。そういうところまでは自由がみんなのものになっていない。

ただそのことを後ろ向きにまだまだだよね、と評論家的に言っていてもしょうがなくて、それをさまざまな形で「昼飯をおごるから」とか「今度は俺がやるからさ」とか、あるいは「なんで沢辺おまえだけしらんぷりするんだ」と文句言ったりして対話するとか、さまざまな組み合わせのなかで、じゃあそういうトラブルがあったとき交替で対処するくらいはしょうがない、ということを了解し合う。

そうやって徐々に具体的な解決策が出来てくるんだけど、今の我々は、その解決策を山ほどつくっていく鳥羽口、いや2合目くらいにいるのかなという感じなのね。………………つづく

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第四話

対話から問いを立て直していく
━━『欲望問題』の面白さ

野口●今言われたように、反権力をスローガンにした社会運動はよく普通の生活者の中に生きている「常識」や「普通」に対して、過剰に反応して「常識」って一体なんだ、「普通」ってなんだと攻撃的な態度に出ることが多いんだけど、当然のことながら「常識」の中にも良い部分と悪い部分が必ずある。「常識」というものが、人が共同的な社会を生きていく中で醸成されるものである以上、そこには異なる価値観をもつ人々が一緒に生きていく上で必要になる作法、合理性も当然含まれる。「常識」には、そうした人の倫理の普遍性と、一方的に何かを排除しようとするような、近代的な人間観に抵触したものが存在している。つまり、「常識」の中の正当化できないものと正当化できるものを区分けする必要がありますね。

これもさっきの議論と同じで、自分たちの価値観、意見、共同性と違う人たちからの意見に対して、それはマジョリティの常識的な意見だと十把一絡げで否定するのではなく、その意見を区分けして核を取り出していき、正当な意見かどうか検討しなければならないわけです。

さっきの沢辺さんの地下と地上の話でいうと、役職や地位というものは、人間が一緒に集まってひとつの組織を運営していく上で不可避的に生じるものです。全員が平等な立場で同じ決定権を持って運営するのは、組織が大きくなればなるほど不可能なわけです。だから地位が生じること自体には普遍性があるということを認め、よりよい地位関係はどのようなものかとか、それはどうやって作っていけばよいのかなどの具体的な方法論を考えていくことが重要だと思います。

この『欲望問題』にも、多くの人が枝葉の部分でいろいろ言ってくるかもしれない。例えば、伏見さんはフェミニズム、ジェンダー論が性差解体を主張していると言っているが、こういう議論もあるし、ああいう議論もあるというような反論が必ずあるでしょう。また、なぜジェンダーフリーを主張する側への批判ばかりで保守派への批判があまりされていないのかという意見もあるでしょう。でもそれは読み方としてはまったく正当な読み方ではない。

議論に耳を傾ける場合、核心をまずつかむ必要があり、それをつかんだ上で、この掴まえ方にはこういう問題があると言う必要がある。今回の場合、例えばジェンダーフリーに関する部分では、ジェンダー論が性別というものをどう扱うのかについての原理を提出しないまま、性別が悪いものだというイメージを流し続けていることを批判しているわけです。

一方ではジェンダーを政治的な概念だといい、一方で中立的な概念だということを主張して、学問の世界以外の人に理解できるような論理をキチンと提示していないことを批判しているわけです。もっとも学問の世界の人間が正確に理解しているのかどうかもあやしいのですが。そして、学問の世界のこうした誠実でないやり方が、ジェンダー・フリーバッシングの動きを背後で支えているのではないかという疑問を提出しているんですね。つまりジェンダーフリーへの反発の根本原因は、ジェンダーフリーを推進する側や、ジェンダー論の研究者にあるのではないかという疑問を提出しているわけで、問われているのは自分たちです。ですから批判をするなら、保守派に対する批判をなぜもっとしないのだ、などのような問いをずらす反論ではなく、こうした論点に直接向けた反論をする必要があると思います。

もし批判を相手の議論の核心をつかんだ上でなさずに、自分に都合のよい点だけで行うなら、議論が自己の信念を補強するだけの、単なる闘いのための言語ゲームになってしまい、議論を深めていく対話のための言語ゲームでなくなってしまう。でも本当は、闘いのための言語ゲームなんて自己意識を強化するだけの作業で、たいしたことじゃないんですよ。

僕はいま学生と一緒に文章を作る仕事をやっていて、学生は自分の経験の中の出来事やそのとき感じたことを捉え返して、なぜその出来事のそういう感情を持ったのかを考えて文章を書いてくるんだけれども、僕のアドバイスと同じことを同じ言葉で書いてきたのを読んでもまったく面白くないんですね。僕がアドバイスした内容と同じ意味であっても、彼ら固有の表現で書かれているとやっぱり面白い。また、僕が思いもよらなかったような理由を彼ら自身が取り出して書いてくると、やっぱり面白いんですね。実は言論の本質はそこにある。

闘いの言語ゲームで勝つというのは、いわば自分の言葉で相手との違いを全部埋めることになるわけですよね。でもそれは本当はつまらないことで、言論の本質は、自分が投げかけた言葉を相手が受け止め、さらに返してくるやり取りの過程で、自分が触発され、考えを深めることができるというキャッチボール、対話性の中にある。言説の世界で、言論の持つそうした面白さに対する感度がどんどんなくなってきている気がする。自分の信念で全部埋め尽くして、批判されると排除しようとする傾向がある。それは結局自意識に負けていることを意味しているんですね。そういう形で言論という言語ゲームが闘いの言語ゲームに還元されてしまう貧しさを感じていて、とても残念に思います。

しかし伏見さんの『欲望問題』はそうではなくて、ある議論に感じたことを内省して、その感覚が一体どこからくるのかということを、相手の議論の核を受け止めた上で、自分の経験や自分のありようとすりあわせをしながらもう一度初めから考えている。さまざまな立場の人々との対話が『欲望問題』のいちばん中心にあるんですね。結論も重要なんだけど、それ以上に相手の意見を受け止めようとする態度や内省のプロセス──それは生き方とも言えると思うんだけど──がこの『欲望問題』の一番の面白さだと思う。

沢辺●その通りだよね。具体的に言えば、少年愛の指向を持っている人から手紙が来たという話が書いてあるんだけれど、その少年愛の指向を持っている人と自分は居る場所が違うだけ、自分と相手との間には大きな川があって、相手は犯罪者で自分は正常だと分けているのでなく、自分と相手が居る場所は地続きの中にあると位置づけている。僕はこれもすごいなと感心したことのひとつなんです。

ほとんどさまざまな問題に自分を重ねているでしょう。少年愛を指向している人を自分と無関係なこととしてどう評価するのかではなく、例えば自分が少年愛という指向をもっていたらどうだったのかとか、自分が持つ可能性はあったのだろうかとか、ほとんどの事象に対して、自分を重ねている。これはまったくすごいよね。

野口●うん。たまたま自分はゲイであり、少年愛ではなかったという自分自身の性の指向性をさまざまな性の指向性との連続性の中で捉えるということは、今言われたように問題に自分を重ね合わせるということなんですね。またさらにすぐれているのは、自分の問題として捉えてそれを全部正当化するのではなく、その指向性を社会の中に置き直したときに、どのレベルで認められる問題なのかということを、もう一度捉え直している点ですね。少年愛の場合は内面の問題としては仕方のないことだが、社会的なルールとしては認められないだろう。何らかの線引きは社会にとっては必要だろうと、痛みに満ちた結論を引き受けているわけです。

これは、別に少年愛者だから裁断しているわけではなく、ゲイに関しても同じなんですね。ゲイだからということでゲイの利害が全部通るわけではないということを引き受けている。ゲイは再生産を核にした家族中心の社会において、抑圧を受けてきたといえるわけだけど、だからって、家族、子供を作る人たちは自分の利害に反する存在だ、家族を再生産していく社会システム全体が間違っている、とは言わない。ゲイである自分は子供をつくらない。子供を中心とした家族を営むわけではない。しかしながら社会の存続可能性にとって子供が必要である以上、ゲイも同じ社会を生きる人間として、社会を維持するコストを払う必要がある。子供を作るという形でのコストを払うことができないけれども、それに代わりうるコストを払っていく必要がある。このように自分を常に他者と重ね合わせながら、社会の中に置きなおして普遍化して検証する態度を一貫して持ち続けているんですね。

ゲイリブの中には「反家族」という理念を打ち出す人もいる。しかし同じ社会のメンバーである以上、それを維持するためのコストは、どのレベルでどの程度払う必要があるのかは議論によって決定されていくのでしょうが、互いに負担しなければならない。異なる利害を持っている人が同じ空間のなかで存在する以上、維持するコストはお互いに払っていく必要があるという意識を持つこと。公共性というのはそういうものですね。

家族を自分たちを抑圧する共同性だからと否定するのではなく、家族を持ちたいという利害を持った人たちも社会の中にいて、われわれもそうした人々も等価なものとして社会の中に存在している。自分の利害は絶対的なものでなく、他者によって相対化されうるものであり、そういう人間同士が一緒に社会を作っていくならば、誰がどのようなコストを支払うのかは、対等な権利をもったメンバー同士で決定されうるものだ、と。ところが、特殊なイデオロギーを持つと、このような見方がなかなかできないんですね。

そこから抜け出すのは難しいと沢辺さんがおっしゃったんだけど、全くその通りで、イデオロギーは世界を見る認識枠組み、フィルターのようなものの一種だと考えることができる。図式化して言うと、世界はいわばカオスであって、人は何らかのフィルターを通してカオスとしての世界を、再整理して認識していくわけです。そのときのフィルターにマルクス主義があったり、フェミニズムがあったり、クィア理論があったりする。そして、このフィルターを信じていればいるほど、そのフィルターを通した世界像から抜け出すのが困難になるんですね。

大切なのはこのフィルター自体を検証する回路を持っておくことです。その認識枠組みを共有しない人が、さまざまな現象をどのように意味づけているかを不断に検証しておく必要があるんです。自分たちはある現象にAという意味づけを行っている。しかしながら同じ現象を別の人はそのように意味づけていない。だとすればもしかしたら自分の認識枠組みが間違っているかもしれない、それが本当に正しいかどうか検証してみよう、というように自身を内省する回路を作っておかなければならない。この認識を共有する人たちだけにしか通用しない議論をするのではなく、その認識枠組みを知らない人に対しても理解可能な議論をしていく中で、互いの認識を深めていく過程をたどらなければならない。

そういう姿勢を持つことが今後の反差別運動では特に求められていると思います。現在、先進国では各人の自由がだんだんと実現されてきた。日本もそうですね。もちろん全ての自由がかなえられているわけではないが、自由の水準が上昇した社会になって来た。このようなときに、ある特定の利害に基づいた見方をみんなが共有すべきだという議論は、その利害を持たない人には全く通用しないんですね。そのイデオロギーを信仰してしない人から見ると、何を言っているんだろうこの人たちは、となる。

だいたい「普通」に生きている人たちは、強固な一つの利害に基づいて生活をしているわけではないので、議論を俯瞰して冷静に見られる人が社会に大勢いることを認識しておかなければならない。そのような現実に謙虚であり続けなければならないんです。

異なる価値観を持った人同士で生きていく社会である以上は、差別の克服というのは非常に重要で、アメリカなんかが典型ですけど、他民族国家の社会においては差別を克服できないと社会の存続自体が危うくなる。現在の日本では異なる民族の人たちの共生の問題はそれほどクローズアップされていないけれども、今後だんだん問題になっていく可能性がある。

それは民族だけでなく、ゲイや障害者、いろんなマイノリティもそう同様です。そのときに多くの人が納得しうるような論理を立てないと、結局差別の克服は実現できない。マイノリティ側にとっても自分たちの言葉が全然通用しないという現実を、反権力、反社会的な信条だけで目をつぶってやり過ごしていくことになる。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第三話

先祖の祟りだというのと同じ!?
━━近年のジェンダー論を批判する

野口●僕もかつて、伏見さんの本を最初に読んだとき、ゲイの反差別運動と理論は性別二元制の解体というものに定位していく必要があるという結論を、なるほどその通りだと思っていました。でもだんだんその議論が本当に正しいのだろうかという疑問を持つようになった。その理論を自分の生に引き付けてとことんまで考えてみると、自分がゲイだということ、男であるということ、それ自体を悪いとはどうしても思えないという違和感が残った。そこで初めて、もしかするとこの議論自体がどこかがおかしいのではないかと思えてきた。それはいったい何なんだろう、というのが僕自身が思想や理論を一から考え直そうとした動機なんです。そこで僕がぶつかった問題は、一言で言えばルール批判の、または社会批判の正当性の根拠は何かという問いだったわけです。

多分伏見さんも同じだったのではないかと思う。理論というものは具体的現実を基点にして、それを抽象化することで作り上げられるわけですが、そこで作った理論は再び具体的現実によって検証する必要がある。理論は具体性と抽象性の間を何度も往復することで初めて普遍的なものとなっていく。そのときに重要なのは、理論にとって都合が悪い具体的事実が出てきた場合、それを正面から受け止める必要があるということです。具体性による検証によって都合の悪い事実をもう一度繰り込むことで、理論を新しい形に編み上げ直さなければならないんですね。

その意味で、特に理論を作るような人々、典型的にはアカデミズムの人々は現実のありように謙虚である必要がある。自分たちの作り上げている理論が現実の人々の中でキチンと生きているか検証しなければならない。自分たちの理論というものが現実世界によって試される一つの考えに過ぎないんだという謙虚な姿勢を持たなければならない。自分たちが特定のイデオロギーを再生産する制度になっていないかを現実世界の中につねに内省していくことが大切です。これは実は、現代社会における「知」の役割は何かという問題を考えることでもあるんです。しかし都合が悪い事実が出てきたときに、例えば「あなたはそう言うけれども、実はそれは背後にある〜に言わされているんだよ」というようなロジックを組み立てると、都合の悪い事実が都合が悪いという形で処理されないんですね。理論に当てはまらない現実の矛盾を無視するということになってしまう。これは実は「他者」に全く向き合っていないということを意味しているんですよ。こうしたロジックは現在のジェンダー論に広く見られると思います。

沢辺●それは失礼なことだよね。お前はだまされてる、バカだっていうことでしょ?

野口●例えば、たとえ好きな人とセックスをしていてもそれは強姦なんだということを平気で言えるようになる。こうした物言いは、あなたはおかしいと思っていないかもしれないが、実は先祖に祟られているんだ、と言うのと論理的には一緒ですね。

沢辺●「僕はあなたが嫌いだ」というのは個人的な好みだからいいけど、「あなたは真実を見てませんよ、だまされてますよ」と言うっていうのはものすごく失礼だと思う。

野口●もちろん、「だまされていますよ」っていうとき、なるほど確かにだまされてるなって思える説得力のあるロジックが組み立てられているのならいい。例えば、何らかの政治課題について、〜のように思っているかもしれないが、実際の政策決定の現場ではこういうことが行われているんだよという確かめられる情報を提示されたときに、ああ、なるほど、先の考えが自分の思い込みだったと気づくこともある。そういうふうに相手を説得することができる論理を組み立てることができるか、また組み立てようとする意志があるかどうかが重要なんですよ。

沢辺●相手がだまされていると思ったときに、きちっと説得できるだけのロジックを獲得している者と、ただ単に信仰として信じていないから間違っている、だまされているという理屈は根本的に違うということですよね。僕はそれはその通りだと思うんだけれども、それともうひとつ違う判断基軸が実はあるような気がしている。それって本人に正面から間違っているって言っているかどうかという問題。多くはそういう場合、本人にはだまされてるって直接言わないんですよ。

例えば、フェミニストの批判する美人コンテストの話で言えば、社会が悪いと遠回しに言っているんだけれども、要はそう思わない女はバカだって言っているわけでしょ。もちろんそういうひどい言葉では言わなくても「あなたはだまされているから気づきなさいよ、なぜならこうこうこうですよ」ということを、真っ正面から言わずに遠回しにしか言わないじゃないですか。僕は、そういうのは思想的に真摯じゃないと思う。人民がだまされているとか、女性がだまされているって本当に思うんだったら、すべての女性はだまされているってちゃんと言った上で、野口さんがいうようにそれはなぜなのかというロジックできちんと説得していく。それがどんなにボロボロになっても袋だたきにあっても私はそう思うんだと最後まで説得しようとする態度があれば、ひとつの有り様として許容できるんです。しかし、そうではなくシンポジウムとか、結果的に自分に共感する女の人たちだけが集まるような場、そういうところでしか言わない。だいたいシンポジウムなんて論者に共感している人しか来ないじゃない? ふだんの現場、たとえば正月に親戚一同が集まり女の人が半分いるような場で、勝負していないっていう気がする。それはやっぱり真摯さに欠ける。

野口●なるほどね。それはさっき言ったあるひとつの信念を強固に信じた共同体っていうのができると、その外に対する感度が悪くなり、それ以外の考え方をキチンと開こうという意識が希薄になってくるという問題と通じますね。そうした態度は「他者」と向き合うという姿勢から最も遠いものですね。 「他者」に向き合うとは、自分の信念はもしかしたら間違っているかもしれない、それはさまざまな信念のうちの一つとして相対化されうるものだという意識を持つこと、異なる意見を言っている人々の議論を適切に受け止めて、批判の核を捕らえるという事を意味しているんです。批判をしている人たちを十把一絡げにするのではなく、批判を分節化して、この人の批判には理がない、この人の批判についてはきちんと自分たちが考えなければいけないという区分けをして、相手の言葉をつかまえるような努力をするということなんですね。「他者」に向き合うことを要請する議論には、実際にはこうした視線を欠いたものが数多く見られます。それは結局鏡像的自己像を確認しているだけなんですね。

沢辺●この『欲望問題』は、僕にとっては自分が左翼をやめたことと非常にオーバーラップしてしまう本です。僕、実は20代の頃は地方自治体の中の労働組合運動を中心に左翼をやっていたんですよ。組合事務所が地下1階にあって、そこで組合の役員たちが活動家として議論するわけですよ。しかしそこで議論していることと、昼間は机を並べて一緒に仕事している人とは全然噛み合ないわけ。例えば、係長試験というのがあったんだけど、それは出世競争をえさにして労働者を競い合わせる悪い制度だ、と地下1階では議論していたし、そういうふうにビラにして巻く。でもその時に同じ机を並べていた僕より10歳くらい年上の人に、「お前にはね、なんだかんだ言っても、組合の青年部長っていう「長」っていうのがついてんじゃねーかよ。出世に背を向けて僕はみんなのために労働活動をやっていましたという理屈が立つだろ。しかし俺たちただの庶民は係長の長でもなければ、ただの父親でしかないよ。俺たち何にもないのに、なんで俺たちから長のチャンスを奪うんだ」って言われたんですよ。地下1階で自分たちだけが信仰している宗教のなかで議論していたときと、上の仕事場に行ったときの乖離(笑)。ノックダウンなんですよ。でもそのときはまだわかってない奴を俺たちが啓蒙して教えてやるんだということで、かろうじてその乖離を納得させてたわけ。

今振り返って考えれば、一般の人が考えたことは必ず正しいということではないが、しかし庶民が考えたことの感覚のなかにもそりゃそうだなというところもいっぱいある。無条件に受け入れるのも間違いだし、無条件にだまされているバカどもだというのも違うなと。僕には労働組合の仲間もいたし、議論の場もあったが、しかしこの『欲望問題』を読むと、伏見さんはたった一人でリアリティをつかまえてきて、それはすごいなと思いますね。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第二話

初発の動機を生かし、自身を問い直す勇気
──『欲望問題』の普遍性

沢辺●今度伏見さんが書いたものは、ゲイ解放運動を先頭切ってやってきた伏見さんの大元にあった「ゲイとして、より生きやすい状況を作ろう」とか「人としていやな気分を減らそう」という根幹をがっちりと守りながら、その実現的な道筋について真摯に考えた結果、方法論をより深めたということですよね。その変容の過程を真摯にオープンにした、ここがけっこう大切なことだと思うんですよ。

全共闘運動の話でいうと、当時ベトナム戦争に反対するということは、やはり根拠があったと思う。強大なアメリカにあんなちっこい国が攻め込まれて、人々がふざけるなアメリカ、という気持ちをもったのは当たり前だと思う。70年安保闘争には、そういう感覚もあったわけです。広く人間に対する共感とかね。橋爪大三郎さんなどはそこは大切にしたまま、そういうことがおきないために、あるいは人間がよりよく生きるためにどうしたらいいか、ということの方法論として、その背景にあったマルクス主義の方法論を疑った。その初心が守られている変化というのは大切だと思うのね。

野口●自分の初発の動機をより生かすということですね。伏見さんも差別的状況の解決という初発のモチーフをよりよく生かしていく道を正当に探求されたわけですね。

沢辺●そう。そこに思想的な真摯さがある。自分がこう言ってきたからということよりも、初発の動機を優先させた、というのが真摯さのいちばんの根本で、そういう意味で今回の本がすごいと思うわけです。

野口●社会条件は時代とともに変化していくんですが、そういう中で伏見さんは、現実のありようを自分の内在感覚に繰り込んできたんだと思う。一般的に差別問題では、差別的状況を理論のかたちで抽象化していくことで、この社会全体の基盤となっているある構造に根本的な欠陥があるために差別が生じている、という論理を作っていくんですね。差別が厳しいとき理論的抽象化が行われると、とりわけその傾向は強くなる。ゲイ差別も同様で、性別二元制を解体しなければならないという理論を作り上げ、反社会的論理を作らざるをえなかった。しかし社会が変化して、だんだん差別が緩んできて、現実にカミングアウトしている人が少しずつ増えてくるようになり、日常的に蔑視されることも少しずつ減っているということが私だけではなく、多くのゲイに実感されてくる。そのときに伏見さんは、現実の変化をもう一回繰り込みながら、よりよく生きやすくなるためには最初の理論ではうまくいかないんじゃないかと考えるようになった。我々を完全に抑圧する対象でしかなかった社会が、どうもそうではない。我々の自己実現をはかるというツールが社会の中で用意されている。だったら自分が作ってきた道をもう一回捉え返して変えていくしかない、という内省のプロセスをたどられたのだと思う。それが沢辺さんがいま言ったように、最初のモチーフをちゃんと生かした方法だったのだと思う。

沢辺さんはこの議論に自分の左翼運動の経験を重ね合わせて共振して、興奮され、感動されたわけですが、そのわけは、自分の生の可能性の総体を規定した世界像を、たとえ痛みを伴っても一から作り直さなければならないときが人にはあるということを、そうすることで始めて新しい生の可能性が拓かれる、という人の経験の普遍性を感じ取るからだと思う。彼が困難をどのようにして乗り越えようとしたのかについての経験が、自らを捉え返すことで困難を乗り越えようとするときに持たざるをえない葛藤や苦しみ寂しさという感情を、またそれを乗り越えようとする勇気をそこに見出すからだと思います。もちろん普通に生きている人は、私なども伏見さんのようにゲイというカテゴリーの「代表」という重荷を背負うことはないわけですが、誰もが自分は間違えていたな、おかしかったなと考え直し、苦しくとも自らを作り直すということを、小さな生活の現場で行って生きているわけです。自分自身をもう一回問い直して、変えなければならないということを大なり小なりみんなやっている。伏見さんは非常に大きな振幅の中でそれをやっているわけですが、経験の普遍性という点では同じであり、沢辺さんもそういう部分に普遍性を感じられたんじゃないかと思う。生きていくときに、自分を捉えたひとつの観念がある。しかし、その観念がどうも現実の中でよく生きない、そう感じたときに人はその観念を処理するためにどういう道筋をたどるのか、自分をよりよく生かし、他者とともに生きることを、他者とともに問題を共有していくための地平に達することができるのか、そういう普遍的な問題を見いだしてるんじゃないかと思う。

リアリティをもって現実を見ることは簡単なようでむずかしい
──『欲望問題』に根ざすリアリティ

沢辺●ゲイがよりよく生きるために何をすればいいのかを考えるときに、伏見さんはものすごくリアリティを持って現実を見ている感じがするのね。そのことが、方法論の作り直しを可能にしている。しかし、多くの知識人がリアリティをもって書いているかと考えるととてもそういうふうには思えないわけです。一般人もけっこう同様で、それがないことがかなり問題じゃないかとも思ったりするんですよ。

例えば、ポット出版はどういう会社だろうと社員はいろいろ思うわけですね。そのときにどうもステロタイプなのは、会社の社長はどうやらこういうふうに考えているだろう、という一般通念にはめて理解しようとすること。しかし、ものごとって一様じゃない。一般通念とずれているところもあるし、合っているところもある。その両方をみるということは、なかなかできていない。自分も含めてね(笑)。それってすごく難しいことではないかと思うんです。

それを伏見さんはなんでできるのだろう、あるいは僕ができるようになるためには、どういう訓練をするばいいんだろう、そういうことにすごい興味があるんだけど(笑)。野口さんどうですか。野口さんもけっこうリアリティをもって見るわけでしょ。

野口●僕にはリアリティがけっこうあるんじゃないかな(笑)。

なぜリアリティを失うのかについての典型的な例を考えると、一つの共同性ができた場合、空気みたいなものができて、共同性の外からみたらおかしいと感じられるような特定の物の見方が成立していくときがあるわけですね。ゲイの差別運動の言説にもそういうことがあるかもしれないし、ゲイだけでなくさまざまな反差別運動の言説やある種の社会運動や宗教集団なんかにもそういう傾向が出て来るときがある。共同性のなかで常識となった物の見方が空気のように存在しているために、その共同性に入るとなんとなくそれが正しいと思わなければならないことになる。この問題は実は相当大きな問題を含んでいて、原理的に言えば、もし強固な一つの見方が出来上がってしまうと、その枠組みでものを見てしまうために、どんな現象を見てもそのように見えるようになるんですね。

例えば、この世に神の意志があまねく行き渡っているという信仰を強く持った人がいるとすれば、雷が落ちても神の試練だし、幸せなことがあると神の恩恵だし、石ころにぶつかっても神の心を感じるわけです。信仰ということを拡張すると何らかの理論の体系となるわけですが、例えば、この社会が家父長制社会であるという理論を強固に信じた場合、売春は男性支配の現れだし、専業主婦は家父長制の犠牲者であるというように、男女間のあらゆる関係性は家父長制支配の現われに見えてくる。その理論の体系を強固に信じれば信じるほどその世界像は、本人にとっては絶対的なものになり、そのフィルターを通してしか社会を見れなくなっていく。

しかも、その理論を信じている共同性ができて、その理論を共有しているメンバーとともに生きることのうちに、自分の生の根拠を見出すようになると、その強固な世界像がますます本人にとっては絶対的で疑いようのないものになってくる。そうすると所属する共同性の外の人から見れば、明らかにおかしい、リアリティのない信念を全く正しいこととして主張するようになってしまうんですね。実存的不安が非常に強く、その理論が生の根拠になっている人ほどその世界像を問い直すことが難しいわけです。

もちろんその世界像が絶対的なものとして存在していない場合もある。世界像がそれほど強固なものではない場合、それは絶対的理念というかたちで存在するのではなく、一般通念のようなものとして存在していることになる。何となくそのことを信じているという状態ですね。

実は絶対的世界像にしろ、一般通念にしろ、そうした自明な世界像を疑う契機となるのは、原理的には「他者」との「対話」と自身の「捉え返し」なんですね。自分の信念を相対化してくれる「他者」との「対話」によって初めて自分たちの考えが間違っているかもしれないという疑問が初めて生じてくることになる。そのためにも自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないようにしておくことが大切なんです。自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないということは、自分の不安を打ち消すための、所属する集団以外には通用しない大きな物語を必要としないということを意味しますから、普通の生活感覚の中での対話的やり取りによって、問い直される可能性があると思います。何らかの共同性に強く拘束されているわけではなく、実体的根拠のない一般通念を何となく信じている場合も対話的関係によって変わっていく可能性が高いといえます。その相手は具体的な人の場合もあるし、本とかメディアの場合もあるでしょう。  

沢辺●僕は橋爪さんの論を適当に密輸入しているだけなんだけど(笑)、十年以上前に話していたときのことですが、彼が<革命なんてないほうがいいんです。つまりいままでの枠組みを変えるということは大変なコストがかかる。革命よりも緩く変更させていければ全然コストはかからない>というようなことを言っていたんです。それまで自分はアプリオリに革命は正しくて、それにロマンを感じていたんだけど、リアルに考えると確かにそうだなとハッとした。その革命と社会通念を単純に重ねているだけなんですけど、人間って通念が揺らぐと不安になりますよね。

野口●それが自分を支えていればいるほど不安になる。

沢辺●この『欲望問題』のなかでも伏見さんが橋爪さんの話を引いているわけですが、要は差別をなくすために結婚とか家族とかをぶちこわすことは非常にコストがかかる。あらかじめ男、女と外見上わかっていればお約束でそこまでは確認終了でコストはかからない。でもそういう根本から社会を作り直さなければならないとしたら、みんなそのコストを払うだろうか? そんなことを言っているわけです。そういうことを含めて言うと、通念というのは両面性があって、通念が人をしばっていて飛躍できない面と、心安らかに日々を生きられるという二面性がある。

野口●この場合の通念というのは二種類あって、自分の生を規定している動かしがたいルールといえるものと、交換可能なルールとがある。いまおっしゃられたのは後者のルールですが、例えば性別は多くの人にとって、自分自身を規定しているルールといえます。通常、自分が「男」であるとか「女」であるというのは、本人にとっては疑いようのないものですね。もちろん世の中には自分の性別がよくわからないという人もいるわけですが、多くの人にとっては内省しても疑いないようなかたちで存在している。ゲイという自己意識も同じですね。疑っても疑いようのないものとして取り出される。多くのゲイにとって自分がゲイだという確信は向こうからやってくるわけです。異性愛だと思っていたけれど、よくよく考えると自分は違うなと気づく人もいるけれど、多くのゲイや異性愛者では、同性愛や異性愛というルールやコードは自分にとって疑いようのないもの、問い直して疑ってみても確信として向こうからやってくるものなんですね。その場合自分を規定しているゲイであるとか、女性であるとか、男性であるということ「自体」が、他者を直接侵害していたり、自身の生の可能性に抑圧的だと思えない限り、そのことを変えようという契機は生じないんですね。

野口勝三vs沢辺均ロング対談・第一話

『プライベート・ゲイ・ライフ』の時代
──伏見憲明の出発点をふりかえる

野口●『欲望問題』では、処女作の『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房、1991)の問い直しを始めとした、これまで伏見さんがつくってきた言説や考え方、また自身の倫理主義的感覚の総ざらいがなされているわけですが、この本を語るにあたってまず、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』を発表した90年代はじめの頃の、カミングアウトしたゲイがほとんどいなかった時代状況を理解しておく必要があると思います。当時、芸能人の中には、おすぎとピーコのような人たちはいましたけど、一般のゲイで社会的にカミングアウトしていた人は皆無に近かった。雑誌『ADON』を主宰していた南定四郎さんなど、カミングアウトしていたのはほんの少数だったと思います。

伏見さんがよく言うのですが、『プライベート・ゲイ・ライフ』を出したときに、担当者から「言葉をしゃべるゲイをはじめてみた」と言われたそうです。それは単にゲイに出会ったことがないということではなく、社会的状況などゲイに関することを論理的に組み立てて話せるゲイと初めて出会ったということを意味していて、当時ゲイは社会において目に見える存在ではなかった。ゲイに関する言説は「変態」か「禁じられた美学」のようなものしかなく、ゲイが置かれている状況がどんなもので、等身大のゲイがどのようなものか全く知られていませんでした。カミングアウトしているゲイも珍しくなくなり、ゲイに関する書籍、評論、学問も数多く見られるようになった現在からは、想像するのが難しいほど15年前ぐらい前は、取り巻く環境が厳しく、同性愛は理解されていませんでした。また同性愛者自身も自らを語る言葉を持たなかったんですね。

そうした状況の下で、普通の感覚の人はカミングアウトなんかとてもできない。普通の人間ならあきらめたり、我慢するようなことをどうしても我慢できない、強い実存的衝動を持った人間だけにカミングアウトが可能だった。しかも伏見さんの場合、ゲイであることを身近の人に「告白」しただけではなく、ゲイ、つまり自分というものをどのように社会的に位置づけたらよいかについて、一から言説を作ろうとした人でもあった。何としても「自分たち」が置かれている状況を改善したいという、ゲイというカテゴリーに課せられた問題を背負おうとした数少ない巨大な情念の持ち主の一人だったんですね。既存のゲイに関する言説に手がかりが全くない中で、自分を理解するための言説を、また他者がゲイのことを理解できる言説を組み立てようとした。

当時、性に関する言説は、フェミニズムによるジェンダーという言葉を使用した知の枠組みが存在し、その枠組みはゲイ差別がなぜ生じるのかを理解できる参照点となるものだった。その意味で伏見さんが自らの言説をフェミニズムの知的遺産から継承したのは必然的だったと考えることができます。『プライベート・ゲイ・ライフ』において、フェミニズムから引き継ぎながらさらに発展させた議論は、異性愛の男女も同性愛の男女も性別二元制に基づく性愛の制度という点において等価な存在であり、同性愛であることにより、同性愛差別を再生産する性別二元制を支えてしまうこと、それゆえ差別の克服のためには同性愛という枠組みから解放される必要があるということですね。この考え方を『欲望問題』では再検討されています。これは形式的に見れば単なる論理的再検討になるわけですが、その内実は単なる作り直しではなく、非常の厳しい状況における実存的な強い動機に基づいて作り上げた、または自身の生の可能性を見出すことになった世界像の「問い直し」を意味しているわけです。

ここでもう一つ押さえておかなければならないことは、伏見さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』で展開した議論やその後の様々な活動が、自身の私的な考えの表明ではなく、当時の時代状況下では不可避的にゲイの置かれている差別的状況の改善のための実践というものを引き受けざるをえないものだったということです。つまり当時作り上げた世界像は自分の実存上必要だったというだけではなく、ゲイ差別の問題を提起するフロントランナーとしての役割を担わざるを得ない存在として背負う世界像だったわけです。そういう役割を担うことになる人間は、自分の感情で好き勝手に自由に発言すればよいというわけにはいかなくなる。その発言自体が受け手にとっては個人の意見としてではなく、ゲイを代表するものとして受け取るという側面を持ってしまうわけですから。その結果、ゲイの置かれている状況を改善するという非常に大きな問題を引き受けざるをえなかった。また当時のゲイが置かれていた厳しい時代状況を考えると、その世界像が反社会的・倫理主義的性格を持つのは不可避的なことだったといえる。とはいえ『プライベート・ゲイ・ライフ』を読むと、反社会的・倫理主義的側面が希薄なんですね。これは驚くべきことです。反差別論の創業者の言説は通常、この社会がいかに間違っているのかという強烈な怒りや告発に満ち、マジョリティに対して自分達の立場に立つことを要請するものですから。

ただ薄められていたにせよ存在していた反社会的・倫理主義的性格が『欲望問題』では根本から考え直されています。これは相当大変なことだったと推測します。ゲイ差別というものが全くなくなったわけではない現在、これをフロントランナーとして背負ってきた人間が、反差別論における倫理主義的性格を一から作り直すというのは簡単にできることではないと思います。差別問題というのは取り扱うのが非常に難しくて、マジョリティにとってもマイノリティのとっても扱いづらい性格を持っているんですね。差別というものは社会でゼロになることはありませんから、差別を受けるマイノリティ側からすると、たとえ改善されてきたとしても倫理的主張を引っ込めにくい。日常的に常に差別にさらされることがなくなったということは、いつも辛い思いをしているわけではないということを意味しますが、だからといって差別的な行為にさらされることが全くなくなったわけではない以上、こういう差別がまだまだあるんだと主張して、マジョリティの差別的感情を糾弾せざるをえない側面がある。ところが改善されてきた状況下でこんなに差別があるんだと主張し続けることは、マイノリティにとってもどこかリアリティを欠いた行為になってしまう。差別に晒されるという生活の一部の中での経験を生活の全域を覆っているかのような主張は、自分たちの現実感覚を正確に反映したものではなくなってしまいますから。

差別問題にはこのような両義性があり、自分たちの内的な感覚と現在の状況を適切に表現することが難しいわけです。まして、伏見さんはゲイに関する問題のフロントランナーですから、その発言の影響力を考えると簡単には、差別が改善してきているといいにくい。もう差別問題として考える必要がないという誤解を与えかねない主張はなかなかしにくいんですね。伏見さんは、こうした難しい状況と立場にあったにもかかわらず、自分たちの現実感覚に基づいた、同時にマジョリティに届く可能性を持った論理と言葉を一から作り直そうと試みられたのだと思います。後続の人は、今回の『欲望問題』を、簡単に伏見さんの変化というふうに取るかもしれません。けれど、厳しい現実の状況を引き受けて、悲壮感すら抱えて考えた世界像や考え方を、もう一度最初から構築し直すというのは、ただ単に生活のなかで考え方が変わったというレベルではとらえられない重みがある。そこを理解する必要があると思います。

沢辺●伏見さんは、オピニオンリーダーとしてすでに立っていたにもかかわらず、今回あえて自分の変容を明らかにしたわけですが、言論人はそういうことはなかなかしないですよね。普通の人の生活感覚、社会のリアリティに照らして自分の考えてきたことを問い直すというのは、思想に対して真摯だと思うんですよ。そしてリアルだからこそ自分の変化も引き受けられたし、物事に真摯に向き合ったからこそできたとも言える。すでにオピニオンリーダーとして発言していたことについて、改めてそれを見直すなんてよほどの根性しかない。だからストレスからあんなに太っちゃうのかなと思うんですけどね(笑)。

ぼくね、リアルであるということはすごく大事だと思っているんです。自分の話で申し訳ないんですけど、僕自身は30歳で、左翼をパチッとやめたんですよ。どこでそこまで行き着いたのかを考えると、出発点は、20歳のときのできごとにあるんです。その頃、組合運動をやっていて「労働者階級解放」といった概念を掲げて「資本主義はよくない」というようなことをやっていたわけです(笑)。

そのときにある人が、「沢辺、お前、資本家っていってるけど、それ誰? 名前は?」って聞いてきたんですよ。そのときに何にも答えられなかった。頭の中では「松下幸之助かな」とかよぎったんですけど(笑)、そんなこといままで考えたこともないのに下手にその場限りのことを答えたら、またさらに揚げ足をとられるかなと思ったら、びびって何も答えられなかった。この出来事は、十年後にやっぱり左翼はだめだと思うことにつながるんだけど、その出発点になったんです。やっぱり、そこで足りなかったのはリアルということなの。みんなにオルグしていた主張では、労働者階級が抑圧されているのは資本主義がだめだからなんだ。これは打倒しなければならない。しかし打倒って抽象的にいってるけど、要は財産を剥奪するか牢屋にいれるか、殺すかじゃないですか。

野口●理論に基づいた実践を具体的に貫徹すればそうなってしまうんですね。

沢辺●そうすると、要はそれを誰をやるのかということですよ。そんなこといっこも考えたことないのにオレは、資本家打倒だといってたわけ。それがね、顔が真っ赤になるくらいはずかしくて、資本家っていったい誰だろうと考え始めて、それが自分の左翼性を疑う出発点になったわけです。そういうことを原体験に持っている僕からみると、例えばこの本に出てくるミスコン問題だって、一部のフェミニズムがミスコンを女性差別だと言っても、いったいそう思っている女性はどこにどれだけいるのか。現にミスコンに出ているのは女性たちだし、それって運動のほうからしたら、彼女たちは仲間を裏切って、差別に加担しているということになるわけだよね。そんなことでフェミニズムの論理は通用するのか、ってリアリティを疑うのね。

そういったことをほんとに真摯に考え続けたのが、この労作『欲望問題』だなと思う。ぼくはね、そのきちっと自分を検証する姿勢するに惹かれました。そしてその背景にあるリアリティ、思想に対する真摯さに。それがこの本をポット出版で出したいと思った「欲望」の出発なんですよね。

キャムプという感覚
 ──伏見憲明のわかりにくさ

野口●今回の結論に至った理由は、伏見さんの言説にもともと含まれていた両義性に目を向けるとわかりやすいかもしれない。一般に、社会問題を議論するときには、その利害をどうやって政策決定のなかで調整し実現していくかというプラグマティックな要素、現実主義的な要素を考慮することが必要になるわけなんだけど、いわゆる市民運動では、現実主義的な要素を排し、正しさが純化されて現れてくる傾向が強くなる。反差別運動ではとりわけこの傾向が強い。差別の解決に関して、どういう具体的なステップをとればよいのか、あるいはそれを克服するための現実的条件は何かを考えるより、まずいかに自分たちが理不尽な目にあっているかを情念とともに訴え、マジョリティに自分たちの立場に立つコトを要請することになる。そういう「純化された正義」が当事者の痛みゆえに濃厚に出てくるのが、反差別論の特徴といえる。

ところが伏見さんの思想や行動には、当初から、「純化された正義」に対する違和感が織り込まれていた。反差別論にキャムプといったゲイ的な笑いのノリをパッケージする表現を作っていたのがその典型的な表れで、その始発点から単純な正義の主張ではなく、両義的表現がなされていた。

しかし、「笑い」と「純化された正義」というのは非常に折り合いが悪い(笑)。社会問題を扱うお笑い芸人が、ビートたけしや爆笑問題の太田光などごく少数にとどまっているように、極端に真面目な志向と笑いをうまく融合させていくのは難しい。それを伏見さんは運動のなかで先んじてやろうとした。一方で差別的状況に対して正義の主張を訴え、一方で笑いの芸を見せる。この二つの極を常に往復してやってこられたわけですが、これは端からからみると、非常にわかりにくいんですね。もともと伏見さんの考えや行動がよくわからないという人がゲイの活動家の中でも非常に多いんですが、厳しい時代状況の中ではとりわけ理解されがたい。「正統的」な解放運動のノリで社会正義を実現したいという人からみれば、何をふざけたことをやっているんだ、となる。一方、エロとか笑いのようなゲイ的文脈だけでゲイをとらえたい側からすると、社会正義を背景にしている伏見さんは自分たちとは違うという違和感が拭えないことになる。

しかしながら、笑いの視点を持っていたということは、一種生活感覚を持っているともいえて、それが正義の純化を防ぐ防波堤になったのではないでしょうか。そして、長い活動の中で、生活感覚によって正義の主張を検討し続けることで、最終的に、両者を融合させることが出来たのだと思う。もちろんこれは簡単なことではなかったと思いますが。

沢辺●僕はノンケだからあまりはっきりとはわからないけれど、キャムプという感覚は、ゲイにはもれなくついているという感じがする。部落差別や朝鮮人差別の運動にも笑いの要素はあったんだと思うけど、ゲイと笑いは比較的結びつきやすい何かの条件があるような気がするんだよね。それはどう? ない?

野口●これはまだ僕もうまく整理できてないんだけれども、ゲイというカテゴリーが性という領域に関わっていることと関係があるように思う。ある種の性的「逸脱性」は奇異に見えるところがありますよね。ゲイ・セックスのある種のありようは、ゲイ以外の人たちから奇異に見えるだけでなく、自分たちにとっても「この逸脱性ってどうよ?」っていう笑いの感覚が出てくることがある。これはゲイ・セックスに限らず、性一般に言えることですよね。

沢辺●僕ね、セックスしていてふっと恥ずかしくなることがある。やっている当人同士は、笑いもせずやってるんだけど、「どうだい、感じるのかい?」なんてやってるときに(笑)、そこに第三者を想定して例えばオレが横から見てたら、「おいおい沢辺、何恥ずかしいこと言ってるんだよ」と笑って突っ込んじゃうよなと、しらけてしまうことがあるの。性ってそうやってまぬけなところがあって、やっている本人と客観視して見たときの視線の感覚の間に、可笑しさが生じる。一方で、ヘンな例だけど、子供に「おまえ部落民と結婚するのか、許さん!」なんて言ってるオヤジがいたとしても、それを自分で客観的にふっと振り返ってみても「プッ」と笑う感覚にはなかなかなりづらい。だからゲイとキャムプな笑いとの相性のよさって、性やセックスに関係してくるものだという気がする。

野口●たぶんその通りだと思うんです。そういうことが性というものに普遍的に現れるんですね。それは男女間でも同じで、自分たちの性の様相が、引いて見ると「なんて可笑しいことをやっているんだ」、「ヘンなことやっているんだ」というふうに感じるときがある。フェティッシュな要素なんかだと、それにノレる人には違和感がなくても、その趣味嗜好を共有しない人から見ると、「なにこれは?」となる(笑)。その部分に自覚的なゲイたちは、キャムプな笑いを生み出してきたのではないでしょうか。