2007-07-21

藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』

fujimo.jpg● 藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』(学陽書房)

 藤本由香里著『私の居場所はどこにあるの?』は、「少女マンガが映す心のかたち」と副題にあるように、少女マンガを通じて、現代の女性たちがどのような心の問題を抱え、その欲望を変容させてきたかをたどる女性史になっている。

 著者はフェミニズム関連の書籍を作ってきた編集者だけに、フェミニズム批評とも言えるスタンスで、それを分析、解釈している。

 少女マンガの初期の作品をたどると、「家族」こそが少女マンガの根底にあるテーマであり、家族関係における疎外を克服するために「幸せな結婚」と、それに至る「恋愛」がモチーフとして現れた、と著者は言う。

 そして、そうした自己肯定の欲求が反転して、同様に家族との関係に傷ついた異性を、愛の名のもとに全面的に受け入れるというかたちで、自己充足を図ろうとする方向性が出てくる。ゆえに、「出版点がこうである以上、日本の女たちがあらゆる意味で母親を志向していくのは、自明の理であった」。

 また、日本のサブカルチャーの中で独特の特徴をみせる、少女たちの、少年愛を描いたマンガや小説への嗜好を、「少女にとって性はまず“恐れ”であり、欲望ではない」から、それが「成熟への怖れ」をあおり、「女性嫌悪」につながっていく、と説明する。

 少年どうしの性愛に「受動の苦しみ、常に欲望を喚起する存在」としての姿を仮託することによって、少女たちの抑圧感を「ナマの痛みをともなわずに描き出すことに成功した」。

 著者はこうして少女マンガの長い歴史の蓄積を読み砕くことによって、「女たちが陥ってきた罠」を次々と暴いていく。そして、そこに通奏低音として流れていた「私の居場所はどこにあるの?」という、まさに本書のタイトルであるところの問いかけを浮かび上がらせる。

 少女たちは大人の女へと変容(あえてこの表現を用いる)していく過程で、「成熟」という名の社会化(男性中心の価値観への恭順)から取りこぼされる「私」の存在をめぐって、自問を繰り返してきたのである。

 が、著者は少女たちから「私」を奪う「罠」としてだけ少女マンガをとらえているわけではない。「私」を取り戻すための肥沃な大地としてもまた、とらえ直しているのである。

 その少女マンガへのやさしいまなざしが、この批評集を深いところで時代精神に結びつけることに成功させている。

 上野千鶴子著『発情装置』は、藤本が編集した作品でもあり、両作品は時代を照射する角度を共にしている。

 こちらは援助交際から同性愛まで、90年代の文化全般を総括しようと試み、あいかわらずの手さばきで見事に「時代を整理しつくしている。出色の出来映え。

初出/現代性教育研究月報 1998.6