2008-11-30

木村朗子『恋する物語のホモセクシュアリティ』


*マイミク募集中! http://mixi.jp/show_friend.pl?id=3837974 

* ↓↓現在、ブログ布教中につきご協力を。踏んだ数だけご利益がある!?
ずっとベスト10前後を行ったり来たりなので、もう少しのご助力を!(笑)

● 木村朗子『恋する物語のホモセクシュアリティ―宮廷社会と権力』 

★★★ 密教的な文体に幻惑されるが、ロジックはよくある近代主義批判。っちゅーか、著者が自分の文体に恋する物語のセクシュアリティ(笑)

私たちは現在の自分たちに当てはめて過去の人間をとらえがちだ。
 
性に関しても同様で、例えば男同士の性愛関係であれば、その二人は「同性愛者」であったと考える。けれど、私たちが性の欲望を異性愛/同性愛という概念で認識するようになったのは、近代になって西洋文明が流入してからのことで、それまでは自分たちのアイデンティティを性の傾向によって分類する思考自体がなかった。

ミシェル・フーコー『性の歴史』以降のセクシュアリティ論はそのような視座によって、現在の私たちの性愛を相対化し、オールタナティブを提供するものになっている。本書もそうした近代主義批判の流れから出てきた歴史分析で、『とりかへばや物語』『夜の寝覚』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけてのテキストを用いて、女性や同性間の性愛を宮廷の権力再生産との関係で位置づけようとしている。そして、そのことによって性愛のもう一つの可能性を示唆する。

学術論文をもとにしているとあって、内容を正確に理解することは素人には難しい。しかしそれは、本書の専門性や文体にばかり起因するのではなく、平安の宮廷で織りなされたであろう性愛の不可解さにもある。

例えば、『夜の寝覚』では、帝がかなわぬ想いを抱く寝覚の上の代わりに、彼女の息子とホモセクシュアルな関係を結ぶ。現在の私たちの感覚からしたら、どうして好きな女性の息子を相手にすることで気をまぎらわせることができるのか、と考える。けれど、そこには平成の御世とは別の性愛の感受性と、形式があったのだ。

他にも「形代」であるとか「稚児」であるとか、近代以降の性の感覚からすると理解しがたいような性愛関係が分析されていて、門外漢には、平安朝文学はSF小説さながらに奇想天外である。

こうしたいにしえの性愛の多様性と猥雑さを、豊穣と考えるべきか、ある時代のある形式にすぎないと受け止めるべきか。どちらにせよ、著者の言う通りそれはあくまで近代のオールタナティブであって、性愛の本来性でもなければ、はたまた目標とも言い難い。