2009-10-20
お部屋1962/「作家」という肩書き
前々から「やれ」とせっついていた「実話ナックルズ」の編集部ブログが始まりました。当面は久田編集長が書くようです。懐かしい話もいろいろ書かれています。一度お立ち寄りください。
なんの反応もないとやる気が失せそうなので、浸透するまではできるだけ私がコメントを書いておこうと思ってます。
さて、「1954/唐沢俊一の肩書き」を「続きます」で締めて、そのままになってました。続きを軽く書いておきます。
物書きの名刺を一通りチェックしてみたのですが、もっとも多いのは、「肩書きなし」です。私もそうです。
「肩書きなしで、オレのことを理解しろ」という姿勢自体、傲慢とも言えるのですが、私の場合、ライターはろもろの仕事のひとつとして始まったため、その自覚が遅れてついてきたとの事情があり、肩書きなしが続いてしまってます。
肩書きがついている中でもっとも多いのは「ライター」「フリーライター」。妥当です。正確に数えたわけではないですが、カタカナ表記より、「writer」「free writer」「freelance writer」の方が多いかもしれない。
続いて多いのは、仕事内容を具体的に説明するものです。単に「執筆」と書いている人もいますし、「企画・構成・文筆」といったようにいくつかの言葉を並べている人もいます。
橋本治氏は、世間的には「作家」と認知されているでしょうけど、名刺には「取材・文」とあります。私がもし入れるなら、こういったものになりそうです。
会社名や役職を肩書きにしている人たちもいます。編プロに所属していたり、経営していたりする人は会社名を大きく名前の横に書いている場合があります。電話だって会社名で出るのですから、この場合は所属を明確にした方がよく、銀行などとの取引の際は、会社名を出して、代表であることを示した方がいいので、こういう名刺にする意味があります。
また、「日本作家クラブ」「日本文芸家クラブ」といったような団体名を大書している人たちもいます。どんな団体がよくわからないです。
ごく少数ながら、「売文業」のように、自嘲的な肩書きもあります。こうしたくなる気持ちもよくわかります。
で、「作家」になっている人は唐沢俊一以外に三名いました。
その一人は故・見沢知廉です。この名刺をもらった時には、すでに『天皇ごっこ』『囚人狂時代』が話題になっていましたから、作家と見なされる存在だったとも言えますし、「人を殺した右翼活動家」というイメージを払拭するために、あえて「作家」という肩書きを渇望した事情はわからないではない。名刺だけでなく、作家として扱われることを本人が強く望んでいた印象も私にはあります。
あと二人の名前は伏せておきますが、一人はさしたる知名度があるとは言えないながら、小説や戯曲を書いていて、賞も受けていますからまだしもとして、もう一人は、コラムニストといった扱いの人ですから、私には無理がある肩書きのように見えます。
それぞれ、やっている内容、地位、評価などにともなって、「違和感の程度」は違いますが、客観的な見方とズレて、自分で名刺に「作家」と入れる人たちには、共通する内面がありそうにも思います。権威が欲しいってことです。
権威があるからこそ、「作家」と呼ばれたがる人たちは決して少なくないようで、「作家」という肩書きに異常に固執する男の話が、こちらのブログに出ています。同じような立場にある人が「作家」と名乗ってくれないと、自分も「作家」であると言いにくかったのでしょう。ねじれた形で他者の承認を欲したのですから、この彼は唐沢俊一よりいくらかは奥ゆかしいと見ることもできます。
ここからは若干の飛躍があるかもしれないですが、唐沢俊一は、「やむにやまれず書きたいことがある」「人に伝えたいものがある」という思いが「書く衝動」になっているのでなく、「作家になりたい」というのが物書きになった動機になっているのではないかと想像したりします。だから、人の文章をコピーすることにも抵抗がない。
ある素材があった時に、「どう自分なりの視点で組み立てて文章にするか」というところに物書きとしての快もプライドもないのでしょう、おそらく。さもなければ、ああもパクリとガセをやり続けていることを説明できない。
単に「作家」という肩書きからそこまで言っているのではありません。「もういらないので」と『唐沢俊一文筆業サバイバル塾 vol.5』という冊子を送ってくれた方がいらっしゃいます。
一読した印象は「ライターという職業について語っているのでなく、自分について語っているだけ」。客観的にライターというものを分析して語る視点が欠落していて、自分のやってきたことを「正解」として語っているだけです。
唐沢俊一が目標になるような人を相手にするのであればこれでいいのでしょうが、ここで唐沢俊一が語っている方法とまったく別の方法で文筆を続けている人たちの例を私はいくらでも挙げられます。
私の担当編集者の知人で、この「サバイバル塾」を受講した人物がいまして、彼はライターになりたくて、唐沢俊一のことをよく知らないままに受講したらしいのですが、思っていたものと違っていたので、すぐにやめたとのことです。唐沢俊一自体を肯定できる人じゃないと、何の意味もないでしょう。
『博覧強記の仕事術』に対する以下の評も同じことを言っているのだと思います。
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/8747126.html
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『唐沢俊一の仕事術』という感じで、唐沢俊一に興味の無い人には有害図書です(笑)。
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表現という行為は、自己承認の欲望と密接に関わっていますが、唐沢俊一はその欲望が過剰な人だと思えます。
kensyouhanさんの「唐沢俊一の最終目的地は?」の問いに答えるなら、書く内容はどうでもよくて、「自分が認められること」「自分が作家扱い、先生扱いされること」となりましょうか。
ナックルズプログへのコメント、ありがとうございます!この作家という肩書については、松沢さんとまだ会って始めくらい(ワニマガジン社時代)に色々話した記憶があります。「作家だと偉くて、ライターだと一段下がる」と思っている人たちがいる、と。でも映画の「ミザリー」なんか主人公はいわゆる作家なのに「ライター」名乗っていましたしね。僕も作家と言われている人たちから作家という名刺を頂いたことがありません。でも名刺入れを探ってみると、ありました。名前を出すとかわいそうなくらい、無名の人です。でもかれこれ50半ばになっているのかなあ。
あと、名刺にやたら肩書きが多い人、いるじゃないですか。あれも名刺に作家って刷る人の感覚に似ている気がします。創出版の篠田さんなんですけど。前にもめた時に名刺交換したんですが、「創出版編集長」「創出版社長」「日本ペンクラブ言論委員会委員長(だっけ)」「マスコミ就職読本編集長」「早稲田大学講師」だった気がする。これって自信の無さの裏返しか、コンプレックスの裏返しか、権威が好きなことの裏返しだと僕は思っています。
そうそう、あの時に久田君も、具体名を挙げて、作家と肩書きに刷っているライターを教えてくれましたっけね。
「ミザリー」の主人公は、売れっ子作家なのに、ライターと自称しているというのは、オレが教えたんじゃなかったけか。翻訳もそうなっているし、原著もそうなっているはず。
篠田さんと揉めたのは、オレが原因だったかな。お世話になりました。
「ミザリー」の主人公の肩書きを教えてくれたのは松沢さんでしたね。あれで色々考えさせられました。ちなみに単行本に自分の名前の前に作家ってつけている人もいます。その人、怖いっす。
篠田さんの件はその通りです。松沢さんが原因でした(笑)。その際はお疲れ様でした。
やっぱ作家と名刺にする「先生」とおんなじメンタリティーって感じがするなあ。
ちなみに、元週刊現代編集長元木昌彦さんの名刺は「編集者」だけです。上智や法政で講師とかやっていらっしゃるんですけどね。潔くて好きです、ああいう名刺。
単行本の略歴などに作家と入っているのは、実際には自分で書いていても、体裁としては、本人の自称ではなく、客観的評価ってことになっているので、まあいいんじゃないかと思いますけどね。「好評連載中」「最新刊が絶賛発売中」なんてことも書いたりするわけですし。私はこれも書かないですが、編集者が書いている場合はわざわざ消したりはしないです。
言葉足らずでした。略歴ではなく、背表紙と表紙に「作家 〇〇〇〇」と入っていたんですよ~。そんな本も見た事なかったんでびっくりしました。
その人、遠目に見ただで面識はないけど物凄いややこしい人です。松沢さんもご存じの人じゃないでしょうか。
へえ。そこまでいくと、編集者の仕業だとしても、「おいおい、ちょっと待て」って言いたくもなりましょうね。案外、自分で入れていたりして。
久田君が面識のない「物凄いややこしい人」って、誰だろ。オレ自身がややこしいので、誰がややこしいのか、よくわからん。