『欲望問題』をめぐるスペシャル対談◎西研[哲学者]vs菅野仁[社会学者]
人の欲望の声を聞き取る共感力をどう育てるか
西●『欲望問題』はとても面白かった。まず第1章で伏見さんは、簡単に言うと社会の問題を個々の欲望の調整の問題だと考えよう、と提案していますね。これを自分自身の経験から語っているので、非常にリアリティがある。最初伏見さんは、ゲイを認めようとしないマジョリティ社会は悪だ、マイノリティである我々に正義があるんだという感覚からスタートした。硬直化しないようなスタイルに工夫しようとしてはいたけれども、正直に言えばやっぱりそういった感覚があったと言ってますね。ところがある転機となる事件があった。それが、確か『週刊金曜日』の事件ですよね?
沢辺●『週刊金曜日』に掲載された東郷健さんのルポタージュのタイトル「伝説のオカマ」をめぐっての事件ですね。
西●そう。オカマという言葉を使うとは何ごとかと、あるゲイのグループが『週刊金曜日』の編集部に噛みついた。抗議を受けた『週刊金曜日』の編集部は、大変申し訳ないと謝ったわけです。でも東郷さん自身は「オカマ」という言葉をルポタージュの中で使うことを許していたし、むしろ「オカマ」という言葉をある種の自負も込めて使っていたようです。つまり、東郷さん本人は傷ついていないのに、他のゲイが「傷つけられた」と言った。
ここには、「傷ついた」と言う人がいたことをもってそのまま悪だと言えるか、という問題かあるわけです。傷つくのは嫌だということは私の欲望だけれども、また別の人間からすれば(その言葉を使いたいという)別の欲望があるかもしれない。まずはお互いの欲望のありかをよく見てとって、それがどうやって調整できるか、そうやって社会の問題を考えたほうがいいということですね。
同じようなことを実は僕も考えてきました。哲学者の竹田青嗣さんもまた、近代の市民社会の論理について「自由の相互承認」というキーワードを使って論じています。それぞれの人間が自由な存在であり、お互いの好みややりたいことを持っている。そのことを相互に認めあうことが市民的な関係における一番基本のルールである、と。つまり、自由の相互承認ということがこれから我々が育てていく社会の基底になっていくべきだというものです。この考えは実はルソーとかカントとか、そのあたりからずっと系譜があるんです。
沢辺●そのことでひとつ質問させてもらっていいですか? 西さんのおっしゃる通りで、伏見さんが言う欲望を調整する社会のありようというのは、アイデアとしては竹田さんがまとめている自由の相互承認という考えと同じだし、西さんや竹田さんが言われた通り、ルソーなど先人たちもよくよく読んでみればそういうふうに言っているらしい。なので、伏見さんが言う欲望を調整する社会のありようというのは、とりたてて新しい、画期的なことではないと思うんですよ。しかし、この『欲望問題』には、竹田さんが言っていたのとはまた違う、伏見さんが言ったからこそすごいぞという点がどこかにあるような気がするんです。それはなぜですか?
西●そこが僕がおもしろかったところでもありますね。自由な人格の相互承認という市民社会としてのモデルを提示し、これが我々の倫理の一番基底になっていくべきだ、という言い方ではなく──もちろん、竹田さんの言い方はそう単純ではないですが──ゲイの問題をくぐり抜けてきた人が、理念ではなく実体験のなかで「相互承認ということの必要性」をつかみ取ってきた、ここにこの本の第一のおもしろさがあると思います。
自分達が苦しめられ、世の中から疎外された存在だということを反転するために「我にこそ正義あり」を掲げる。これは多くの運動では自然な心象、当然の出発点だと思うんですよ。しかし、その正義は他の人に承認されたり、対等な人間同士がお互いの声を聞き合って出来上がったものではない。だから、その正義が逆に他の人をすごく抑圧したり、また正義を唱える人たちの内部でもしんどいことが起こりやすい。社会の他の人々はどうかというと、その種の正義を唱える人は恐いので寄って来ないし、当然相互理解も進まない。
「自分たちこそ正義」になってしまうのは最初は自然なことだが、そのままでは絶対先に進めない。そのことを伏見さんははっきりと自分の経験のなかでつかんだ。それが『欲望問題』の書きぶりにあらわれていると思う。
そして、伏見さんのこの書きぶりは、「いまを生きる私たちがどうやって社会の問題とつきあっていけばいいのか」という、現代の本質的な問題に対して大きな示唆を与えていると感じるのです。これがぼくが感じたこの本のおもしろさの二番目の点ですね。
自分が苦しいと、自分だけが穴ぼこに入った感じになって、世界はみんな敵に思えてくる。たとえば突然リストラされたら、「何で俺だけが、何で私だけがこうなのか」という感じに思えてくる。人を支えている共同体の厚みは、都会になればなるほど解体されてきているので、調子がいい時はそれなりに生きていけるんだけど、穴ぼこに突然入ると、社会全体が巨大な悪意として見えてくる。
私たちは、個々人それぞれの境遇のちがいによっても、またその人の境遇の変化によっても、かなり異なった社会感受をもって生きていると思います。そういう時代のなか、「よい仕方で」つまり、他者とキャッチボールできる仕方で社会を批判したり問題を指摘したりすることが難しい。まったく連帯できずに個人的に悪意をためるか、連帯できたとしても、社会全体(マジョリティ)=悪、抑圧される私たちマイノリティ=正義、という図式になりやすい。
しかし──自分のしんどさを受けとめてくれる他者に出会えることがまずは大切だと思うのですが──だんだん他者に対して気持ちが開けてくると、自分以外の人間もいろいろ事情を持ち、それぞれ欲望を持って生きているんだなあとわかってくる。
このように、市民社会のモデルを理念として提示するというのではなくて、一人ひとりが生きている場所に対する「共感力」のようなものの重要性を、伏見さんは提示していると思うのです。伏見さんじしん、そうした共感力を新鮮なかたちで持っている方だと読みながら感じました。自分も苦しいけれども他の人間もまた別の苦しさなり状況なりのなかで生きている、そうした感覚が基盤になって「欲望問題」、つまり「欲望を調整するものとしての社会」という像が出てきている。
この共感にもとづく対等性の感覚とでもいうべきものが、竹田さんのいう「自由の相互承認」の基礎になる。これをいかにしてぼくらは育てられるか。伏見さんの本を読みながら、あらためてそういう問題を考えました。欲望を調整しつつルールを作るためには、互いの異なった感覚を聞き取れる「耳」が必要ですし、また自分の感覚を他者たちに伝えられる「言葉」も必要です。そういった耳や言葉が育たないと、人々はバラバラになってしまって、異なった他者たちとともに生きている、という基礎感覚じたいが育たない。この基礎感覚こそが、欲望の調整を可能にする作業の大前提となるものだと思うのです。
伏見さんはセクシャルマイノリティの特権性を放棄した!
菅野●今の西さんのコメントを私なりにまとめると、欲望ゲームあるいは相互承認ゲームの基本前提は、対等な人格性、対等な条件です。対等な条件でどういうふうに調整するか、なんです。伏見さんがなぜ説得力があるかというと、この対等性を獲得しているからだと思うのです。
セクシュアルマイノリティとして、差別される側であった人間が反差別運動を展開していく。そういうなかで確かに存在そのものとしてはあくまでマイノリティなんだけれども、差別される側、マイノリティとしての特権性というのがやっぱり出てくる。「(ゲイでない)お前たちは知らない、お前たちにはわからない」といった形で「私たちはゲイなんだから」という強者になる場面が出てくる。しかし、セクシュアルマイノリティとしての特権性というのをいわば放棄しないと、ルールゲームには参加できないわけです。
伏見さんはこの『欲望問題』で、いままで持っていたプライオリティや優越性、特権性をいったん放り投げてフラットな現場に立つんだという覚悟をした。そこが非常に共感性を呼ぶんですよね。
西●確かにそれはパンクだよね!
菅野●セクシャルマイノリティの立場にとどまれば、それなりのことを言えたり、それなりにおいしいところを取ったりする可能性があるわけですよ。全く一方的に差別されて小さく縮こまっているわけではないですから、今のセクシュアルマイノリティは。そういう状況のなかで、伏見さんは対等性をあえて選択して、欲望ゲームあるいは相互承認的なところに立った。その説得力、言葉の重みがある。
西●もうひとつ、フェミニズムの人たちと仲良くしてきて、そこから刺激を受けながら、自分の思想を作ってきた人が、ある意味でフェミニズムを含めた過去の自己批判をしている。これはとても勇気のいることだったと思うんです。自分に関してはいいのでしょうが、これを出版するということはフェミニズムの人たちに三行半を突きつけられ、さらには「伏見バッシング」が起こるかもしれない。いままでフェミニズムの人たちと共同歩調をとり勢いももらったことへの感謝も忘れていないし、フェミニストに対して悪口をいう感じもまったくない。しかしこの考え方のままだと先に行けないよ、とハッキリ言った。これはすごく覚悟と勇気のいることだったと思う。
菅野●僕からもう一点、第1章に関して言うべきことがあるとすれば、僕は異性愛者だから、伏見さんが書いている男同士の恋愛などいろんな意味で本当はわかっていない可能性も高いのですが、しかしとてもよくわかったという感覚がある。この本はやはりゲイの人だけじゃなくて異性愛者だろうが、普遍的に帯びている欲望のあり方をとらえなおした欲望ゲーム論としての深い射程を持っているからだと思う。
セクシュアリティのことでいうと非常に大事な観点としては、セクシュアリティの多様性の問題を、逸脱の文脈じゃなくてライフスタイルの文脈でとらえ直すということが初期の同性愛の解放運動の目標であり、その転換がかなりの程度達成できたということは、やはり画期的なことだったのだなあと改めて考えさせられました。同性愛を「病気」だ、「あいつらヘンタイだ」っていう見方から、ライフスタイルの問題へと運動の成果として転換できたということですよね。それがあってからこそ欲望ゲームという問題の立て方に到達できたって思う。
『欲望問題』の11ページに、それぞれひとが性的に魅かれる具体例として「フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって……」という文章があり、これはもちろん異性愛者も対象に入ってるわけですが、要は生活実感のなかでは性的欲望って伏見さんの指摘のように「選択的なものじゃなくて自然にそうなってしまった、としかいいようがない。生物学的な作用であろうが、社会の刷り込みであろうが、本人にとっては偶然の産物であることは間違いない」ということなんですよね。これは私たちが自分たちの意志や理性による選択ではどうにもならないところで同性愛的傾向を持ったり年上好きになったりロリコンになったりする可能性(と危険性)を上手に言い当てていると思う。ここに普遍性を僕は感じます。セクシュアリティの本質を一言で表現すれば、「なぜかは自分でもわからないままそれに絡め取られてしまっている」ということなのではないかと僕はいつも思っているのですが、そういう感覚を持っている人間が読むと、この『欲望問題』では、ゲイの世界だけの話ではない、性的な欲望の基本形がきちんと取り出されているなと思えるのです。
ゲイの問題に関心がある人だろうがない人であろうが、なんで俺は年下が好きなんだろうか、モー娘くらいじゃないとなんでダメなんだろうか、逆になんで俺は年上の女性にひかれるんだろうといった問題と重なりが見えてくる。性的趣向というものは、本当に多様化し、現代社会ではどれがノーマルか、標準だということが見えなくなっている。しかしその中でも悩んでいる人はいる。男女の場合であれば、女の人が男よりひと回り年上となるとやっぱりまだいろいろあったりするわけですよね、差別的なまなざしが。こういう問題をも包含する射程の広さを『欲望問題』は獲得している。
先ほど西さんがまとめてくれた欲望論的なゲームの場というか、欲望の相互承認というような観点、つまり正義が一方的に自分にあるのではなくて、共通了解の中で何が正しいのか、自分にとって心地よいことをお互いに認めてぶつかりあわない限りには、それぞれの心地良さを尊重できる多元的な価値につながらない。そういった観点を、セクシュアルマイノリティの特権性を放棄した人間が示した(笑)。ここが伏見さんの存在的な強みであるし、そこを考え抜いている覚悟があるなと伝わってきます。
社会や人間に肯定感をもてるかもてないかが分岐点
沢辺●先ほど西さんが言われたんですが、フェミニズムに足場を置いてきてそれを批判するのはすごい、と思いますね。僕は、現在のフェミニストは思想的な退廃に陥っていると思う。逆に言うと、なぜ思想は更新できないんでしょう? 2007年になってみたら、これまでフェミニズムで言ってきたことが社会で通用していなくなった。それを伏見さんのように「ごめん、だめだった! あの辺が」というふうに、学問的な領域でできないのはなぜなのか?
また、運動的な領域でも、例えば部落解放同盟も全然できていないと思う。伏見さんが登場してないんですよ、部落解放運動の中には。87年に『同和はこわい考』(阿吽社)で藤田敬一さんは、「差別のジャッジをするのは被差別者だけが持つべきじゃない」と書きました。言っていることは伏見さんと同じです。でも、藤田さんは当事者ではなかったし、解放運動全体はこれを無視してしまったと思う。思想の更新が運動的にも学問的にもできないのはなぜなのか、ちょっとご意見があれば聞きたいんですが。
菅野●社会学関連で言えば、だいぶ前に吉澤夏子さんが『女であることの希望』(勁草書房、1997)を書いた時にこれまでのフェミニズムとは違う観点からの思想がでてきたと思ったのですが、思いのほかそれに対する周りの反応が冷たかった。上野さんなんかもちょっと批判的なコメントをしていたと思うし、吉澤さんがあそこで出した問題提起が、フェミニズムの内部ではうまくつながっていかないような状況があったように僕は思ってたんです。それはなぜなのかなあと考えると、一つはやっぱり今回のジェンダーフリーバッシングのような右派による巻き返しみたいな言論的状況が常にあるわけですね。それに対抗するために、対抗のロジックを保ち続けなければならない。正義は我にあり、つまり差別されている私たちこそが正義だというポジションを安易には手放せない、思想なんだけど運動論的政治的判断というのがどうしてもフェミニズムにはついてまわる。
吉澤さんがちょっと批判的に言われた時は、彼女の思想そのものへの原理的な批判というよりは、「そういうことを今あえて言う状況ではないのでは」「今ここでそういうことを言っちゃあ、せっかく盛り上がってきた運動に水を差すんじゃないか」といった状況論的な批判の傾向が強かったような気がします。
でも思想というのは、運動論的な状況作りとは別の次元で原理的なつかみ方を作っていかなきゃならないんですよね。そこに状況論的な政治性みたいなものをあまり露骨に持ちこんでしまうと、思想は必ず「濁る」。純粋さをなかなか保てないことになる。またこれは僕もわかるんだけど、アカデミズムの世界には独特のしがらみとか、「こういうところから物事を喋りましょう」といった暗黙の前提みたいなのがある。
いま西さんと僕がちくま新書ですすめている本でも、そういうものを崩したいと思ってはじめたんです。たとえば、社会学は社会を考えるのは当たり前だということころから出発する。人間が社会的存在だってことを当たり前というふうなところから制度とかシステムとか社会全体を客観的にとらえるということが暗黙の了解になっているような気がしていたので、そこから疑わなければだめなんじゃないの、と。そういう思いで仕事をしたのが『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス、2003)なんですけど、そこに立つのはなかなか勇気がいるし大変だった。
西●わかります。いま、菅野さんと西とでつくっているのは『社会学にできること』というタイトルの社会学入門の本なのですが、菅野さんとぼくに共通するのは、一人ひとりが生きることにとって「社会」を考えることにどういう意義があるのか、という問いですね。客観的認識のまえに、まずは、自分と世界とを了解しなおし、自分と世界とをどのように関係づけるか、という課題──どんな人にとってもじつは切実な課題──がある。こうした、いちばん「底」の問題からスタートしたい、という感度が二人に共通のものだと思っています。そして、このぼくらのスタンスと『欲望問題』のスタンスとは深く通じていると感じています。
話をもとに戻しますが、フェミニズムの場合は、確かに運動とくっついているという難しさがある。さらに、社会に対する批判的なスタンスをどこかで持てないと、自分自身の存在の根拠を失ってしまうという人がフェミニストにはいる。とくに男性のフェミニストにはそういうタイプが多いように感じます。
あらためて言うと、80年代初頭のニューアカデミズムの時代にマルクス主義が最終的に信じられなくなって、その党派性や倫理性がハッキリと指摘された。そのとき、「では社会の問題にどういうスタンスをとればいいんだろう」「そもそも社会批判とはどのような仕方で可能なのか」という問題が起こってきた。ぼくもそのころこの問題にぶつかって、ずいぶん考えて、ホッブズやルソーやヘーゲルなんぞをあらためて読み直したりしたわけです。
フェニズムは、そうしたなか、この社会を根底的に誤っているとみなし、この誤った社会を批判し続けるというスタンスを保ち続けることができた。男性でも、ともかく社会を批判し続けたい人たちの幾分かが、フェミズムのほうに行った。でも現実社会を生きていく人たちの場合、「反社会」のスタンスを取って生きるのはかなり難しい。でも研究者はそこに安住できますね、食えるから。だから研究者というのは退廃しやすいわけ。
困難が多くの人々に伝わってそこから合意が生まれ、新たなルールがつくられる。そうなることで、社会を少しでもいい方向に進めることができたという「実感」が人々のなかに生き続ける。社会を批判し続けることでも、最終的な理想社会の実現でもなく、こうした、前に進めるという「実感」こそが重要だと僕は思っています。
社会やマジョリティに対するまったくの反感や敵意からは、こうした実感が育っていかない。そういう意味での、社会に対する「肯定性」は大切なんですね。そして、そこからはじめて「調整型」の社会像が育ってくる。
菅野さんとの対談で言っているんですけど、〈社会〉という概念は客観的な認識の問題である以前に、すごく薄められていても、「われわれ性」というものを含んでいる。たとえば僕は四国には一度も行ったことないんだけど、そこで社会制度のせいで故なく苦しんでいる人がいたとすれば、なんとかせねばいかんじゃないの?と思っちゃうかもしれない。それが「われわれ性」なわけです。「われわれ性」を潰さないで持ち続けることが重要で、それをなくすと、社会は砂漠のようになる。この「われわれ性」を生かしていくためには、苦しんでる人間に唯一正義があるんじゃなくて、互いに欲望を出し合いつつ調整していくという調整型の発想にならざるを得ない。そういう仕方で「少しでも前に進めていけるよね」という社会に対する感覚がもてることが重要なんです。それがなければ社会問題というのは誰も関心がなくなって、自分と自分の親しい人間の幸福しか望まなく(望めなく)なる。
菅野●この本のジェンダー論に結び付けると、社会あるいは人間関係、男女関係において希望とか可能性に向かうベクトルを持つか持たないかが、社会や人間に対する語り口の決定的な分岐点だと思います。伏見さんの言い方にはそういうものがあるし、西さんや僕もこうした方向性を志向している。
それを考えるとフェミニズムにおいて男女のあり方の「可能性を語ることができる」言説がほとんど蓄積されていない。男と女の関係は、権力関係であり非対称的な関係であるという告発型の言説がほとんどですね。先日も、私のところに卒論の相談に来た女子学生が言っていたのですが、「先生、素敵なジェンダー、幸せなジェンダーっていう考え方はどこにもないんですね」と。これは非常に大きな問題だなと思います。ゲイの問題でも男女間の問題でも、性的欲望の問題、つまり欲望の問題としてとらまえた時には、ある種の可能性をどう見出すかとか、どこに問題があってどこが良いのかという区分けの問題が大変重要であるという段階にもはや来ているのに、ここを上手に語れる社会理論や社会思想はなかなか無いのが現状なんです。
ほとんどが批判的言説のみで、男女関係のここに可能性の萌芽が見えているといった語り口がほとんど見当たらない。80年代からこの二十年、三十年間の間に男女のあり方は随分大きく変わったはずなのに、「こういうふうによくなった」という言い方はほとんど見当たらずに、「一見表面的には良くなったように見えるけれども本質は何も変わらない」、そういう言い方が依然として支配的なようですね。
沢辺●あるいは一定の女性たちが気持ちいいと思っていることも「あんたそれは気持ちいいと思っちゃだめなのよ、間違っているのよ」という、「悪く思いなさい」というベクトルに働くと。
菅野●それはちょっとしたことのような気がするけど、本質的な問題を決めているなと思うんです。僕と西さんがやっている対談でも、僕らの共通了解として、社会の本質は次の三つと言っているんです。一つは「超越的性格」。自分たちを超えたものとして社会というのはある(存在する)。何か広がっている、自分を超えたルールとか、見えない制度とか、我々が縛られたり制限されている超越性。
もう一つはさっき西さんが言った「われわれ的性格」。もう一つは「変容可能性」、変わりうるという感覚。同じような日々の繰り返しのように思え、一見すると社会は変わらないように見えるけれども、十年、二十年ぐらいすると変わっていることがはっきりわかる。
『三丁目の夕日』という昭和30年代を描いた映画が一時話題になりましたね。ビジュアルで見せられると、この四、五十年くらいでこんなに社会も風景も変わったんだな、とあらためて驚かされるんですよね。変わりうるという感覚──もちろん良く変わることもあるし悪く変わることもありうるのかもしれないけど、俺らがいくら何かしたって社会は永遠に変わらない硬直化したシステムであるというふうにとらえるのか、そうではなく、日々少しずつ変わりうる人間関係の網の目としてとらえるのかということの違いは決定的なことなんです。
また先ほど西さんから、「われわれ性」の話が出ていましたが、どんなに薄められた形でも「われわれ性」というものをそこに見ているか見てないかということではまた違う。一人ひとり生活する人間が漠然とでも社会イメージを持っているのだけれども、社会にはどんな可能性があるかということを、思想というものがわかりやすい言葉できちんと語り、そのイメージでもって人びとの日常の感覚にちょっと揺らぎを与えてみる。そこで考えるヒントをつかんでもらったり、情緒の変容なんかの経験も含めて、こんな感じで社会が新しくイメージできるんだということがわかると、少し自分の身の回り、あるいは自分の見聞きするメディアを通した世界情勢までを含めた社会イメージのつかみ方が変わるんじゃないか。そんな希望を持って、現在僕は仕事を進めているんです。
秘めたラディカリズムと大きな希望をもつ『欲望問題』
沢辺●最後にこれはちょっと言っておきたいことがあれば。
西●久しぶりに社会の問題を考える意欲が出ましたよね。大学の仕事が忙しかったんで(笑)、そうなると社会の問題が遠くなるのね。『欲望問題』は、問題を自分なりにつきつめて、こういうふうにしていけばちゃんと考えていけるじゃん、欲望の問題としてとらえていけば一緒にゲイの問題や、いろいろな問題を考えていけるよ、と言ってくれている。これは希望なんですよ、すごく大きい希望。これを読んで久しぶりに世の中の問題を一緒に考えている気持ちになったし、世の中の問題がまた自分に戻ってきましたよね。
菅野●印象に残ったところはいくつもあるんですけど、具体的なページを上げると122ページの「ジェンダー関係をより良くしていく方法としては、折衷案としてではなく個々の現場でより快のある関係を作っていくことや、自分の求める性のありようを表現していくしかないと考えます。そして必要ならば、新たに社会制度を作ることもあるかもしれない。そうした一つひとつの試みの積み重ねこそ、人々にとって望ましい変化を引き起こすのだと思います」という箇所がとりわけ印象に残っていますね。社会を語る時にこういう感度を持っている思想家がなかなか少ないんです。この感度があらためてきちんと言葉になって表現されているということに非常に大事なものを感じます。
そして数行あとに「倫理的な禁止をいくらいったところで、事態はそれほど変わらないはずです。それよりは「こっちの水は甘いよ」といった感じで、楽しさや気持ちよさが高まるような、何かのプレゼンテーションをしていくことが、もっとも有効だと考えます。それは実際に、ここ数十年の男女関係の変化が証明しているのではないのでしょうか」とある。この箇所からも、伏見さんの優れた感度がはっきり看て取れる、と僕は思っています。
ある種の肯定的な言い方をすると、すぐ保守的だとか、守りに走ったとかそういう言い方をする人たちが往々にして多いんですけど、伏見さんの場合は決してそういうもんじゃない。ものすごく秘めたラディカリズム──ラディカリズムを大上段に振りかざして「俺はラディカルだ」と言ってる人間ほどろくなもんじゃない、ということがこのところよくわかってきたのですが(笑)──「秘めたラディカリズム」を感じさせる本であるということで話を終わりにしたいと思います。
西研◎にし・けん
1957年、鹿児島生まれ。哲学者。京都精華大学人文学部教員を経て、2007年より和光大学現代人間学部教員。
【著作】
いまのこの国で大人になるということ(苅谷剛彦、菅野仁らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
哲学的思考/ちくま学芸文庫/2005.10/¥1,200
考えあう技術(苅谷剛彦との共著)/ちくま新書/2005.3/¥780
よみがえれ、哲学(竹田青嗣との共著)/NHKブックス/2004.6/¥1,120
不美人論(藤野美奈子との共著)/径書房/2004.3/¥1,500
哲学は何の役に立つのか(佐藤幹夫との共著)/洋泉社新書y/2004.1/¥740
大人のための哲学授業/大和書房/2002.9/¥2,200
哲学的思考/筑摩書房/2001.6/¥2,500
哲学の味わい方(竹田青嗣との共著)/現代書館/1999.3/¥2,000
はじめての哲学史(竹田青嗣との共編著)/有斐閣/1998.6/¥1,900
哲学の練習問題/日本放送出版協会/1998.1/¥1,500
「考える」ための小論文(森下育彦との共著)/1997.5/¥720
哲学のモノサシ/日本放送出版協会/1996.5/¥1,456
実存からの冒険/ちくま学芸文庫/1995.12/¥840
ヘーゲル・大人のなりかた/NHKブックス/1995.1/¥970
実存からの冒険/毎日新聞社/1989.11/¥1,456
菅野仁◎かんの・ひとし
1960年、宮城県生まれ。社会学者。宮城教育大学教授。専門は社会学思想史・コミュニケーション論。
【著作】
いまのこの国で大人になるということ(苅谷剛彦、西研らとの共著)/紀伊國屋書店/2006.5/¥1,700
愛の本/PHPエディターズ・グループ/2004.12/¥1,500
ジンメル・つながりの哲学/NHKブックス/2003.4/¥970
はじめての哲学史(竹田青嗣、西研らとの共著)/有斐閣/1998.6/¥1,900
現代社会学とマルクス(細谷昂らとの共著)/アカデミア出版会/1997.6/¥15,750
「近代」と社会の理論(堀田泉らとの共著)/有信堂/1996.6/¥2,835
行為と時代認識の社会学(小林一穂らとの共著)/創風社/1995.9/¥1,575
社会学史の展開(山岸健、船津衛らとの共著)/北樹出版/1994.4/¥2,730