野口勝三vs沢辺均ロング対談・第六話

それは社会に承認される可能性を持った主張か
━━これからの社会運動の命題

野口●僕の感じでいうと、人が社会性を獲得していくための前提条件は、沢辺さんが言われたように、自分の考えや意見を受け止めてもらえて、違和感も含めて率直に意見をやり取りでき、お互いの考えを鍛えていけるような場面をもてるようになることだと思うんですね。もう一つは、多くの人がある状態をおかしいと思ったときに、例えば、一票を投じたら政治が変わりうるような、自分たちの考えが社会政策として反映されうる条件が実現してくることだと思います。そうすれば、その感度は広がっていくはずなんです。

多くの人は社会を動かしがたいと思っていて、人々がそうした実感をもつのには必然的な理由があるわけなんだけど、思想の課題はその理由をはっきりさせることと、どのような条件が整えば人々が社会とのつながりを実感できるようになるのかを明らかにすることです。

沢辺●そのときに大切なのは、正しさということを先におかないということ。これも竹田青嗣さんのパクリですけどね(笑)。

野口●「これを私は正しいと思う」という投げかけはいいんですね。大切なのは、互いの意見をすり合わせること。批判されたときにキチンと受け止め、納得がいくようなものなら、対話の過程で変えるのをいとわないことです。「正しさ」はそのような形で成立するものなんですね。

ルソーは『社会契約論』で統治権力の正当性の根拠を一般意志とよびます。一般意志とは何かというと、ルソーは変な言い方をするんだけど、要するに各人の共通の利益ということを意味していると考えればよいと思います。共通の利益が実現するように権力が行使されずに、一部の利益だけが確保されるような事態に対して批判を差し向けることができるというんですね。つまり、統治権力において特殊意志が一般意志を僭称するとき、その権力は批判され、一般意志を実現していくときにのみ正当化できるわけです。

ルソーのこの考えは社会批判の正当性の根拠を明らかにしたものだと考えることができます。つまり、近代社会では各人は対等の権利を持って存在しているために、そこでは特定の誰かの利害を先験的に優先することができず、各人の共通の利益のみが「正しさ」の根拠になるということを意味しているわけです。これは非常によく考え抜かれた論理です。

たしかに私たちは社会政策や制度に対する批判を、暗黙の内に想定した万人の共通の利益を基準にして展開しています。その政策や制度が万人の利するものではなく、一部の人間だけの特殊利益になっているという根拠によって批判できると考えているんですね。もちろん一般意志とは実体としては存在しない、概念として想定されるものですが、この想定によって制度批判が可能になるわけです。逆に、このような概念を想定しないと、万人が対等な権利を持った社会において制度批判を行うことはできないんですね。

では一般意志が実現するための条件は何なのか。ルソーはそれを特殊意志をもった強大で巨大な集団が存在しないことだとします。別の言い方をすると、特殊意志が一般意志を僭称するようになる条件は、強大で巨大な特殊利害を持った集団が社会のなかにいくつか存在していることだといってもよいでしょう。これもよく考えられた原理です。

もし特殊意志をもった集団が巨大で強力な力を持っていた場合、その組織の統治権力への影響力が大きくなるので、特殊利害が統治権力の権力行使に強く反映されるようになるわけです。そうなってしまうと一般意志の名を借りて特殊意志が追求されるようになってしまうんですね。

では次にそうした特殊意志を持った巨大で強力な集団が存在しないための条件は何かを考えてみると、これもいくつか取り出せます。統治権力との係わり合いで言えば、政権交代が可能な二つ以上の政党が存在することが重要になります。もし一つの政党だけが統治権力に関わるようになり、特殊意志をもった集団がその政党との結びつきを強めれば、集団の影響力が強まりますから一般意志が実現しにくくなってしまう。

ですから、つねに政権交代が可能になるような二つの政党が存在していることで、政権与党と特殊意志をもった集団の結びつきを緩めたり、特殊意志を持った集団の強大化を防ぐようにしなければならないんです。

例えばアメリカの二大政党制の場合、共和党、民主党の支持母体に強大な力を持った利害集団が存在して、それぞれの政党と密接に結びついているわけですが、日本の場合、政党の思想やイデオロギーと集団の思想が純化した理念で結びつきにくい社会なので、政権が交代すれば特殊意志を持った集団は、今まで支えていた政党を鞍替えして新たな政権与党を支えるようになりやすいと思います。そうすると特殊意志をもった集団の力は相対的に低下するんですね。

このように思想としては一般意志を実現していくための条件を一つずつ確定していくことが重要で、その上に立って個々の具体的な政策内容や手段を決定していく必要があると思います。これからの社会運動も単に反体制・反社会的立場に立てばよいというものではなく、自分たちの主張が社会に承認される可能性を持ったものか、一般意志にかなっているのかを考えて行動していかなければならない。それがまた実践を支える理論を鍛えるための場になるわけです。

沢辺●さっきも言ったけど、かつて公務員をやっていたこともあって、公務員の友達も多いんです。この4、5年、俺がつき合っている数少ない公務員の中にも、「給料さげてもいいよ」という公務員がいるんだよね。不景気なときに公務員の給料がなかなか下がらないから、相対的に突出するわけですよね。僕も「おめえら高いよ」と言うわけで、社会もそういうトーンになるでしょ。こうした例は[公務員である自分の給料は一般意思に適応してるのか]を気にしてるってことだと思う。

また、人間は自分の目に見える直接的な利害だけで生きているわけじゃなくて、他者からの承認も求めちゃうもんだと思うんだよね。例えば医者だからといってともかくいっぱいお金もうけましょう、という人ばかりじゃないよね。承認を得るためにがんばる人がいるんだと思う。

野口●自分たちの利害が政策に直接反映できるようになると、利害の追求に求心化されていくんですね。最近大阪市で明らかになってきた同和行政の問題もその表れだといえますし、医師会や郵政団体のような政権与党を支える集団の問題もその一つですね。

人は自分たちの生活条件を少しでもよくしたいという思いがあるので、もし自分たちの利益が簡単に実現するようになれば、常識を欠いた利益でも保持して手放さないようになる。特殊利益を実現するルートが確保されれば、自分たちの主張が妥当なものかどうか問い直すことがなくなるんです。

重要なのは、そうならないための社会条件は一体何なのかを一つ一つ考えて、一般意志を実現するためのグランドデザインを描いていくことです。