2008-10-30

三浦しをん『きみはポラリス』


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● 三浦しをん『きみはポラリス』(新潮社)

★★★★★ 小説を読むのが好きではない伏見が、めずらしく夢中になって読んだ秀作短編集

三浦しをんの『きみはポラリス』を読み進めるうちに、子供の頃の情景が思い出された。まだ性が言葉を持たなかった時代の自分をーーー。

小学校も中学年になると子供もませてきて、「○○ちゃんが好き」とか「××君から告白された」とかいった話題が教室の隅でささやかれるようになる。女の子たちにとっては、バレンタインデーに意中の男子へチョコレートを手渡すことが一大イベントだったし、とりあえず「両思い」ということになれば、ふたりだけで下校したり、二つ合わせるとハート型になるペンダントの片割れを持ち合ったりしたものだ。

ぼくが、それまでいっしょに遊んでいた女子が、どうやら自分とは異なる生き物であることがわかったのは、体育の前の着替えの時間。乳房がふくらみはじめた彼女たちが、はにかみながら男子に見られないように体育着に早変わりするほんの一瞬、はらりと胸元に大人の女のそれがかいま見えた。ブルンッとした質感が、つい昨日まで自分と同様に真っ平らだった胸元と、天と地ほどの差があるようでとまどった。そのとまどいの中に、どこかねっとりとした「そこに触れたい」という気持ちが混入していた。「性欲」という言葉さえ知らななかった生(なま)の欲求。

六年生になる頃には幼なじみの女子に告白されて、ぼくもいっぱしに「付き合う」ことにもなった。もちろん「付き合う」といっても、交換日記をしたり日曜日にいっしょに出かけたりする程度のことなのだが、それでもそこに交わされる感情は、いっしょに近所を駆け回っていた子供同士のそれではなく、甘く密やかな香りに包まれていた。

本格的に思春期を迎えて性が成熟すると、今度は自分の欲求がどうやら同性に向っていることを疑いはじめる。そういう、ぼくの「同性愛」への気づきの過程は、本書に収録されている『永遠に完成しない二通の手紙』『永遠につづく手紙の最初の一文』の登場人物に重なる。岡田勘太郎は、幼なじみで親友の寺島良介への思いが友だち以上の何かを含んでいることを薄々感じていたが、それはある時点まで「恋愛」には結びつかなかった。自分の秘めたる情感が一つの言葉に行き着くまでの道筋が、三浦が描き出した岡田という主人公の繊細さにリアルに映し出されている。ぼく自身、はじめ(時代性もあって)自分が同性愛者などとは思いもよらなかったので、それを受け入れていくのは、その欲望に言葉を当てはめていく作業そのものだった。

小説が言葉にならないものを言葉に仮託する表現ならば、ここに収められた短編は、まだ名前を持たない関係を、名前を与えないままに表した物語だ。同性の親友への切なさを「好き」という言葉に掬い上げた先の二作。偶発的に起こしてしまった殺人によって別れた男女が、それを「沈黙と忘却をもって苗床の栄養に変え」、その共犯関係をかけがいのないものにする『私たちがしたこと』。誘拐犯との交流を心に温める少女を描いた『冬の一等星』……この一冊に収録されたどれもが名前のない関係に、豊穣なる魔を醸し出している。

言葉にするとそこにあったはずの魔は、どうしたわけか雲散霧消してしまう。どす黒い沃土を含んでいた関係が、名前を得た途端に渇いた大地と化してしまう。三浦が掘り起こしているのは、「恋人」「恋愛」「結婚」「同性愛」「異性愛」「不倫」といった言葉につかまえられた関係よりも、もっと生々しい欲望を手探りしている人たちの経験だ。三浦の巧妙な筆致と、狂気にも似た情によって、ぼくらはそれを自分の心に活き活きと甦らせることができる。この短編集は、だからこそ小説として成功しているのだろう。言葉によって削がれてしまう魔が、言葉によって十全に再生されている。

「同性愛者」というアイデンティティからすれば、ぼくの小学生のときの女子との交歓は、「恋に憧れる気持ち」や「まだ未分化な性」と言い得る。が、言葉で整理のつかないあの官能は、概念化された解釈が無意味に思えるほど、何か豊かな情緒を未開拓の心に敷いてくれた。そこには言葉という洗練を経る以前の魔が、確実に胚胎していたのだから。

*初出/波(新潮社)