野口勝三vs沢辺均ロング対談・第七話
共同性の意味をもう一度再考してみよう
━━『欲望問題』第三章「X-men」のエピソードから
沢辺●振り返って考えると僕はいま50歳だけど、10歳代から「家族帝国主義」という言葉も含めて、家族や共同性にからめとられるのにすごく反発してきた。しかしもう一回戻って、いまや配偶者がうちにいないと、俺一人に成ったらどうなるんだろうという不安感を如実に感じると、人がいてほしい、自分以外の他者といっしょに何かをしたいという欲求はかなり強烈にある。やはり共同体は必要なんですよ。
ただ、従来の共同体の負の面、いやなところをできるだけ薄めて共同体のよさを生かすという視点が、この年齢になって出てきた。共同体そのものを否定するのではなく、その在り方を改善したほうがいいんだというふうに気持ちが変わった。その自分の気持ちと、伏見さんが『欲望問題』の第3章で取り上げた「x-men」のエピソードが深くリンクして感動したんですね。
野口●いま言われた共同性の意味をもう一度再考することが重要ではないかという指摘は重要だと思います。近代社会は個人の自由がだんだんと確保されていく社会ですが、その自由は、経済的な自由、財産権や私的所有権を確保するということからはじまり、貧しさからの解放や政治的自由の獲得、生き方の自由の確保という方向へと向かっていきます。
つまり与えられた役割にしたがって生きなければならない社会から、多様な生き方を選べるような社会を少しずつ作っていくようになる。
そのときに自分にとって重要だと考える共同性を生きる場として選ぶことが当然ある。そうすると、沢辺さんがいうように、どういう共同性なら正当化されうるのか、またよりよい共同性の形とはどういうものかを考える必要が出てくるんですね。家族という共同性もそうだし、ゲイという共同性もそうした選択した共同性だといえます。
ゲイに関しては、自分がゲイだという確信は、向こうから疑いようのないかたちでやってくるという点では、非選択的なものですが、それを生き方として選ぶかどうかというのは本人次第ですから、その意味ではゲイも選択的な共同性なんですね。さまざまな共同性は、人々の生きる意味を供給するという形で社会の中に存在しており、さまざまな共同性の意味をもう一度考えなければならないのだと思います。
一方、共同性があるから対立や争いが生じる。だから共同性自体を解体していかなければならない、という論議がある。クィア理論なんかもその一つですね。同性愛というカテゴリーは近代の産物で、近代ヨーロッパという特殊な歴史的・社会的条件のなかで生まれたものであり、異性愛/同性愛という対立枠組みができることで同性愛者差別が生じてきた。
だから同性愛者として異性愛中心の社会に異議を唱えるということは必要なことだけれども、同時に同性愛/異性愛の二項対立的枠組みを作り上げている社会システム自体を解体しないと差別はなくならないというわけです。この考え方は理路としては、性別二元制が男女差別の源泉だというのと同じですね。男女というカテゴリーを作り上げる性別二元制という土台を解体しないと男女差別はなくならないというのと同じ論理構成といえる。このような理路は「論理的」には「正しい」。
同性愛差別にしろ女性差別にしろ、同性愛/異性愛や男/女のような対立する土台自体を解体すればなくなるのはまちがいない。カテゴリー自体がなくなるわけですから、カテゴリーを前提にして初めて存在することになる差別という現象は当然なくなる。
しかし「論理的」に「正しい」ことが、人間にとって「正しい」とは必ずしもいえない。なぜなら、先に述べたように共同性は人に生きる意味を供給するための不可欠なアイテムだからです。人間は実存の基底に不安を抱えているために、さまざまなかたちで何らかの共同性を必要としています。人類の歴史から共同性がなくなったことがないのはそのためです。
ですから、人が差別をなくすために共同性自体の解体を選択するかといえば、そんなことはしないんですね。自身の欲望の条件のなかから差別の解決をはかっていくというのが、人間の一般的なありようですから。人がそうした共同性を必要としなくなって初めて、その共同性を解体する条件が整うわけです。先の二項対立の土台自体を解体するという理路は、人の欲望の条件を満たさない場合、問題を「論理的」に「解消」しているだけで、「解決」するものでないんですね。
沢辺●本質的なものごとのとらえ方として異論はないんだけど、一方で、僕は懐疑的なところがあって、気分として共同性に対する嫌悪感って意外にない?
野口●共同性を嫌だと思っている人があんまりいないということ?
沢辺●いやいやいっぱいいるということ。現実にはゲイという共同性がベースにあるからこそ、ハッテン場とか含めて十二分に楽しんでる面はあるんだけど、同時に家族や会社、組織に縛られたくないっていう気分が多くの人に同居しているような気もする。
マルクス主義的なものの見方の残像みたいなものも結構あって、雇われている人だと、会社にうまく利用されないよう気をつけたりと、会社も共同体の一つとすれば利用もするし利用されることもあって、自分の自由と折り合いをつけていくための問題解決の場として考えていかないと決してその場をうまく生きられない感じがするんだけど、なんか突然アプリオリに空気として共同体嫌悪があるような気もする。
ただしそのことは徐々に減っていくのかなという気もしていて、そんなに心配もしていないところもあるんだけどね。もちろん本質的には、野口さんがいったようにみんな共同性をそこそこ楽しんでいるわけですよね。親の嫌なところはあるにしても、切り捨てるなんていうピュアな生き方なんかしないで、いい歳こいても親に金出してもらって利用もする。僕はそれを悪いことだと思っているわけじゃないんです。
野口●なるほど、何らかの共同性による拘束を嫌がる人が増えてきているのではないのかということですね。それについては僕はこんなふうに考えています。
人間は実存上不安を抱えた存在なので何らかの共同性を必要としてきたのですが、一方で近代社会は人間の自由を推し進めることで共同性からの解放を実現してきたわけです。その結果、現在の人間は、共同性の希求と共同性からの解放という相反する欲望を抱え込まざるをえなくなっているんですね。
特に日本は独身でも生きやすい社会的条件が整ってきている社会だと思います。夜の一人歩きも大きな危険が伴うわけではなく、24時間開店しているコンビニのネットワークが整備されてきているように、独身者でも不自由を感じない社会になってきた。
すると不安や不自由を強く感じるようになるまでは、できるだけひとりで生活したいという気持ちを持つ人が増えてくるんですね。ですから不安や不自由を感じなくなるような社会的条件が整えば、さらに一人で生きたいという人も増えてくるかもしれない。
ですが、これは年齢とも相関性があるでしょうね。年を経て自分だけの欲望の追及よりも、我慢するコストを払っても関係の欲望を選択するかもしれない。
雇用に関して言えば単位時間当たりの労働者一人の生産性が非常に高くなり、組織に所属しなくても安定的な収入を得ることができるようになれば、一人でやっていけるようになるかもしれない。ただこれは今のところ一部の特殊な職業でしか実現していませんね。
いずれにせよ共同性の拘束と自由の希求をどのように調停するか、その社会的条件が何なのかをさまざまな共同性にクラス分けして考えていく必要があると思います。