野口勝三vs沢辺均ロング対談・最終回

最後に
『欲望問題』を勧める理由

沢辺●さて長い時間話して来たんですが、いままで議論したことの他に『欲望問題』をめぐって野口さんから言っておきたいことってありますか?

野口●繰り返しになりますが、自分自身の信念や理念が社会、他者との関係の中でおかしいんじゃないかと気付いた時に、人はどうやってそのことを自分の生き方の中に繰り込んで、考え方を紡ぎ、自分に還元していくのか、また他者との共生を可能にしていくのか、その普遍的なプロセスを探求した問題としてこの本を受け取って欲しいと思っています。

沢辺●すごく偏った見方かもしれないけど、長い間、反差別運動を僕は僕なりに興味をもって見てきて、89年の藤田敬一さんの『同和は怖い考』では、部落解放運動を巡って、当事者だけがそれが差別かどうかのジャッジをするという考え方は間違っている、被差別者の不利益は全て差別が原因だと言うのはおかしい、という主張がなされ、その視点がかなり衝撃的だった。

その次に小浜逸郎の『弱者とは何か』という本が出て、これも僕にとっては差別問題をきちんと考え直していく流れきっかけになった。今回の伏見さんの本はその流れの中にあり、いろんな意味でそれらを越えていると思う。

まさに被差別の当事者として、理論的な意味での差別運動のオピニオンリーダーというポジションから、さらに差別の問題から欲望の問題として物事を転換していくという新たな視点を示したと思う。日本の差別問題を巡る言説の中でこの本は重要な転換点に位置づけられると思ってるんです。

野口●反差別運動というのは往々にして運動自体を自己目的化しやすいんですね。とりわけ抑圧が強かった人、ルサンチマンを強く抱いている人は、差別問題という枠組みに乗ることでメタに立とうとする傾向が強くなる。その枠に乗れば社会を否定し、抑圧の対象を否認することができ、マジョリティより優位に立てますから、ある意味楽というか快感になるんです。

そうした状態を一旦全てリセットして作り直すというのは最初にも言ったように、そんなに簡単なことではない。この本で伏見さんはそれを実行した。これは反差別運動の成熟形態と言えます。

今後の反差別運動、社会運動はこの本で提示された視点を繰り込んで成熟していく必要があると思います。先に述べたように反差別運動は「正義の純化」が起こりやすいので、そういう領域で、フロントランナーであった人が成熟形態に移行していく道筋を提示したのは画期的だと思います。

差別の問題、社会問題に関心がある人、特に若い世代の人にぜひ読んでほしい。きっと、何か受け取れるものがあるのではないかと思います。

「命がけで書いたから命がけで読んでほしい」と書いてありますが、むろん伏見さんも読者が命がけで読んだりしないことは十分分かっているわけです。面白いと思うのも思わないのも、またどのように読むかのかも読者の自由であるということは当然で、そんなことは十分分かっているんですね。

ただ、人は表現をする場合、他者へ何らかのメッセージを伝えたい、受け取ってほしいという思いを抱いている。ある場合その思いは軽いものかもしれないし、楽しんでもらおうというものかもしれない。

しかしこの本において、伏見さんが他者へ受け取ってほしい気持ちはこうした言葉でしか表せなかったのだと思います。このような言葉でしか表現できない思いを込めた本を書かざるをえないときがあるということなんですね。この言葉は、伏見さんのそうした「倫理性」の表明と考えたらよいと思います。

そして、こうした本では読み手もどう生きてきたのかが問われてしまうんですね。自身の信念を補強することに終始していたり、捉え返すことをやってこなかった人は、面白くないでしょうし、ともすれば感情的な反応しかできないかもしれない。

しかし、自分の生き方を考えざるを得なかった人や、自身を一から作り直さなければならないような経験をした人には伝わるかもしれない。その意味で読み手の「倫理性」もまた問われてしまうのだと思います。

沢辺●ありがとうございました。