野口勝三vs沢辺均ロング対談・第四話

対話から問いを立て直していく
━━『欲望問題』の面白さ

野口●今言われたように、反権力をスローガンにした社会運動はよく普通の生活者の中に生きている「常識」や「普通」に対して、過剰に反応して「常識」って一体なんだ、「普通」ってなんだと攻撃的な態度に出ることが多いんだけど、当然のことながら「常識」の中にも良い部分と悪い部分が必ずある。「常識」というものが、人が共同的な社会を生きていく中で醸成されるものである以上、そこには異なる価値観をもつ人々が一緒に生きていく上で必要になる作法、合理性も当然含まれる。「常識」には、そうした人の倫理の普遍性と、一方的に何かを排除しようとするような、近代的な人間観に抵触したものが存在している。つまり、「常識」の中の正当化できないものと正当化できるものを区分けする必要がありますね。

これもさっきの議論と同じで、自分たちの価値観、意見、共同性と違う人たちからの意見に対して、それはマジョリティの常識的な意見だと十把一絡げで否定するのではなく、その意見を区分けして核を取り出していき、正当な意見かどうか検討しなければならないわけです。

さっきの沢辺さんの地下と地上の話でいうと、役職や地位というものは、人間が一緒に集まってひとつの組織を運営していく上で不可避的に生じるものです。全員が平等な立場で同じ決定権を持って運営するのは、組織が大きくなればなるほど不可能なわけです。だから地位が生じること自体には普遍性があるということを認め、よりよい地位関係はどのようなものかとか、それはどうやって作っていけばよいのかなどの具体的な方法論を考えていくことが重要だと思います。

この『欲望問題』にも、多くの人が枝葉の部分でいろいろ言ってくるかもしれない。例えば、伏見さんはフェミニズム、ジェンダー論が性差解体を主張していると言っているが、こういう議論もあるし、ああいう議論もあるというような反論が必ずあるでしょう。また、なぜジェンダーフリーを主張する側への批判ばかりで保守派への批判があまりされていないのかという意見もあるでしょう。でもそれは読み方としてはまったく正当な読み方ではない。

議論に耳を傾ける場合、核心をまずつかむ必要があり、それをつかんだ上で、この掴まえ方にはこういう問題があると言う必要がある。今回の場合、例えばジェンダーフリーに関する部分では、ジェンダー論が性別というものをどう扱うのかについての原理を提出しないまま、性別が悪いものだというイメージを流し続けていることを批判しているわけです。

一方ではジェンダーを政治的な概念だといい、一方で中立的な概念だということを主張して、学問の世界以外の人に理解できるような論理をキチンと提示していないことを批判しているわけです。もっとも学問の世界の人間が正確に理解しているのかどうかもあやしいのですが。そして、学問の世界のこうした誠実でないやり方が、ジェンダー・フリーバッシングの動きを背後で支えているのではないかという疑問を提出しているんですね。つまりジェンダーフリーへの反発の根本原因は、ジェンダーフリーを推進する側や、ジェンダー論の研究者にあるのではないかという疑問を提出しているわけで、問われているのは自分たちです。ですから批判をするなら、保守派に対する批判をなぜもっとしないのだ、などのような問いをずらす反論ではなく、こうした論点に直接向けた反論をする必要があると思います。

もし批判を相手の議論の核心をつかんだ上でなさずに、自分に都合のよい点だけで行うなら、議論が自己の信念を補強するだけの、単なる闘いのための言語ゲームになってしまい、議論を深めていく対話のための言語ゲームでなくなってしまう。でも本当は、闘いのための言語ゲームなんて自己意識を強化するだけの作業で、たいしたことじゃないんですよ。

僕はいま学生と一緒に文章を作る仕事をやっていて、学生は自分の経験の中の出来事やそのとき感じたことを捉え返して、なぜその出来事のそういう感情を持ったのかを考えて文章を書いてくるんだけれども、僕のアドバイスと同じことを同じ言葉で書いてきたのを読んでもまったく面白くないんですね。僕がアドバイスした内容と同じ意味であっても、彼ら固有の表現で書かれているとやっぱり面白い。また、僕が思いもよらなかったような理由を彼ら自身が取り出して書いてくると、やっぱり面白いんですね。実は言論の本質はそこにある。

闘いの言語ゲームで勝つというのは、いわば自分の言葉で相手との違いを全部埋めることになるわけですよね。でもそれは本当はつまらないことで、言論の本質は、自分が投げかけた言葉を相手が受け止め、さらに返してくるやり取りの過程で、自分が触発され、考えを深めることができるというキャッチボール、対話性の中にある。言説の世界で、言論の持つそうした面白さに対する感度がどんどんなくなってきている気がする。自分の信念で全部埋め尽くして、批判されると排除しようとする傾向がある。それは結局自意識に負けていることを意味しているんですね。そういう形で言論という言語ゲームが闘いの言語ゲームに還元されてしまう貧しさを感じていて、とても残念に思います。

しかし伏見さんの『欲望問題』はそうではなくて、ある議論に感じたことを内省して、その感覚が一体どこからくるのかということを、相手の議論の核を受け止めた上で、自分の経験や自分のありようとすりあわせをしながらもう一度初めから考えている。さまざまな立場の人々との対話が『欲望問題』のいちばん中心にあるんですね。結論も重要なんだけど、それ以上に相手の意見を受け止めようとする態度や内省のプロセス──それは生き方とも言えると思うんだけど──がこの『欲望問題』の一番の面白さだと思う。

沢辺●その通りだよね。具体的に言えば、少年愛の指向を持っている人から手紙が来たという話が書いてあるんだけれど、その少年愛の指向を持っている人と自分は居る場所が違うだけ、自分と相手との間には大きな川があって、相手は犯罪者で自分は正常だと分けているのでなく、自分と相手が居る場所は地続きの中にあると位置づけている。僕はこれもすごいなと感心したことのひとつなんです。

ほとんどさまざまな問題に自分を重ねているでしょう。少年愛を指向している人を自分と無関係なこととしてどう評価するのかではなく、例えば自分が少年愛という指向をもっていたらどうだったのかとか、自分が持つ可能性はあったのだろうかとか、ほとんどの事象に対して、自分を重ねている。これはまったくすごいよね。

野口●うん。たまたま自分はゲイであり、少年愛ではなかったという自分自身の性の指向性をさまざまな性の指向性との連続性の中で捉えるということは、今言われたように問題に自分を重ね合わせるということなんですね。またさらにすぐれているのは、自分の問題として捉えてそれを全部正当化するのではなく、その指向性を社会の中に置き直したときに、どのレベルで認められる問題なのかということを、もう一度捉え直している点ですね。少年愛の場合は内面の問題としては仕方のないことだが、社会的なルールとしては認められないだろう。何らかの線引きは社会にとっては必要だろうと、痛みに満ちた結論を引き受けているわけです。

これは、別に少年愛者だから裁断しているわけではなく、ゲイに関しても同じなんですね。ゲイだからということでゲイの利害が全部通るわけではないということを引き受けている。ゲイは再生産を核にした家族中心の社会において、抑圧を受けてきたといえるわけだけど、だからって、家族、子供を作る人たちは自分の利害に反する存在だ、家族を再生産していく社会システム全体が間違っている、とは言わない。ゲイである自分は子供をつくらない。子供を中心とした家族を営むわけではない。しかしながら社会の存続可能性にとって子供が必要である以上、ゲイも同じ社会を生きる人間として、社会を維持するコストを払う必要がある。子供を作るという形でのコストを払うことができないけれども、それに代わりうるコストを払っていく必要がある。このように自分を常に他者と重ね合わせながら、社会の中に置きなおして普遍化して検証する態度を一貫して持ち続けているんですね。

ゲイリブの中には「反家族」という理念を打ち出す人もいる。しかし同じ社会のメンバーである以上、それを維持するためのコストは、どのレベルでどの程度払う必要があるのかは議論によって決定されていくのでしょうが、互いに負担しなければならない。異なる利害を持っている人が同じ空間のなかで存在する以上、維持するコストはお互いに払っていく必要があるという意識を持つこと。公共性というのはそういうものですね。

家族を自分たちを抑圧する共同性だからと否定するのではなく、家族を持ちたいという利害を持った人たちも社会の中にいて、われわれもそうした人々も等価なものとして社会の中に存在している。自分の利害は絶対的なものでなく、他者によって相対化されうるものであり、そういう人間同士が一緒に社会を作っていくならば、誰がどのようなコストを支払うのかは、対等な権利をもったメンバー同士で決定されうるものだ、と。ところが、特殊なイデオロギーを持つと、このような見方がなかなかできないんですね。

そこから抜け出すのは難しいと沢辺さんがおっしゃったんだけど、全くその通りで、イデオロギーは世界を見る認識枠組み、フィルターのようなものの一種だと考えることができる。図式化して言うと、世界はいわばカオスであって、人は何らかのフィルターを通してカオスとしての世界を、再整理して認識していくわけです。そのときのフィルターにマルクス主義があったり、フェミニズムがあったり、クィア理論があったりする。そして、このフィルターを信じていればいるほど、そのフィルターを通した世界像から抜け出すのが困難になるんですね。

大切なのはこのフィルター自体を検証する回路を持っておくことです。その認識枠組みを共有しない人が、さまざまな現象をどのように意味づけているかを不断に検証しておく必要があるんです。自分たちはある現象にAという意味づけを行っている。しかしながら同じ現象を別の人はそのように意味づけていない。だとすればもしかしたら自分の認識枠組みが間違っているかもしれない、それが本当に正しいかどうか検証してみよう、というように自身を内省する回路を作っておかなければならない。この認識を共有する人たちだけにしか通用しない議論をするのではなく、その認識枠組みを知らない人に対しても理解可能な議論をしていく中で、互いの認識を深めていく過程をたどらなければならない。

そういう姿勢を持つことが今後の反差別運動では特に求められていると思います。現在、先進国では各人の自由がだんだんと実現されてきた。日本もそうですね。もちろん全ての自由がかなえられているわけではないが、自由の水準が上昇した社会になって来た。このようなときに、ある特定の利害に基づいた見方をみんなが共有すべきだという議論は、その利害を持たない人には全く通用しないんですね。そのイデオロギーを信仰してしない人から見ると、何を言っているんだろうこの人たちは、となる。

だいたい「普通」に生きている人たちは、強固な一つの利害に基づいて生活をしているわけではないので、議論を俯瞰して冷静に見られる人が社会に大勢いることを認識しておかなければならない。そのような現実に謙虚であり続けなければならないんです。

異なる価値観を持った人同士で生きていく社会である以上は、差別の克服というのは非常に重要で、アメリカなんかが典型ですけど、他民族国家の社会においては差別を克服できないと社会の存続自体が危うくなる。現在の日本では異なる民族の人たちの共生の問題はそれほどクローズアップされていないけれども、今後だんだん問題になっていく可能性がある。

それは民族だけでなく、ゲイや障害者、いろんなマイノリティもそう同様です。そのときに多くの人が納得しうるような論理を立てないと、結局差別の克服は実現できない。マイノリティ側にとっても自分たちの言葉が全然通用しないという現実を、反権力、反社会的な信条だけで目をつぶってやり過ごしていくことになる。