2007-07-31

四方田犬彦『狼が来るぞ!』

ookami.jpg● 四方田犬彦『狼が来るぞ!』(平凡社)

 本書は雑誌で連載されていたコラムを再構成して一冊にまとめたものである。が、読者に散漫な印象を与えないところは、著者の卓抜な文章力と、ふところの深い世界観によるのだろう。とくに紀行文での鋭い筆致は、読者に新しい世界像を提示する。

 例えば、イランでは女性が外出時にかぶるチャドルについて語る。それは大方の日本人にとってはイスラムの宗教的な敬虔さの象徴に見えるわけだが、四方田はイランの女子大生のこんな言葉を紹介する。

「…それはあくまでも社会慣習の問題です。チャドルなしに街を歩けば、周囲から女性として扱われないでしょう。わたしは女として扱われたいから、チャドルをしているだけです…」

 そして彼がテヘランの滞在を通じて理解したのは、「チャドルは女性を抑圧するイスラムの前近代性の象徴などではなく、むしろ日本でサラリーマンが身に着けている、青みの魚のような背広に近いもの」ということだった。私たちに馴染みの「背広」というたとえを持ってくることによって、彼はチャドルの中に隠されたイランの女性たちの表情に、宗教徒とはべつの人間的な色彩を与える。

 また、釜山から玄界灘を渡って下関へ向かう船での一夜を綴った箇所では、韓国語で声を掛け合う女たちのいきいきとした様子や、乗客が韓国の花札を打つ喧騒やらがリアルに語られる。そしてそれに続けて、「翌朝には誰もがけろりとした表情で日本語を喋っていた」と目のさめるような光景を描写してみせる。

 ここでまたしても読者は、普段は隠蔽されている、日本が複数民族国家である現実にハッとさせられることになる。この国の内部の差異を照らしてみせるのに、これほど説得力のある情景はないだろう。

 高みから異なる世界像を押し付けるのではなく、オセロのように一箇所を置き換えることによって、まったくべつの像を浮かび上がらせる四方田の技巧には、舌を巻くばかりである。

*初出/デーリー東北ほか 1999