2007-11-15

QJ 座談会「私はコレで会社を辞めました」前編

QJ2.jpg■ 座談会「私はコレで会社を辞めました」

*初出/「クィア・ジャパン vol.2 変態するサラリーマン」(勁草書房/2000)
*この座談会の記事には、雑誌掲載時には児玉蒔さんというレズビアンの方も参加されていました。今回、連絡先が見つからずご承諾が取れなかったので、児玉さんの部分をカットしたヴァージョンのアップになりました。児玉さんがもしこのサイトを見ていたら伏見までご連絡をいただければ幸いです。
*ということで、座談の流れが若干、わかりにくい感じの部分があるかもしれません。
*また他の参加者の方も現在では社会的な立ち場がそれぞれ異なりますので、当時の話しとして読んでいただければと思います。

プロフィール(2000年当時のもの)
● ラク 
34歳。大学卒業後、情報処理関連会社の営業マンとして7年間勤務。現在、新宿2丁目でパートナーと一緒にISLANDS(アイランド)というバーを経営し5年目。パートナーのほか、猫2匹と同棲中。

● junchan
約4年のOL(オカルト・レディ)生活後、ミセコ、貧乏女装を経て、バディ編集部へ(2000年当時)。女装は引退済み。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/3346

● マリー早川 
武蔵大学経済学部経済学科卒。在学中に英国ケント大学に留学。日本国籍のマーケティング会社、米国籍の広告代理店などの勤務を経て現在、ゲイ・トラベル専門の旅行会社TRUE travel(トゥルー・トラベル)株式会社の代表取締役(2000年当時)。

司会 ●伏見憲明

伏見(司会) 本日は会社を退職した経験のある方々に集まっていただきました。みなさん、その後、ゲイ関係のお仕事をされています。それではまず、自己紹介からお願いします。
マリー 私は二八歳ですが、これまで四回仕事を変えました。ジョブ・ホッパーというんでしょうか。現在はゲイの旅行会社を設立して、代表取締役です。
ラク 僕は三四歳。いまはゲイバーを経営していますが、以前は大手の情報処理関連会社の営業をしていました。
junchan 僕は現在『バディ』というゲイ雑誌の編集をやっていますが、それまでは、大手都市銀行のシステム開発、プログラマーでした。三〇歳です。

ソープでも
「ていねいな仕事」!?

伏見 それでは、歳の順でラクさんから(笑)、職歴とゲイ歴(レズビアン歴)をからめたかたちで、これまでの歩みを教えてください。
ラク 僕は大学二年生のときに電話ボックスで『薔薇族』を拾うまでは、自分がゲイだと全然意識してなくて、女の人とも付き合っていたんですね。
伏見 それって鈍感なんじゃないの(笑)。
ラク よくよく考えてみると、自分でも男が好きだったというのは前からあった。大学のサークルで後輩をストリップ劇場に連れて行くならわしがあって、そのときにジャンケンで壇に上がる後輩たちを見て、ちょっと興奮をした覚えがあったんです。大学時代に付き合った彼女とは頻繁にセックスもしてたんだけど、『薔薇族』を拾って以降、本を見ながら一人でやることが多くなって、彼女との関係は月に一回あるかないかになりました。ちょっと体育会っぽいサークルで「男は営業だ」みたいな雰囲気があったので、就職先は、だいたい商社や銀行の営業が多かったですね。だから僕もなんの迷いもなく営業職になった。
伏見 いまはゲイバーの仕事をしていて、いろんな仕事の人を知ってると思うけど、営業やってるゲイの人って多い?
ラク すごく少ないです。他の店もいっぱい回りましたけど、営業職っていうのは少ない。営業の人は二丁目なんかに出てこないで隠れてるんだと思う。
伏見 営業に「隠れホモ多し」(笑)。
ラク うん。ハッテン場とかは、けっこう営業の人もいるんだけど。
伏見 それって昼間から行けるから(笑)。僕は会社の組織を知らないのだけど、営業職というのは体育会系ノリだと聞きますが、本当?
ラク 三〇〇人くらいいる営業本部に女性が五人ぐらいしかいなかったから、もうほとんど男。女性と話す機会はない。取引先も男だし。でも入社したときは、営業だからこんなもんなのかなという感じだった。
マリー 営業事務の女の子とかはいるでしょう?
ラク いますね。だから、考えてみたら一週間のうちで女性としゃべったのって、スーパーのおばちゃんと営業事務の女の子だけだっていうことがよくあった。
伏見 ラクさんにとって、自分が男性とだけコミュニケーションがあって女性とはほとんどないという状況は、特別な意味はあったんですか。
ラク あった。男性の社員ばかりだと、会話がかみ合わないんです。とくに営業の人というのは、僕の偏見かもしれないけど、女、車、スポーツの話題だけ。それもスポーツはだいたい野球。
伏見 でも、それって自分がゲイだという自覚がないときなんでしょう。
ラク いや、就職して半年後に初めて男と体験して、それから二丁目に出てきたので自覚はあった。オネェだっていう自覚も十分にあった(笑)。例えば自分は映画が昔からすごく好きだったし、音楽が好きだし、あるいは競馬場へ行くよりかは動物園に行くほうが好きとか……。でも会社でそういう話題をしようとしても、受け入れる態勢が周りになにもない。結局、輪の中に入るには、自分が周囲に合わせるしかないのがとてもつらかった。
伏見 営業はどれぐらいやってたんですか。
ラク 僕は七年間。
マリー 偉い!
ラク 二丁目へ行くことでバランスをとってたんですね。昼間は完璧に絶対バレないようにしているんだけど、どんなに遅くなっても週に三、四回は二丁目に飲みに出て、好きな話をしていた。そこでは言葉が通じるって安心感があった。職場では、例えば、夏から秋に季節が変わって「秋風が吹いた」と言えば、「バーカ、この暑いのに」って言われる。でも二丁目に行けば、「そうよね、ちょっと秋っぽくなったよね」と同調してくれる人たちがいる(笑)。
伏見 そんなに生きがたい境遇で、どうして七年間も働いてたの?
ラク 基本的に僕は何かを続けるということに意味を見出すタイプなんです。昔からそうで、学生時代の女性とも四年間続いたし、男性と付き合っても、ちょっと違うかなと思いながらも長く続ける。
伏見 それっていまのダーリンのこと……?(笑)
ラク あははは。まあ、いまもそうだし、前もそう。長く続けると、自分が考えてもみないことで力になるものが出てくるんじゃないかと思っていて、それに執着心がある。
伏見 なのに、なんで七年間で辞めようと思ったんですか?
ラク うーん、やっぱり結婚の問題が大きかった。とくに営業職は結婚が早いんです。二六、七歳でほとんど上司の紹介とかで身を固める。僕が辞めたのは二九歳だったんですが、同期は二〇人ぐらいいたけど、その中で結婚していないのは僕ともう一人だけ。それ以外は全部結婚しちゃった。結婚しろという攻撃がすごくあった。
 それから、営業だからというわけでもないんだけど、僕が勤めていた会社はボーナスが出るとソープランドに行ったりするんですよ。だんだん私生活がゲイどっぷりになってくると、そういうのも苦痛になってきましたね。
マリー あ、あの……そういうところに行ってらっしゃったんですか。
ラク 行きました(笑)。会社御用達のソープが鴬谷にあって、大勢で行くから何時間待ちで、先輩がやった後に僕が同じ人とやって、またその後に後輩がやったりするの。
一同 えー!!
伏見 ゲイとしては、「憧れの○×先輩が入れたところに自分のモノを入れるんだぁ」とかいう状況に興奮していたりして(笑)。
ラク いや、それよりも、ちゃんとやらなきゃっていう気持ちが強かった。ちゃんとやらないとみんなにそのことが伝わってしまうんですよ。「あいつはヘタだ」「あいつはあっという間に終わった」とか、そういうのがまた酒のネタになるので、しっかりおつとめをしなければと。
マリー 軍隊みたい。
伏見 ちなみにラクさんのエッチの評判は、会社ではどうだったんですか。
ラク 僕のは、ていねいだ、という評判(笑)。一生懸命気を使ってたからかもしれないけど。ふつうああいうところだと、男は一人よがりセックスに走るらしいんだけど、ていねいだったから女の人には受けが良かったみたい。ただそれが終わって、「もうヤダ!」と思いながら二丁目のバーに行くと、ゲイの友達からは「そんなとこへ行ってきて汚い!」
っていう扱いを受けるんですよ(笑)。
伏見 そういう二重生活がイヤになったのが、辞めた一番の理由でしょうか。
ラク そうですね。あとはとにかく忙しい会社だったので、自分の趣味の時間がない。これはゲイだからそう思うのかもしれないけど、映画を観る時間もない。旅行へ行く時間もないし、好きなテニスをやる時間もない。お金はたまるけど、何をやるにも時間がないのに耐えられなくなってきた。それで、転職するんだったら、三〇歳前と思って。
 もともとゲイバーをやるつもりはなくて、三五歳ぐらいまでに資格をとって、四〇歳ぐらいまで修行をして、そこから会計事務所を個人開業をしようと思っていました。自分が社長の小さい事務所だったら、プライベートなことも、それほど気にしない環境で働けるんじゃないかとパートナーに話したんです。じゃあ、その道に進みましょうと決めて、会社を辞めたんです。それで紆余曲折あって、結局、いまの仕事を始めることになったんですが。

京大卒、
憧れは
ゲイ雑誌で
働くこと

伏見 では次にjunchan。大学時代からゲイ活動をしてたんですか。
junchan いまでこそ女装とかしてけっこうはじけてるんですけど(笑)、大学のときはすごく地味で、ゲイバーに飲みに行くこともめったになかった。二年生のときにいまのパートナーと知り合って、二人だけの生活が最初からあったので、あまり遊びに出る必要もなく、それで満たされていたんです。
伏見 そのときにさんざん二人だけの世界でやったから、いま二人より三人、三人より四人……ということで(笑)。
junchan だからゲイの世界って、学生の頃は実はほとんど知らなかったんです。ゲイナイトとかもあまり行ったことがなくて。昔からアートが好きで、映画や演劇とか、そういうサークルに大学時代は入っていたりしました。パートナーもそういったものが好きだったので、一緒に芝居を観に行ったりして過ごしてたんです。そのときは二人とも京都に住んでいたのですが、「やっぱり東京のほうがいいよね」ということになった。有名な歌手が来日しても、京都には来ない。そういう意味で断然東京のほうがいいということで、二人で上京計画を立てたんです。僕が大学卒業と同時に東京で就職して、そのとき彼も転職が決まってたんだけど、会社から待ったがかかって辞められなかったので、結局、遅れて二年後に来ることになりましたが。
伏見 業種に関しては?
junchan 僕はもともと学問を志して大学に入ったという変わり者だったので、あまりリーマンとかって考えてなかったんですよ。
マリー 大学に残ろうと思ってたんだ。
junchan 最初はそう思ってたんです。ですけど、勉強しているうちに、自分のやりたい学問というのがもう時代遅れで、イマイチ違うなということを感じ始めたんですね。それで、三年の終わりぐらいに学問の道はやめようと思ったんです。そうなると、OLじゃないんだけど、昼間はきっちり五時まで働いて、アフターファイブを楽しみましょう的な発想で就職口を探しました。本当はマスコミとか考えてたんですけど、NHKにしても新聞社にしても全国にあるでしょう。そうすると東京に必ず住めるとは限らないから。
マリー 転勤ってサラリーマンにとってはすごく大きな問題よね。
junchan やっぱり田舎に行っちゃうとつまらないんですよ。だから絶対職場が東京だけにしかないという条件で探して、たまたまゼミの女の先輩が勤めてた会社を紹介してもらったところが、金融系のシステム開発だったんですよ。僕は文学部だったんですけど、ふつう文学部ってマスコミとかお役所しか行き場がないじゃないですか。でもそこは情報処理だけど、文系でも全然大丈夫よという話だったので、じゃあ受けてみようかなと思った。「残業は月に三〇時間ぐらいです」って聞いたので、それぐらいだったら楽しめるかな、好きにできるかなと思って(笑)。
マリー どうして学生ってそんな話すぐ信じちゃうのかね(笑)。
junchan すごくバカだったんです(笑)。
伏見 ねぇ、よくわからないのだけど、残業三〇時間っていうのは多いの、少ないの?
一同 全然少ない!
junchan だって、それだったら一日一時間ぐらいじゃないですか。
ラク 月に一〇〇、一五〇時間で多い感じ。
junchan で、僕も、実際に入社してみたらさっきの条件は大ウソで、その三、四倍ぐらい残業しなきゃいけなかったんです。仕事も山のようにあって大変だったんですが、世の中のことを知らなかったので、とりあえずいいやと思って通っていたんです。金融系の体質はすごく古くて体育会系ノリなんですよ。仕事は情報処理で体質は銀行。だから、二重に厳しい。ソフトウェア開発は商品のクオリティが問われるから、絶対ミスがあったらいけないんです。例えばプログラミングとかは簡単で、二、三日で作れちゃうんですが、その後にテストがあって、一カ月ぐらいは作ったものでいろいろなケースを考えて、鬼のような単純作業のテストを繰り返す。それはすごくつらい作業なの。実際に本番でそれを動かしてるときにバグやミスがあったり、システムが止まったりすると大変な騒ぎで、仕事を全員中断して、みんなで一日中かかりきりになるような感じだった。上司とかが鬼のような顔をして「おまえはこれをやれ!」とか怒って、それが怖くて怖くて。
ラク もともとなにかを作りたいとか表現したい気持ちがjunchanはすごくあったのに、それがまったく反対の仕事だからよけいつらかったんじゃない。
junchan そう。ソフトウェアは作るという部分では表現じゃないですか。「自分のクリエイティビティも生かせるよ」という口車に乗っちゃったんですけど(笑)。でもはっきり言って、そんなものはないんですよ。
マリー 大きい組織の中ですからね。
junchan 僕がいた部署というのは、たまたま銀行内で一番厳しいと言われているところだったので、本当に鬼のような課長がいつも見張ってて、おしゃべりとかも全然できないんですよ。
伏見 それはオネェにとっては拷問じゃない(笑)。
junchan 本当に拷問。一挙手一投足が見張られてる、マシンになってるような感覚で、しかも昼休みも食後のお茶も、ずっとその上司と一緒で、ご機嫌をとりながら……。
伏見 OLと一緒にキャピキャピとかは?
junchan 本当は女の子の友達とたくさんおしゃべりしたかったのに、それもできず、ずっと上司に付き合わされていた。
伏見 ラクさんみたいなソープランドとかは?
junchan それはなかったんですよ。なんでかというと、すごく忙しいんで、みんなそういう暇もなかった。
伏見 勃たせる暇もない(笑)。
junchan そう。朝八時半に行って、帰るのが一一時、一二時みたいな生活。給料は銀行はどこもそうだと思うんですけど、最初の三年ぐらいは全然変わらないんですよ。それ以後はグンと上がるみたいなんですけど、僕は三年九カ月しか働かなかったから全然おいしいところはなかった。
 辞めるきっかけは、入社三年目ぐらいにUPPER CAMP(以下UC)というゲイの貧乏女装サークルと出会ってしまったから(笑)。もともとアート系が好きだったので、ダムタイプとの出会いでドラァグクイーンという存在を知り、「自分がやりたかったのはこれだったんだ!」と思っていた。それからゲイとしての表現活動をしたくて、バンドとかいろいろやってたんですが、なかなか「これだ!」っていうのに出会えなかったところに、たまたまUCにめぐりあってドラァグにはまってしまい、一気に目覚めちゃった。女装だけじゃなくて、ゲイの楽しさみたいなことに。
ラク ゲイバーやゲイナイトとか、銀行員のときは行ってた?
junchan 休みの日は芝居や映画を観に行って、あとはパートナーと過ごすみたいな生活をしていたし、平日は絶対に飲みに行ったりできないから。
ラク それじゃあ、東京に出てきていても、あんまり二丁目で遊ぶことはなかったんだ。
junchan 実はなかったんですよ。たまにタックスノットとかへは行ってたんですけど、意外と魅かれるものがなくて。いまでは自分でも不思議なんですけど。その後、急にパレードや映画祭に参加したりして、自分が今まで過ごしてきた世界が、いかにつまらなかったかがはっきりしてきた。いろいろ悩んだんだけど、辞めようと決心したときに、たまたま田舎から母親が出てきて、転職の話のついでにカミングアウトしちゃったんですよ。
マリー ダブルパンチ(笑)。
junchan それで泣かれたりしたから、親不孝だなとか思った。でもわりとうちは田舎にしてはリベラルなほうだったので、ゲイとゲイの親の会「PSG」が出してる『家路』という冊子を渡したら、それに紹介されてた本を田舎の本屋で買って勉強してくれてたりして、「わかった、好きに生きなさい」とお許しが出た。それで、ゲイに生きようって決心して、会社に辞表を出した。辞めるときは、「一身上の都合で……」で、やっぱり「オカマになります」なんて言えなかったけど(笑)。「田舎に帰ります」って、大ウソついた。「それじゃ仕方がないね」と言われて。でも僕も留められたんです。けっこう将来を期待されてたから。
ラク 真面目に働きそうだもんね。
伏見 辞めるときには次の職場は決まってなかったんでしょう。
junchan 決まってなかったけど、UCがゲイ雑誌の『バディ』の記事を編プロ的にやってた時期なので、並行してライターをやってたんですよ。それでホームページを請け負って作ろうとか、プロダクションを作ろうかなんて話もあったので、「じゃあ入る」って言ってしまった。当時はまだUCの主宰者がいかにいい加減かも知らなかったので(笑)。
伏見 またまた甘い言葉に乗せられて。
junchan そうそう、雰囲気に流されて安請け合いしちゃったんですよ。でも、「目標はバディの編集部員になること」って、実は決めてたんですよ。だからいま夢は叶ってるんですよね。
伏見 でもこの人、京大まで出てて、「『バディ』に入るのが夢」っていうのも、ちょっとねぇ(笑)。東北の田舎から京都大学まで行って、銀行へ行くなんて、一般的な意味での上昇志向じゃない。そういう自分と、女装をしたりとか、ゲイ雑誌で働くということの矛盾というのは本当になかったの?
junchan 就職の時点で、会社のネームバリューというのは一切考えてなくて、もともと腰掛けOLのつもりだったんで(笑)。
伏見 タカビー(笑)。出世欲はわかったけど、当時は性欲もそんなになかったの?
junchan なかったかもしれない(笑)。性欲もUCに入ってからかもしれない。

昇り詰めるためには
ゲイであることは
障害

伏見 マリーさんは、学生時代、ゲイ活動はしていたんですか?
マリー 私はすごくのんびりしていて、高校卒業後に本屋さんでゲイ雑誌を見つけて、「あ、これだ」と思ったのがきっかけ。それで、その文通欄で知り合った人とずっと付き合ってたんですよ。だから飲みに行くこともほとんどなかったですね。
ラク じゃあjunchanと似てるよね。
マリー そうですね。それだけで良かったんですよ。
伏見 ところで、ジョブ・ホッパーということですが。
マリー 大学三年のときにイギリスへ留学をしてて、帰ってきたときには就職活動はすでにスタートしていたんです。私たちのときはバブルがちょうどはじけた頃だったので、就職活動の資料請求を五〇〇通は送らないと、どこにも入れないみたいな状況があったんです。私が帰国したときには、みんなそれをすでに出してたので、すごくあせって、あわてて足並みをそろえようと出し始めたんですね。おかげさまで某商社に内定をもらいました。その部署は「英語が話せる人は、転勤がありません」「残業は少なめです」と言ってて(笑)、私もすごく単純な物差しで、一番条件的にいいから決めたんですね。その頃は、自分が何をやりたいかなんてまったく考えてなくて、本当に未熟で子供っぽかったので、ネームバリューがあって残業が少なくて転勤がなければいいかな、と。仕事は仕事と割り切って、それ以外のときは自由にやろうと思ってたんです。
 で、四月から入社するんですが、商社というのは仕事が始まるのが早くて、研修が一月からあるんですよ。毎朝、ほとんど行ってたんですが、入った時点ですでに合コンみたいな状況なんです。たくさん人をとる会社だったから、男性と女性で合コンしたり、週末は草野球の応援に来いとか言われるんですよ。それで、もう入る前からイヤになっちゃったんです(笑)。結局、そこは、四月に正社員になる前に辞表を出して辞めてしまった。
伏見 見切りが早い(笑)。
ラク それは野球が嫌いだったから?
マリー そうですね。野球のルールもよく知らないぐらいだから、本当につらくって、それで絶対ダメだと思ったんです。
伏見 野球のルールがわからないというのは、根っからのベッタラオネェ体質だよね。
マリー そうですね。打ったら三塁に走るっていう感じ(笑)。
伏見 でもそういうタイプだと、日本の商社はキツイかもね。
マリー 自分は留学をしていたので、英語が得意だからそれをいかそうかと単純に思ったわけですが、入社したら、「一応みんな四大を出てるけれど、とりあえず三年は配送作業をやってくれ」と言われたんですね。計算センターのようなところで下働きをさせられるんですが、それで「ああ、こりゃダメだな」と思った。三年間同じことをやってれば絶対にバカになるし、自分が使いものにならなくなっちゃうと感じたので、辞めてしまったんです。
 ただ、うちは母子家庭であまり裕福な家庭じゃなかったので、どこかに就職はしなきゃいけなかったんです。母親をあまり悲しませちゃいけないし。それじゃあ、英語が使える職業を探そうと思って、「ジャパン・タイムス」の求人広告でマーケティングの会社に応募したら受かって、めでたく四月からスタートできたんです。それで一年ぐらいアメリカの農産物の販促の仕事をしていたんですが、それもすぐにイヤになったので、一年で辞めました。上司がちょっと変わった女性だったんですね。すごくヒステリックで、私とはどうしてもうまくいかなかったんです。
伏見 上司との相性は一番の問題だよね。
マリー で、次はそれと対極的な仕事ですが、そのマーケティング会社に出入りしていた広告代理店の人が紹介してくれたブローカーの仕事なんです。金融のブローカーではなくて、その社長の家が昔から続く華族で、父親が交詢社に入っていて、霞ヶ関の人たちとゴルフをし、銀座ロータリーに出入りするような感じ。その人は自分のコネクションを使って、企業と企業の取引のコミッションをとるのに、相手を接待漬けにして仕事を取るということをやっていた。私はそのアシスタントをしばらくやっていて、そうしたら今度はそういう日本的なことがイヤになっちゃったんですね。
伏見 接待漬けのときにソープランドとかは?
マリー それはありませんね。交詢社でお食事をしたり、接待でも、「碁をおやりになりますか」「やります」「では今度三級をプレゼントします」というふうに碁の級を売り買いしたり、「霞ヶ関ゴルフクラブに入りませんか」と誘ったり、すごく官僚的な接待。自分は華族の出身じゃないから、絶対そういう世界には入っていけないなというのがわかりました。本当に紫の風呂敷にお金を包んでという世界だったんですよ。
 で、秘書的なことを半年ぐらい政治家のパーティに行ったりするような仕事をしていたんですが、そういうベタベタな日本企業がイヤになってしまったんですね。その後、アメリカのPR会社に入ったんです。そこはすごく自分に合って三年半くらいいた。仕事も好調で良かったんです。
 でも、その会社で学んだことは、私はもともとすごく負けず嫌いな性格だと思うんですが、結局、会社って、上に上がっていけばいくほど社内政治の世界なんですね。お互いに足を引っ張り合ったり、接待をした者勝ちで、仕事能力というよりかは、上司とうまくコミュニケーションがとれる人が残っていくわけです。それはどこの組織にもあることだと思いますが、私が耐えられなかったのは、男性として上に上がっていくためには、上司とそれこそソープランド的なお話もできないと障害が出てくることなんです。それは多分、組織にいる女性はみんな感じることだと思うんですけど、男性の上司と渡り合っていくためには、仕事プラスアルファがないと駄目。
伏見 へぇー会社ってそうなんだ。
マリー そこでは仕事も順調で、自分もこのままいったらあのへんまでは行けるというのが見えてたんです。アメリカの会社だったので、日本支社長の次がアジア・パシフィック、そしてワールド・ワイド……と見えてきたときに、あの人とうまくやるためには、ある程度女性の話もしなきゃいけないだろうし、本当に腹を割って話せるようなものがないと、昇り詰められないかなと思ったんですね。負けず嫌いだったからそれは本当に耐えられなくて、それが見えたときに潮時だなと思って辞めようと思いました。
伏見 じゃあいまの会社を設立するから辞めるんじゃなくて、先に会社に見切りをつけてたんですね。
マリー そうですね。要するにヘテロの組織でやっていくときのしがらみというのかな、自分のスタート地点が遅いということが、私には耐えられなかった。組織の中でどこまでも昇っていきたいタイプなので(笑)。
伏見 なんだか「ゲイが」というよりも、「女王としては」みたいね(笑)。
ラク 私の椅子はこんなものじゃないのよ、って(笑)。
マリー 外資系は男性が少ないので、男性は出世しやすいんですよね。だけど自分よりも仕事ができない男性が、上司との関係がうまくいって、将来自分より上にいるようなことがあったら耐えられないと思いました。
(続く)