2007-07-31

高橋源一郎『あ・だ・る・と』

ada.jpg● 高橋源一郎『あ・だ・る・と』(集英社文庫)

 人々がAVビデオに求めるものは、「本物」なのか、「本物っぽさ」なのか。

 一般的には「女子高校生もの」を消費するユーザーは、その作品に「本物の女子高校生」の登場を求めていると考えるのが妥当だろう。しかし、いまどきのユーザーには、AVに登場する「女子高校生」のすべてが「本物」ではなく、ほとんどが「本物っぽい女子高校生」であることくらい周知の事実だ。そのことが折り込み済みで、「女子高校生もの」が消費されている、としたら、すでに「本物の女子高校生」の向こう側に、それとは異なる「女子高校生」への欲望が胚胎してるとは言えまいか。

 高橋源一郎の描くAVの世界は、作り手にとっても消費者にとっても、「本物」と「本物っぽさ」、あるいは虚と実が交錯する地点である。

 「レイプもの」の作品を撮ろうとして、「本物のレイプ犯」を連れてきて使う製作者。「女優」には事前にそれを伝え、「撮影の時にはちゃんと本気で抵抗するように指示も出して」おく。製作者曰く「だから一応抵抗もしてるんですが、そもそもこれがビデオの撮影なのかそうじゃないのかわからないんで反応が変…」。結局、「女優」は「レイプ犯」に中出しされてしまうが、製作者が後で「ゴメンね。迫力のあるシーンを撮りたかったんで、黙ってたんだ。おかげで、すごく良かった。最高」とフォローすると、彼女は機嫌を直す…。

 作り物でありながら、本番という「真実」が可能にならないと成り立たないAVという営為の本質が、「本当の自分」を、個々の生のどの断片に設定すればよいのか定かでなくなった現在という時代を、まさに象徴する。

 そして、この小説もまた、純文学の作家が描いた小説が「あ・だ・る・と」なのか、アダルトを描いた純文学がこれなのかの循環の中にある。高橋源一郎という監督兼男優による、この虚実の間の自作自演こそが、現在という状況の構造を映し出している。

*初出/北國新聞ほか 1999