野口勝三vs沢辺均ロング対談・第二話

初発の動機を生かし、自身を問い直す勇気
──『欲望問題』の普遍性

沢辺●今度伏見さんが書いたものは、ゲイ解放運動を先頭切ってやってきた伏見さんの大元にあった「ゲイとして、より生きやすい状況を作ろう」とか「人としていやな気分を減らそう」という根幹をがっちりと守りながら、その実現的な道筋について真摯に考えた結果、方法論をより深めたということですよね。その変容の過程を真摯にオープンにした、ここがけっこう大切なことだと思うんですよ。

全共闘運動の話でいうと、当時ベトナム戦争に反対するということは、やはり根拠があったと思う。強大なアメリカにあんなちっこい国が攻め込まれて、人々がふざけるなアメリカ、という気持ちをもったのは当たり前だと思う。70年安保闘争には、そういう感覚もあったわけです。広く人間に対する共感とかね。橋爪大三郎さんなどはそこは大切にしたまま、そういうことがおきないために、あるいは人間がよりよく生きるためにどうしたらいいか、ということの方法論として、その背景にあったマルクス主義の方法論を疑った。その初心が守られている変化というのは大切だと思うのね。

野口●自分の初発の動機をより生かすということですね。伏見さんも差別的状況の解決という初発のモチーフをよりよく生かしていく道を正当に探求されたわけですね。

沢辺●そう。そこに思想的な真摯さがある。自分がこう言ってきたからということよりも、初発の動機を優先させた、というのが真摯さのいちばんの根本で、そういう意味で今回の本がすごいと思うわけです。

野口●社会条件は時代とともに変化していくんですが、そういう中で伏見さんは、現実のありようを自分の内在感覚に繰り込んできたんだと思う。一般的に差別問題では、差別的状況を理論のかたちで抽象化していくことで、この社会全体の基盤となっているある構造に根本的な欠陥があるために差別が生じている、という論理を作っていくんですね。差別が厳しいとき理論的抽象化が行われると、とりわけその傾向は強くなる。ゲイ差別も同様で、性別二元制を解体しなければならないという理論を作り上げ、反社会的論理を作らざるをえなかった。しかし社会が変化して、だんだん差別が緩んできて、現実にカミングアウトしている人が少しずつ増えてくるようになり、日常的に蔑視されることも少しずつ減っているということが私だけではなく、多くのゲイに実感されてくる。そのときに伏見さんは、現実の変化をもう一回繰り込みながら、よりよく生きやすくなるためには最初の理論ではうまくいかないんじゃないかと考えるようになった。我々を完全に抑圧する対象でしかなかった社会が、どうもそうではない。我々の自己実現をはかるというツールが社会の中で用意されている。だったら自分が作ってきた道をもう一回捉え返して変えていくしかない、という内省のプロセスをたどられたのだと思う。それが沢辺さんがいま言ったように、最初のモチーフをちゃんと生かした方法だったのだと思う。

沢辺さんはこの議論に自分の左翼運動の経験を重ね合わせて共振して、興奮され、感動されたわけですが、そのわけは、自分の生の可能性の総体を規定した世界像を、たとえ痛みを伴っても一から作り直さなければならないときが人にはあるということを、そうすることで始めて新しい生の可能性が拓かれる、という人の経験の普遍性を感じ取るからだと思う。彼が困難をどのようにして乗り越えようとしたのかについての経験が、自らを捉え返すことで困難を乗り越えようとするときに持たざるをえない葛藤や苦しみ寂しさという感情を、またそれを乗り越えようとする勇気をそこに見出すからだと思います。もちろん普通に生きている人は、私なども伏見さんのようにゲイというカテゴリーの「代表」という重荷を背負うことはないわけですが、誰もが自分は間違えていたな、おかしかったなと考え直し、苦しくとも自らを作り直すということを、小さな生活の現場で行って生きているわけです。自分自身をもう一回問い直して、変えなければならないということを大なり小なりみんなやっている。伏見さんは非常に大きな振幅の中でそれをやっているわけですが、経験の普遍性という点では同じであり、沢辺さんもそういう部分に普遍性を感じられたんじゃないかと思う。生きていくときに、自分を捉えたひとつの観念がある。しかし、その観念がどうも現実の中でよく生きない、そう感じたときに人はその観念を処理するためにどういう道筋をたどるのか、自分をよりよく生かし、他者とともに生きることを、他者とともに問題を共有していくための地平に達することができるのか、そういう普遍的な問題を見いだしてるんじゃないかと思う。

リアリティをもって現実を見ることは簡単なようでむずかしい
──『欲望問題』に根ざすリアリティ

沢辺●ゲイがよりよく生きるために何をすればいいのかを考えるときに、伏見さんはものすごくリアリティを持って現実を見ている感じがするのね。そのことが、方法論の作り直しを可能にしている。しかし、多くの知識人がリアリティをもって書いているかと考えるととてもそういうふうには思えないわけです。一般人もけっこう同様で、それがないことがかなり問題じゃないかとも思ったりするんですよ。

例えば、ポット出版はどういう会社だろうと社員はいろいろ思うわけですね。そのときにどうもステロタイプなのは、会社の社長はどうやらこういうふうに考えているだろう、という一般通念にはめて理解しようとすること。しかし、ものごとって一様じゃない。一般通念とずれているところもあるし、合っているところもある。その両方をみるということは、なかなかできていない。自分も含めてね(笑)。それってすごく難しいことではないかと思うんです。

それを伏見さんはなんでできるのだろう、あるいは僕ができるようになるためには、どういう訓練をするばいいんだろう、そういうことにすごい興味があるんだけど(笑)。野口さんどうですか。野口さんもけっこうリアリティをもって見るわけでしょ。

野口●僕にはリアリティがけっこうあるんじゃないかな(笑)。

なぜリアリティを失うのかについての典型的な例を考えると、一つの共同性ができた場合、空気みたいなものができて、共同性の外からみたらおかしいと感じられるような特定の物の見方が成立していくときがあるわけですね。ゲイの差別運動の言説にもそういうことがあるかもしれないし、ゲイだけでなくさまざまな反差別運動の言説やある種の社会運動や宗教集団なんかにもそういう傾向が出て来るときがある。共同性のなかで常識となった物の見方が空気のように存在しているために、その共同性に入るとなんとなくそれが正しいと思わなければならないことになる。この問題は実は相当大きな問題を含んでいて、原理的に言えば、もし強固な一つの見方が出来上がってしまうと、その枠組みでものを見てしまうために、どんな現象を見てもそのように見えるようになるんですね。

例えば、この世に神の意志があまねく行き渡っているという信仰を強く持った人がいるとすれば、雷が落ちても神の試練だし、幸せなことがあると神の恩恵だし、石ころにぶつかっても神の心を感じるわけです。信仰ということを拡張すると何らかの理論の体系となるわけですが、例えば、この社会が家父長制社会であるという理論を強固に信じた場合、売春は男性支配の現れだし、専業主婦は家父長制の犠牲者であるというように、男女間のあらゆる関係性は家父長制支配の現われに見えてくる。その理論の体系を強固に信じれば信じるほどその世界像は、本人にとっては絶対的なものになり、そのフィルターを通してしか社会を見れなくなっていく。

しかも、その理論を信じている共同性ができて、その理論を共有しているメンバーとともに生きることのうちに、自分の生の根拠を見出すようになると、その強固な世界像がますます本人にとっては絶対的で疑いようのないものになってくる。そうすると所属する共同性の外の人から見れば、明らかにおかしい、リアリティのない信念を全く正しいこととして主張するようになってしまうんですね。実存的不安が非常に強く、その理論が生の根拠になっている人ほどその世界像を問い直すことが難しいわけです。

もちろんその世界像が絶対的なものとして存在していない場合もある。世界像がそれほど強固なものではない場合、それは絶対的理念というかたちで存在するのではなく、一般通念のようなものとして存在していることになる。何となくそのことを信じているという状態ですね。

実は絶対的世界像にしろ、一般通念にしろ、そうした自明な世界像を疑う契機となるのは、原理的には「他者」との「対話」と自身の「捉え返し」なんですね。自分の信念を相対化してくれる「他者」との「対話」によって初めて自分たちの考えが間違っているかもしれないという疑問が初めて生じてくることになる。そのためにも自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないようにしておくことが大切なんです。自分の生の可能性を一つの集団の中だけに見出さないということは、自分の不安を打ち消すための、所属する集団以外には通用しない大きな物語を必要としないということを意味しますから、普通の生活感覚の中での対話的やり取りによって、問い直される可能性があると思います。何らかの共同性に強く拘束されているわけではなく、実体的根拠のない一般通念を何となく信じている場合も対話的関係によって変わっていく可能性が高いといえます。その相手は具体的な人の場合もあるし、本とかメディアの場合もあるでしょう。  

沢辺●僕は橋爪さんの論を適当に密輸入しているだけなんだけど(笑)、十年以上前に話していたときのことですが、彼が<革命なんてないほうがいいんです。つまりいままでの枠組みを変えるということは大変なコストがかかる。革命よりも緩く変更させていければ全然コストはかからない>というようなことを言っていたんです。それまで自分はアプリオリに革命は正しくて、それにロマンを感じていたんだけど、リアルに考えると確かにそうだなとハッとした。その革命と社会通念を単純に重ねているだけなんですけど、人間って通念が揺らぐと不安になりますよね。

野口●それが自分を支えていればいるほど不安になる。

沢辺●この『欲望問題』のなかでも伏見さんが橋爪さんの話を引いているわけですが、要は差別をなくすために結婚とか家族とかをぶちこわすことは非常にコストがかかる。あらかじめ男、女と外見上わかっていればお約束でそこまでは確認終了でコストはかからない。でもそういう根本から社会を作り直さなければならないとしたら、みんなそのコストを払うだろうか? そんなことを言っているわけです。そういうことを含めて言うと、通念というのは両面性があって、通念が人をしばっていて飛躍できない面と、心安らかに日々を生きられるという二面性がある。

野口●この場合の通念というのは二種類あって、自分の生を規定している動かしがたいルールといえるものと、交換可能なルールとがある。いまおっしゃられたのは後者のルールですが、例えば性別は多くの人にとって、自分自身を規定しているルールといえます。通常、自分が「男」であるとか「女」であるというのは、本人にとっては疑いようのないものですね。もちろん世の中には自分の性別がよくわからないという人もいるわけですが、多くの人にとっては内省しても疑いないようなかたちで存在している。ゲイという自己意識も同じですね。疑っても疑いようのないものとして取り出される。多くのゲイにとって自分がゲイだという確信は向こうからやってくるわけです。異性愛だと思っていたけれど、よくよく考えると自分は違うなと気づく人もいるけれど、多くのゲイや異性愛者では、同性愛や異性愛というルールやコードは自分にとって疑いようのないもの、問い直して疑ってみても確信として向こうからやってくるものなんですね。その場合自分を規定しているゲイであるとか、女性であるとか、男性であるということ「自体」が、他者を直接侵害していたり、自身の生の可能性に抑圧的だと思えない限り、そのことを変えようという契機は生じないんですね。