片岡義博[記者]●伏見さんへの手紙
編集部から●これは、伏見氏宛に届いた私信メールです。本人の了解を得たうえでここに紹介します。
こんにちは、伏見さん。片岡です。
このたびは、新著「欲望問題」を送っていただき、ありがとうございました。さっそく読みました。そして、これはいい!と思いました。
どう「いい」のか、うまく言い表せないのですが、自分なりに表現していくと、まず痛みの解消を楽しみと等価な「欲望」として了解可能な次元に開くことで、差別を現実的に解消していく新たな理論的枠組みを提起したこと。
フェミニズムがはらむ性差解消志向を指摘し、性差解消による抑圧からの解放と性差に基づく快楽を等価に扱うことで、差別問題の特権性を相対化したこと。
ジェンダーフリーを唱えるフェミニストの言説に具体的な日常生活での実践性、現実性を明確に求めたこと。
自分が生の基盤を置く社会とかかわることの正当性と方法を示しながら、より生きやすい社会を実現していく道筋を示したこと。
そして、それらは自分の経験を基にこれまでの思想と行動を批判的に考察することによって生み出されたものであり、本書自体が筆者のこれからの生き方の宣言となっていること。
加えて、それらが実に明快な表現と論理で示されていること。
うーん、われながら生硬で不器用な説明。でも、よくぞ書かれたと思いました。そしてこの本で展開された思考が、伏見さん自ら社会に働きかけ、また社会から働きかけられるという、伏見さんと社会との往還運動の結果到達した地点であることを深く了解させられました。
以下、雑文です。
本の各所に傍線を引き、深くうなずきながら各所に「!」を記しましたが、1カ所「?」を付けたところがありました。65ページ「ぼくらはそれを一つひとつ解決するだけの知恵をもう持っているのではないでしょうか。それだけの知を作ってきたのではないでしょうか。ですから、ぼくはいまはただ、人間の持つ胆力に賭けたいと思います」。
話は飛ぶのですが、この本、特に第2章を読みながら、僕はヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」を思い出していました。
人間の女に恋した天使が永遠の命を捨てて人間に堕ちる物語。人間賛歌の映画とされていますが、当時(約20年前)、僕はちょっと違うことを感じていました。それは言葉にすればこういうことです。「人類って、世の平和と秩序を求めて不断の努力を続けているようだけど、天使の世界が体現する平和と秩序の世界って、案外つまらないものなのかもね」。映画では人間になった天使の頭にかつて着ていた鎧が落ちてきて、堕天使は自分の頭から流れる赤い血をうれしそうに眺める(だったと思う)。これが人間の「痛み」ってやつか、と。
なぜこの映画を思い出したのか。多分それは、性差の解消によって差別がなくなった社会が、痛みのない「平和と秩序」の天使世界と重なって見え、性差による痛みと同時に性の歓喜と悦楽も味わえる社会が、現代の人間世界のようにイメージされたからだと思います。
「ベルリン天使の詩」はさらにこうも誤読していけます。「人は生の喜びを得るため、同時に痛みを引き受けたのだ。いや、痛みさえ生の喜びの一部なのだ」と。
そんなふうに当時考えたのも、同じころ売れていたあるニューエイジ本の影響があったのだと思います。表現は違うと思いますが、その本にはこんなことが書いてあった。「人間が恐ろしいこと、愚かなことをやめないのは、それが結局、面白いゲームだからなんだよ。この世界はホラー映画みたいなもので、みんなホラー映画が大好きなんだ…」。
苛烈な苦痛や絶望のただ中にいる人々には何ともお気楽な発想です。でもあまりに邪悪なこと、残酷なこと、愚かなことがこの世からいっこうになくなる気配が見られない理由を考えるとき、そう考えざるを得ないなあ、と。つまり、それは人間がそれを選択してきたからなんだ、と。
さてそこで前述の「?」の箇所です。紀元前からずーっと同じようなことで苦しんできた人間は、苦しみから解放されようとし、それなりの知恵も蓄えてきたはずです。ただそれを有効に行使してこなかった。なぜか。バカだから。いやいや天使になりたくなかったからです。そして人間は永遠にジタバタする。ジタバタすることで人間は人間なのだから。そう言っちゃうと身も蓋もない?ニヒリスティック?それを今言っても仕方ないじゃないか。それはそうだ。
ところで話はまたすごく変わりますが、本の冒頭に少年愛者の相談メールが記されています。彼にこんな反社会的な返信を送ったらどうなるんだろうか、と考えてしまいました。どうなるんだろうか…。
「あなたは不運である。少年愛を法律的、倫理的に禁じる時代と場所に、あなたは不運にも少年愛の欲望をどうしようもなく抱える男性として生きている。時代と場所さえ違えば、あなたの切なる欲望は容易に満たされたかもしれない。あなたは自身の不運を嘆きながら、充たされない欲望に身もだえしながら、その一生を終わるかもしれない。生きる甲斐なく、生を閉じるかもしれない。しかし、あなたはそれ以外の可能性があることを知っている。あなたは自分の実存の根幹をなす自らの性欲を実現することなしに死ぬことはできないと考える。あなたは少年を誘うことができる。誘いに乗らなければ襲うことができる。そして何の罪もない少年に取り返しのつかない傷を与えたという倫理的な責め苦を自ら背負って生きる。あるいは法的な罪をあがなうべく刑に服す。傷つけられた少年が私の息子だった場合、あなたは私によって殺されるかもしれない。それでも、あなたはあなたの実存をかけて少年を襲う。
あなたは、より現実的な選択肢として、この国が保障する自由と経済力にものを言わせ、東南アジアで身を売る少年を人知れず買うことができる。誰にも言わなければ、誰にも責められずに自分の欲望を満たすことができる。あなたはあなたの実存にとって大きな意味を持つものを得るだろう。そして同時に大きな意味を持つ何かを失うだろう。それが何か、今は明確には分からない。そこに踏み出すかどうか。あなたは自ら選ぶことができる」
かつて「人を殺すことはなぜ悪いのか」という問いが一世を風靡(?)したことがありました。さまざまな回答の中で特異な回答が一つあったのを覚えています。誰の回答かは覚えていません。すなわち「人を殺すことが、あなたの実存にとって絶対的な要請ならば、あなたは人を殺すべきである」。
収拾がつかなくなってしまいました。伏見さんの本に刺激されて思いついたことを脈絡なく並べてしまいました。結論などなく、いや、伏見さんが命がけで書いたこの本を多くの人にぜひ読んでもらいたいというのが結論です。
長いメールになりました。添付すると、はじかれるかもしれないと思って張り付けて送ります。