2007-07-31

梁石白・高村薫『快楽と救済』

kairaku.jpg● 梁石白・高村薫『快楽と救済』(NHK出版)

 本書は、『血と骨』の梁石白と、『レディ・ジョーカー』の高村薫という当代のエンタテイメント作家による対話。と言うより、現代という時代をもっとも鮮烈に描く二人の作家による時代批評、と言うのがふさわしいかもしれない。

 対話の中でも「彼らが選びだす言葉や、言葉によってつむぎ出される世界の姿は、私にはどうも手の届かないものになっている」(高村)と疑問を呈された純文学にかわって、高村や梁の作品はいまや時代を映し出す鏡になっている。文壇に自閉した純文学が大衆に見捨てられつつある一方で、時代とシンクロする物語はエンタテイメントの分野に確実に育っている。

 そんな時代性を担っている二人が語り合うのだから面白くないわけがない。また、高村と梁のバックグラウンドの違いが対話をより重層的なものにしている。

 在日朝鮮人というアイデンティティを生きる梁は、日本社会の中で「身体性」が空洞化したことがゆがみを生んでいると指摘する。そして同じ社会で暮らす在日の自分もまた「身体性」を失いつつあるという危惧が、父をモデルにした『血と骨』を書かせたと言う。

 対照的に高村は、アイデンティティを「霧がかかっている」ようにしか感じてこれなかった自分たち日本人に不安を抱く。そして、「言葉にならない、情報にならない身体など、意味を持たないような、そんな世界に私たちは生きているような気が」すると、商品化されてしまった日本人の生のありようを鋭くえぐる。

 アイデンティティをめぐる二人の作家の立場の違いは興味深い。この社会において「他者」としてのアイデンティティを強烈に持ってるからこそ見えてくるものもあるだろうし、逆に、アイデンティティをあいまいにしか持ちえないからこそ展望できる地点もあるだろう。

 両者は、言葉という道具を用いて状況を深く掬っているという意味において、まったく互角の勝負をしている。

*初出/福島新報ほか 1999