2009-10-20

対談:岩松了×若手写真家 第3回●インベカヲリ★/本を読まずに写真を撮る

『溜息に似た言葉』とは?

『溜息に似た言葉』は、劇作家・岩松了が文学作品の中に書かれたセリフを抜き出し、セリフに込められた世界を読み解くエッセイ集です。
ただし、抜き出された言葉は、意味を重ねた数々の言葉よりも多くのことを伝える、ひとつの溜息に似た言葉──。

連載を単行本化するにあたって、岩松了が読み解いた40のセリフを、5人の写真家が各々8作品ずつ表現した写真も収録しました。
撮影後に岩松了と写真家が行なった対談は、対談の中で写真家が発した1つの言葉から描く人物エッセイ「写真家の言葉」として単行本に収録しましたが、ここでは劇作家・岩松了と若手写真家の生の言葉を掲載します。

第3回目、インベカヲリ★との対談は「本を読まずに写真を撮る」。『溜息に似た言葉』では、5人の写真家8作品ずつを担当してもらったのだが、インベカヲリ★だけが1作品も本を読まずに撮影を行なってきた。しかも、8人の女性を被写体にして。

溜息に似た言葉
すべての収録作品など、詳しくはこちら


写真家●インベカヲリ★

プロフィール

1980年 東京都生まれ。
2005年 日本広告写真家協会・APA公募展
     エプソン・カラーイメージングコンテスト
2006年 『取り扱い注意な女たち』(インベカヲリ★&出町つかさ著/インベカヲリ★写真/あおば出版)
2007年 新宿ニコンサロン「倫理社会」個展
2008年 大阪ニコンサロン「倫理社会」グループ展
     ロサンゼルス 「VICE PHOTO SHOW」
     バルセロナ「ARTZ 21 〜FANTASIA EROTICA JAPONESA〜」出展
     ニコンサロン三木淳賞受賞奨励賞
2009年 新宿・大阪ニコンサロンbis 三木淳賞受賞作品展  「倫理社会」グループ展
     六本木スーパーデラックス「Beau・ti・fied Ta・boo 2」出展

Web:http://www.inbekawori.com/

撮影した作品

「いつもと違うわ」
─『砂の上の植物群』吉行淳之介/新潮文庫
思い出せますか? 少女から女へ変わるとき、あなたはどんな反応を示したか

「じゃ私、なんの話すればいいの」
─『可愛い女』(『可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇』より)チェーホフ/神西清訳/岩波文庫
自分の意見がないとお嘆きのあなた。この小説を読めば、気持ちが変わる

「車の運転、習いたいなぁ」
─『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳/早川書房
相手を言い負かした後、背のびなどしてこんな科白吐く貴方はズルいだけか?

「目玉にする? それとも、ボロボロ?」
─『初舞台』(『初舞台 彼岸花 里見弴作品選』より)里見弴/講談社文芸文庫
あなた、彼との間に、ふたりだけしか通じない言葉をもっているのでは?

「私は今日、もう絶対火星にいくんだ!」
─『三月の5日間』岡田利規/白水社
ひきこもりだなんだというけど、そんなもの絶対あなたの中にもあるはずだし

「話をしながらご飯を食べるのは楽しみなものね」
─『濹東奇譚』(『ちくま日本文学全集 永井荷風』より)永井荷風/筑摩書房
底知れぬ女の色気は無自覚なうちに生まれるにちがいない

「何もおまえに許可してもらいたいんじゃないわ──結婚するにきまってるんだから」
嵐が丘(上・下)』エミリー・ブロンテ/田中西二郎訳/新潮文庫/絶版/新訳版あり
矛盾を惜しげもなくさらすオンナも魅力は魅力だが、先はいばらの道と心せよ

「好きになってしまったんでしょう」
─『本格小説(上・下)』水村美苗/新潮文庫
人の恋愛は誉めるのもけなすのも難しい。秘めたるそれならなおのこと


対談●本を読まずに写真を撮る

岩松 インベさんの写真は全部女の子がモデルですけど、どうやって選んだんですか?

インベ 自分のホームページでモデルをやってくれる女の子を募集していて、いつでも撮影させてくれる女の子が沢山いるんですよ。その子たちの身長とかプロフィールが書いてある一覧があるんです。こういうセリフを言うのはこういう女の子だよな、というのを選んで、その女の子たちの中から選んだんです。

岩松 『三月の5日間』の女の子はかなりインパクトあるね。ホキ徳田みたい。8本を見ていくと、わりとぷっくり系の人が多いですけど、そういう人が好きですか?

インベ そんなことも…。でも、言われてみればそうかもしれないですね。

岩松 女のどういう面が好きですか?

インベ 割と複雑な内面を持っている人、浮き沈みがあったりする人を好んで撮っているんですけど、顔にそれが出ている人が好きですね。顔のいい悪いはそんなに気にしないんですけど、内面が目つきとかに出ている顔を撮りたいと思います。賢そうな目というか、すごくものを考えていて、その、今まさに何かを考えているときの目を、色っぽく撮るのが好きです。

岩松 さっき『三月の5日間』の女の子をホキ徳田と言ったけど、インベさんの写真は70年代っぽい印象もちょっとあるよね。僕らが学生時代に先を走ってた女の子のような印象があるかもしれない。モデルの女の子達は、普段は知り合いじゃないんでしょ? 電話して「これこれこうで」と言って会いに行くんですか?

インベ 色々ですね。最初に応募のメールをもらってから2年くらい撮らない人もいます。撮りたい気持ちはあるんですけど、何となく今じゃないというか、「じゃあやりましょう」という決断がずるずると出来なくて。撮ってみたら「何で今まで撮らなかったんだろう」と思ったりもするんですけどね。

岩松 インベさんの家に、ファイルみたいなのがあるんですか?

インベ あんまり整理するのが得意じゃないので、パソコンに入れてあります。100人はまだいっていないくらいです。

岩松 そもそも写真を始めたのは、どれくらい前ですか?

インベ 20か21なので、7、8年前ですね。それまでは学生で、短い期間編プロで働いて、その後に写真を始めたんですよ。

岩松 写真は、編プロで働いているうちに、「そっちの方が面白い」ということになったの?

インベ 編プロは、「才能ないから、辞めるなら早い方がいい」とか言って辞めさせられて(笑) 自分では書く方が好きだったんですけど、編プロ時代に唯一誉められたのが写真を撮った時で、辞めたときも、別にやりたいこともないし、すぐに転職する気分では全然なかったので、「なんか写真展でもやるか」と思ったんです。家の近くに展示の出来るカフェがあったので、そこで展示をしたのが最初です。

岩松 それは知り合いの喫茶店だったんですか?

インベ 知り合いというか、何度も行っていたところで。

岩松 じゃあ、行き当たりばったりではなかったんだね。その時は写真はかなり大量にあったの?

インベ いや、全然撮ってなくて、写真展の日程を決めたら撮り始めるだろうと思って……。

岩松 そこで何となく手応えがあったんだ。

インベ 最初から結構手応えがあって、「これまで何をやっても評価されなかったのに、こんなに簡単なことで人が興味を持って声をかけて来たりするんだ」と思って。だから、ただ続けてた、という感じですね。止めなかったというだけで。

岩松 続けている間、考え方は変わって来ましたか?

インベ そうですね。最初は本当に、自分が「こういうように撮りたいな」と思ったものにモデルをはめて、演技をしてもらって作り込む写真が多かったんです。でも最近は、「このモデルだからこういう写真になった」というものじゃないといけないと思うようになりました。その人の人間性が、より活きるように。

岩松 対象に対して、対応出来るようになったということだね。
自分で「書くのが好きだ」と言うくらいだから、本を読むのは好きなんでしょ?

インベ そうですね。たまに。あんまり読む方ではないと思うんですけど、ドキュメンタリーとか実話が好きで、『救急精神病棟』という本は面白かったです。

岩松 僕はドキュメンタリーってほとんど読んだことないんだけど、一番ショックだったのは『宿命』かな。それは完璧にドキュメンタリーなんだけど、よど号をハイジャックして北朝鮮に行った人たちの話で、本当に怖かった。

よど号のハイジャック犯のグループを、駒込の喫茶店でたまたま目撃した一人の女の人から始まる話なのよ。ハイジャックをした人たちの色んな末路が書いてあるんだけど、その中に例えばこういうエピソードがあるんです。

よど号のハイジャックの時に、人質の代わりに大臣が一人だけ身代わりになったんですよ。「自分一人を人質にして、他の人たちを解放してあげろ」ということで。その大臣が人質になった後無事に戻って来て、日本でヒーローになったわけ。空港に凱旋して来た時に、母親に抱かれた生まれたばかりの子どもと一緒に写っている写真があるんですよ。その後何年も経てから、この大臣が北朝鮮に改めて行く日があって、さっきの小さい女の子はもう20代の大人になっているんですよ。正確にはわからないけどね。その、大臣が北朝鮮に行くという日に、この女の子が父親を殺してるんですよ。その描写が、600ページくらいの単行本のうち、たった1行しか書いてない。何があったかとかは書いてないのよ。なぜそうなったのかもわからないし。

拉致問題についても、全部書いてあるのよ。フランクフルトでどうしたとか、アムステルダムでどうしたとか、奥さんたちが向うに行って、向うのバックパッカーみたいな人に動物園で声をかけたとか。一人気が狂ってベランダで変な歌を歌い出した人がいるっていう話とか、「何故そこまで書けるだろう?」というくらいのところまで書いてあって、この人はよくここまで調べた書いたなって思った。「ここまで書いちゃやばいだろ」というくらい。

ただもう、滅茶苦茶興奮する本で、これを読んだ時にはとにかく色んな人に勧めて。デザイナーの知り合いの本を良く読む人に勧めたら、600ページの文庫本を一晩で読んだって言ってた。僕はたまたまそれを手に取ったのが、それこそ宿命、みたいな……(笑) 『西へ行く女』という本を書いた頃だから、2003年頃かな。

インベさんは写真以外で、好きなものはあるんですか? フットサルが好きとかさ。スポーツはやらないでしょ?

インベ いや、身体を鍛える程度だったらやります。ジムだったり、プールだったり。

岩松 あ、プール行くんだ? 俺もプール行くんだよ。

インベ でも私は泳げないので、水の中で踊ったり歩いたりとか。

岩松 俺もあんまり泳げなかったんだよ。でも一人でやってるうちに、泳げるようになったよ。自分でマスターしたの。インベさんは、歩くだけなんだ? 俺が行くジムは歩くのは別のところがあって、コースは泳ぐのだけだから、最初歩いて、泳いで、最後もう一回歩いて上がって、お風呂に入る、みたいな感じ。

インベ 身体を動かすと、やっぱり気持ちが楽になりますよね。

岩松 「だから、人間身体動かさないと駄目」ということに、ある時気づきますよね。人は簡単に鬱病になるんだ、と思うと、その前に身体動かさなくちゃ、と思う。7年前、僕は初めてその自覚を持って、毎日プールで泳いで回復した記憶があってね。

「脳ドックに行った方がいい」とか色々言われて脳ドックに行ったら「一週間後に来てください」と言われたんだけど、その時は大阪でひと月くらいの仕事があった。それで、「自分で出来ることは何だろう」と考えて、「もう泳ぐことしかない」と思って。精神を直すためにね。

毎日ホテルの脇のプールに、朝起きて9時半くらいに行ってさ。「ほなそやでー」みたいな声が飛び交う中で、独り泳いで。ひと月ずっと演出の仕事だったから、泳いで演出に行って、ちょうど良い天気が続いていたから、一時間の休憩は公園のベンチに座ってずっと青空を見て、戻って演出をして、終ったらすぐホテルに戻って、また泳いで。ひと月くらい続けてたら何となく回復していった。

横浜に戻って来てからもずっと続けてたんだけど、ホテルだとすぐ横だけど、家からだとちょっと歩かなきゃいけないでしょ? それが面倒くさくなっちゃって、だんだんね。今年の頭くらいになって、「やばい。これは泳がなくちゃ」となって、また近くのプールで泳ぎ始めたんですけど。

だから練習をすれば泳げるようになりますよ、多分。少しは泳げるでしょ?

インベ 10年くらい泳いでないので、勇気がなくて。周りの人はみんな上手だし。

岩松 でも、パタパタくらいは出来るでしょ? 10メートルは泳げる? とりあえず25メートル泳げれば、端から端まで行けるじゃない? 俺なんて25メートル泳いだら休んで、25メートル泳いだら休んで、っていう泳ぎ方してるから、1日に泳いでるのはせいぜい200メートルくらいかな。

でも、水泳のオリンピックとか見てると、すごい軽く泳いでるでしょ? ずっと「何でああやって軽く息継ぎ出来るんだろう?」と思ってたんだけど、7年前に、何故ああいう風に上手く出来るのかが自分でわかったときには、自分で自分を誉めましたよ(笑) 「えらい!」と思って。手をかく時に、下でもどかしく手を動かせば軽くなるんだ、と発見出来た。

インベ 単純なことですけど、出来なかったことが自分で出来るようになると、嬉しいですよね。

岩松 そうそうそう。自分でわかってきたのが嬉しいよね。だから本当はもっと違う正統的なものがあるのかもしれないけど、自分なりにそれを死守しているというか、まったく自分のペースでつかんだことだからね。

…………

岩松 今回、写真を撮りながら感じたことってありますか?

インベ 今回、元の本は読まずに岩松さんのエッセイからイメージをふくらませて、「こういうセリフを言う人間は、こういう顔をしているだろう」という女の子をモデルにしたんです。本を一冊も読まなかったので、私が撮ったものと本の内容がズレているものもあるだろうな、と思ったんですけど、でもそれが逆に面白くなるかと思って撮りました。

岩松 みんな、おおむねズレているといえばズレているよね。高橋さんはズレていなくて単刀直入なところがあるけど、それはそれでおかしい。

特にインベさんみたいに人物が入ると、人物の印象が大きいからね。セリフを言った小説の中の人物と、インベさんが撮った人物が、どうしてもズレていると感じたりもする。でも、そもそも昔の小説が大半だから、現代の人とはリアルにシンクロしなかったりするじゃないですか。

インベ そうですね。年齢も、登場人物と全然違うので。でも、私みたいなのってちょっとやり過ぎだろう、とも思うんです。それは「色んな読者が強制的にこの意味に持って行かれちゃう」という意味で作り過ぎだと思うんですけど、書いた岩松さんとしてはどう思われるんですか?

岩松 でも多分、読者は僕が把握出来ないことを感じると思うから。僕が思わないことを読者は思うかもしれないし、投げかけるような感じですよね。「こういう風に考えた人がいるんだけど」って。

だから、僕が写真に対して色々言い出すと、だんだん話とシンクロして、全部説明説説明みたいになってたかもしれないし、かけ離れていると言っても、そんなにかけ離れていることにはならないと思うんだよね。

高橋さんという男の人は、割とストレートに写真を撮ってくれたんですよ。お金のセリフだと、ボンとお金が出て来たりね。それはそれでおかしいし、「この写真?」というのも、時間をかければ、もしかしてジワジワくるかもしれないし、どっちが良いのかは、ちょっとわからないですね。

逆に、「そういう面白さが、この本にあるんだ」と考えた方がいい。5人の写真家はそれぞれタイプが違うしね。
他の人は全部作品を読んだと言っていたけど、インベさんは、この中で一個も読んでないんですよね? 一番短くて簡単に読めるのは、何だろうな……。

インベ 『三月の5日間』だけ読み始めたんですけど、全く理解出来なくてすぐ止めちゃいました。

岩松 『濹東綺譚』が一番わかりやすいんじゃない? あと『可愛い女』も短いかな。小説は普段読まないんですか?

インベ たまに読みますけど、基本的には読まないですね。自分で面白いものを探そうとすると、かならず失敗する傾向があって。

岩松 でもたまには、成功するのもあるんでしょ? それは何かありました?

インベ この前直木賞を取った、桜庭一樹の『私の男』ですね。

岩松 なるほど。

●対談を終えて

文:インベカヲリ★

その日は、岩松さんと私が対談を行うという日だった。前夜、私は岩松さんのエッセイ本『食卓で会いましょう』を読破し、その面白さに感動し、ある程度話す内容も想定して対談へと挑んだ。

が、ふたを開けてみれば私が話そうとしていたことは、悲しいほどに質問されないのであった。岩松さんはマイペースに自分の話を織り交ぜながら、私だけではなく編集者を含め4人で会話を進めている。あまりにも想定していたことが聞かれないので、自分から今回の写真について話をしてみるが、それに対してもあまりリアクションされないという始末。むむ、私があまりにもつまらない人間なので、興味をもたれていないのか。時間が進むにつれて不安にかられはじめた。

対談も終盤に差し掛かると、今度は編集者の方から「岩松さんに聞きたいことはありますか」と問われた。私はここぞとばかりに昨夜読んだ『食卓で会いましょう』についてどう思ったかを話してみた。何の回が特に好きだとか、自分もあんなふうに日常の一コマを細かく切り取って面白く書いてみたいと思ったことなど。岩松さんはニヤリとしたが、特に私の感想に興味はないといった風にもとれた。私は、だんだん自分の言葉が安っぽいように感じてきて、ひどくうろたえた。こんな誰にでも言えるような台詞では、賢さも何も感じられない…。どうしよう。そして自分の名刺に「写真・文筆」と入れていることを思い出し、なのにその程度の言葉しか出てこないのか、と岩松さんに笑われているような気がして、目をそらしてしまった。つまり宙を見ながら相手を絶賛するという、とてもアンバランスな状態が出来上がってしまったのだ。まずい。これじゃ大物相手にこびへつらって、下手なお世辞を言っているような構図ではないか。違う。そんなんじゃないのに! どうしよう、誤解されたら。

脳内を激しく右往左往させたのち、結局、私はある結論にたどり着いた。そう、岩松了さんという方は、演出家であり俳優であり作家なのであり、私のような若輩者よりもずっとずっと長い年月をかけて、人間という生き物に焦点を当てて仕事をしてきた人物なのだ。私が考えていることなんて丸々お見通しに違いない。それこそ会った瞬間、どんな性格で、どんな家庭環境に育ち、何にコンプレックスを感じているかぐらい手にとるようにわかるのだろう。だから私が今話そうとしている本心と、それに失敗して困惑している理由も、丸透けなのだ。どう取り繕ったって、取り繕うだけ無駄じゃないか。ならば正々堂々と困惑した顔を見せていればいいのだ。なんだシンプルじゃないか。はっはっは。
と思うことにして、この場を切り抜けた。

結局、話が弾んですっかり打ち解けた、という状態からは程遠く、いったいどんな文章を書かれるのかまったく想像がつかないままに、対談を終えたのだった。

「では」「そうですね」という感じで、皆が一斉に席を立つと、岩松さんは「ちょっとトイレ」と言って、一人スタスタと部屋の奥へ行ってしまった。私はそのことの意味について考えた。これは帰る時間をズラすための時間差攻撃だろうか。岩松さんがトイレから戻ると、すでに私は編集部を出ているというのが理想的なのだろうか。いやでも、正式にお別れの挨拶をしないまま勝手に帰るというのは失礼に当たる。熟考したのち、岩松さんを待つことにした。

そして戻ってきた岩松さんと私は同時に編集部を出て、必然的に駅までの長い長い道のりを一緒に帰ることになったのだ。

問題はここからだった。

岩松さんは、一緒に帰っているのか、バラバラに帰っているのか、そのどっちとも取れない微妙な距離、約2メートル先をスタスタと歩いているのだ。ちょっと待ってくれ!せめてどっちかに決めてほしい。むう、と悩んでいると、ふいに岩松さんが話しかけてくる。

「インベさんはタバコは吸いますか?」

それは編集部にいた約3時間、一度も吸わなかった人間への質問であった。案の定、会話は二言三言で終了し、長い沈黙へと突入した。3分…5分…。時間がたつにつれて今度は、岩松さんの背中から、あろうことか“何を喋っていいかわからない! 今困っている!”というオーラがモクモクと立ち込めはじめた。なんてこった。私は何か話題を振ってみなければ、と思ったが、微妙に離れた位置にいる岩松さんに話しかけるのはとても勇気のいることだった。どうしよう。そもそもこんなに惜しげもなく気まずい信号を出してくる大人がいるものだろうか。まるで不器用が服を着て歩いているようではないか。対談のときはあんなに堂々としていたのに。これは…なにか裏があるかもしれない。不安に感じていると、唐突にまた、岩松さんは話しかけてきた。

「インベさんはあれですか。写真を撮るときはいつも自分で場所を考えるんですか?」

と言ったかどうかは忘れたが、とにかくそれは間を持たせるためのどうでもいい話そのものであった。よし! これをきっかけに会話を盛り上げようと気合を入れて答えたものの、「あ、そうなんだ」という、これまたどうでもよさそうな返事とともに会話はあっけなく終了した。そして私は確信した。これは岩松さん流のいつもの意地悪な実験なのだと。そもそも『食卓で会いましょう』に描かれていることは、まさにこのような場面じゃないか。岩松さんは人の行動や会話から、あらゆる想像を練り上げて文章を書く人である。今この瞬間、まさに岩松さんは、「会話に困った気まずい二人が、駅までの長い道のりをテクテク歩く」ということがどういうことなのかを分析しているのだ。そして私の出方を観察し、楽しんでいるに違いない。沈黙に耐え切れなくなった私が困った顔をし、無理やりに作った話題を振る、その愚かしいまでの気遣いを心の中で笑ってみているのではなかろうか。その結論は私の中でどんどん確信を帯びていき、ならばその通りにさせてはならぬと堅く決意させた。私はカっと前を見ると「無言なんてちっとも気になりません」といった体を装いながら、ズンズンと駅までの道を歩き続けた。

そしてついに道は二手に分かれた。どっちの道を通っても、原宿駅へ向かえるという場面である。岩松さんは立ち止まるとこう言った。

「竹下通りから帰りますか?僕はまっすぐ帰りますが、こっちからでも駅はありますよ」
なんと、私に選択肢を与えたのである。なんてズルい大人なんだろう。
私は迷ったが、この沈黙ゲームをいつまでも続けるのは耐え難いと判断し、「竹下通りから帰ります」と、別方向を選択した。

すると岩松さんは、「え? あ、そうなの」と、意外な顔をして「ではお疲れ様」というのであった。やられた!! このまま歩き続けたら、何か答えを用意されていたというのか。別の展開が待っていたというのか。これじゃまるで、ことのてん末を見る前に私が逃げ帰ったようではないか。なんてことをしてしまったのだ!!

私は後悔に悶々と包まれながら竹下通りを歩くうち、どっと疲れが出てパスタ屋へと逃げ込んだ。

妙に脂っこい1000円のペペロンチーノを食べながら、とことん自分がダメ人間のような気がしてきて、ひどく落ち込んだ。


溜息に似た言葉─セリフで読み解く名作

溜息に似た言葉
著者●岩松了
写真●中村紋子、高橋宗正、インベカヲリ★、土屋文護、石井麻木
定価●2,200円+税
ISBN978-4-7808-0133-0 C0095
四六変型判 / 192ページ / 上製

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